アートという“悪魔”に祝福された夫婦の記録 篠原有司男&乃り子
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岡本太郎(1911–1996)が「ひたむきなベラボウさ」と激賞した伝説的アーティスト、篠原有司男(うしお)と、21歳年下の妻、乃り子(のりこ)。アートの最前線ニューヨークで活動を続ける夫妻の“愛と闘い”の日常をとらえたドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』(ザッカリー・ハインザーリング監督)(※1)が、世界各国で評判となっている。2013年のサンダンス映画祭ドキュメンタリー部門で監督賞を受賞、2014年のアカデミー賞でも長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた。
アートの道を志して半世紀。知る人ぞ知る存在だった彼らの姿がなぜ今、人々の心をとらえるのか。創作に賭ける熱意、海外へ渡った理由、表現者として生きる意図とは。映画公開と展覧会(※2)を機に来日した2人に話を聞いた。
世界を目指した“伝説”の前衛芸術家
「アートというものは、デーモン(悪魔)なんだよ」と、その男は言った。
篠原有司男、通称“ギュウチャン”。1950年代、パンクという言葉が生まれるよりもはるか昔にモヒカン刈りで一躍、メディアの寵児となった男。
1960年に前衛芸術グループ「ネオダダイズム・オルガナイザーズ」を結成し、街中を半裸でのたうち回る過激なパフォーマンスを敢行。布を巻き付けた両拳を墨汁に浸し、壁に打ち付けて絵を描く代表作「ボクシング・ペインティング」の様子が、ウィリアム・クライン(※3)の歴史的写真集『TOKYO』(1964年)に収録されるなど、独自の芸術表現でメディアを賑わせ続けた。
しかし、1969年にニューヨークへと渡ってからは鳴かず飛ばず。画材を買う金もない中、路上に捨てられた段ボールを拾い集めて作ったのが、代表的なシリーズとなる「オートバイ彫刻」だった。それ以来40年以上もの間、己の信じる“前衛の道”を突き進んできたのだ。
篠原有司男 とにかくアメリカのアートに憧れてたね。60年頃はポップアートがまさに全盛期で、美術雑誌の記事を夢中になって読みふけっては、「俺もやるぞ!」とエキサイトしていたわけ。それで、覚悟を決めてニューヨークに渡った。1年間の奨学金が切れた後はもう、カネもない、コネもない、何もない。それでもアートのデーモンに引きずられながら、全力でドン!とぶつかってそのまま突っ走ってきたんだよね。
篠原乃り子 突っ走るも何も、日本に帰るお金がなかったからそうせざるを得なかったんじゃないの。よく「アートと格闘してきた」って言われるけれど、私たちの場合はリビングが格闘。生きていくこと自体がサバイバルなんです。
有司男 俺が乃り子の貯金通帳を狙って結婚したんだろ、って話が定番になってるけどさあ。
乃り子 だってホントじゃない。
有司男 同じ屋根の下で同じように絵を描いて暮らしてるんだから、貯金通帳だって同じでいいだろ。
乃り子 ほらね!こうして日本から私への仕送りは全部、自宅兼アトリエの家賃のためになくなってしまったのよ。
有司男 アーティストである以上、制作する場所はデカくなきゃ絶対ダメだよ。アメリカじゃ、イメージのスケールが小さいということはゴミ同然なわけ。何しろ、世界のアートの中心なんだから。そこにしがみついて、他の奴を蹴落として、頂点にいるアンディ・ウォーホル(1928–1987)やジャスパー・ジョーンズ(1930–)に追いついてやる、という意気込みでなければ、とてもやっていけないよ。
ジェラシーまみれの家庭内アート活動
高校卒業後の1971年、1ドル360円の固定相場が崩れたタイミングでニューヨークへのアート留学を果たした乃り子は、当時まだ19歳だった。半年後に有司男と出会い、74年には息子のアレキサンダー・空海を出産。ここから彼らの長きにわたる“愛と闘い”の日々がスタートした。
有司男 僕と乃り子、さらに息子のアレックスと、家族全員がアーティストなわけだから、そりゃあ凄まじい毎日だよね。共同制作なんてとんでもない、個性もジェネレーションも全然別々だから。乃り子の評価が少しでも上がると正直、ムカーッ!と来る。でもそれで正しいんだよ。イサム・ノグチ(1904–1988)だって、創作のエネルギーはどこから湧いてくるのかと聞かれて「ジェラシーだ!」って言ったんだから。
乃り子 ギュウチャンのジェラシーの強いことと言ったら! 今回の映画だって、最初はギュウチャンに焦点が当たっていたんだけど、ザック(ザッカリー・ハインザーリング監督)が私の作品に感動して、後半は私だけ撮影して帰ることもあったわよ。ギュウチャンが「あれ、ザックはもう帰ったの?」って聞くから、「今日は忙しかったみたいよ」ってごまかすしかなかったの。
夫婦、そしてアーティストとしての苦闘の記録
「凡才は天才を支えないとね」と有司男は言う。確かに映画の前半では、妻であり、母であり、時には制作のアシスタントとして有司男を支える乃り子の姿が映し出される。しかし後半は、乃り子が自らの分身“キューティー”を主人公に自身の半生を描くドローイングがストーリー展開の重要な柱になっていく。
有司男 監督のザックなんて、当時まだひょろひょろのハンサムボーイで、もたもたしてるわけよ。僕なんて海千山千だからさ、こっちで演技してリードしてやるの。「よーし乾布摩擦でもやるか!」って服をババーッと脱いでイッチニ、イッチニってやってみせたりさ。
乃り子 アーティストはエキシビショニスト(露出狂)でしょ。カメラで撮られることくらい平気じゃないといけない。それにギュウチャンなんて、“芸大マスコミ科卒業”って言われるほど、マスコミを相手にしてきたわけだし。でも、そうやって演技したところは全部カットされちゃった。撮影に4年以上かけて、使ってるのはほとんど最後の1年間だけ。最初ザックは週に1〜2回うちに来ては、床とか流しとか、猫の尻尾なんかを撮ってるもんだから、この調子だと10年経っても映画なんてできるわけないと諦めてたのよ。
撮影を始めた頃、ザッカリー・ハインザーリング監督はまだ24歳。そこから約5年もの歳月をかけて信頼関係を築き上げながら、夫婦の物語を紡ぎあげていった。
乃り子 そのうちに、ザックの存在はうちの中の家具と変わらないくらい、まったく気にならないものになっていった。私が心を開くのに時間がかかったってザックは言うんだけど、私に言わせれば、彼の成長に時間がかかったせいもあるわけよ。
有司男 そう、僕と乃り子を撮ってるうちに、ヤツが大人になった。もともと普通の家庭でおいしいもの食べて育った普通の子なんだよ。だから最初はトンチンカンなことばかり言ってた。「2人は愛し合ってないんですか?」とか、「夫婦げんかを撮りたい」とかさ。こいつ何言ってんだって思ったね。
乃り子 夫婦げんかなんて、住み込みでもしなければ撮れるわけがないじゃない。そこで考えたのが、2人が絵具の付いたグローブをはめてボクシングをするシーンと、キューティーの絵を使ったアニメーションだったの。でもね、私が不満なのは、本当の私たちの生活は映画よりもずっと惨めったらしいってこと。これからだってどうなるかまったくわからない。一寸先は真っ暗闇よ!
有司男 いいんだよ、映画を観て泣いてる人がいるんだから! アメリカ中を回って試写会をやった時も、映画が終わって会場に入るたびにみんな立ち上がってやんややんやの大喝采だよ。絵と違って映画というのは本当に人の心にアタックするメディアなんだな、ってびっくりした。それ以来、近所を歩いていても毎日、「ハーイ、ウシオ!」って声を掛けられるし、すっかり有名人になったよね。これからはスター気取りでビシッとしなきゃ。これで作品がバンバン売れてくれれば万々歳よ!
見かけこそ飄々(ひょうひょう)としながらも、文字通り命を賭けて進むアートの道。見栄ゆえの自己顕示や、アートマーケットにおもねることで得られるであろう評価よりも、創作という行為それ自体の血湧き肉躍る興奮を、最大限に追い求める。そんな不器用にして純粋すぎる生き方が、1組の夫婦の形を作り上げた。それが今、世界の人々から万雷の喝采を集めている。これも芸術という名のデーモンに導かれた“祝福”なのだろうか。キューティーとボクサーの孤高なる愛と闘いは、さらなる高みを目指していく。
(2013年12月15日、東京・渋谷にてインタビュー)
取材・文=深沢 慶太
インタビュー撮影=五十嵐 一晴
(※1) ^ 40年間ニューヨークでアーティストとして奮闘してきた篠原有司男・乃り子夫妻に、約5年間密着したドキュメンタリー映画。エネルギッシュな有司男の横で、妻として母としての役割を果たすため自らのアーティスト活動を犠牲にする乃り子。映画の後半では、そんな彼女が自分の分身である“キューティ”を描くことで、アーティストとして目覚めていく。単なるアーティストの記録映画ではなく、夫婦愛とは何かを考えさせてくれる。
(※2) ^ 篠原有司男・篠原乃り子二人展『Love Is A Roar-r-r-r! In Tokyo 愛の雄叫び東京篇』が渋谷のパルコミュージアムにて2013年12月13日から2014年1月13日まで開催された。
(※3) ^ ウィリアム・クライン(1928-)ニューヨーク出身の世界的に有名な写真家・映画監督。1961年に東京で撮影し、伝説的な作品となった篠原有司男の「ボクシング・ペインティング」の様子を2012年にニューヨークで再びカメラに収めた。近日刊行の写真集『ブルックリン』に収録予定。