作家・梯久美子が『散るぞ悲しき』を書いた2つの理由

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幸脇 啓子 【Profile】

硫黄島の激戦を率いた栗林忠道中将を描いた『散るぞ悲しき』は、今なお読み続けられている名著だ。著者の梯久美子さんは、本作で鮮烈なデビューを飾った。戦後生まれの彼女が、なぜ栗林中将を書こうと思ったのか。背景にあった2つの動機とは。

梯 久美子 KAKEHASHI Kumiko

ノンフィクション作家。1961(昭和36)年熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経てフリーの文筆家に。2006年に『散るぞ悲しき ―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は、世界8カ国で翻訳出版されている。2017年には『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』で講談社ノンフィクション賞、読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受ける。その他の著書に『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和の遺書──55人の魂の記録』など多数。最新作は『原民喜―死と愛と孤独の肖像』。

硫黄島取材での偶然の巡り合わせ

——硫黄島の壮絶な戦いは日本よりもアメリカで有名で、そこで戦っていた日本人兵士たちは、捕虜になっても収容所で敬意を払われたそうですね。本でも、「“カミカゼ・ソルジャー”と“イオージマ・ソルジャー”は特別だ」と米軍人から言われたエピソードが出てきます。

この本では、栗林中将だけでなく2万余の兵士たちがどう戦い、死んでいったのかも書かなくてはと思いました。戦争末期だったこともあり、硫黄島では職業軍人はもとより現役兵も少なく、30代、40代の、一家の主である人たちが召集されて戦っていた。幼い我が子の写真や、家族からの手紙を身につけて戦い、亡くなった人たちもいます。今なお、彼らの遺骨は硫黄島に数多く残されたままです。

取材のとき、硫黄島にはぜひ行きたかったのですが、現在は基地の島になっていて、遺族が出席する慰霊祭など特別な機会を除いて民間人は行くことができません。その慰霊祭も、自衛隊の輸送機に乗っていくので、座席数が少なく、遺族以外が参加する余裕はない。仕方がないと諦めていたら、出発1週間前に突然1席キャンセルが出て参加できることになったのです。

現地での慰霊祭の後は、50人ほどの参加者が5台のバスに分乗して島を一周し、戦跡や慰霊碑などを見て回る予定だったのですが、私がトイレに行っているうちに、乗る予定だったバスが出発してしまいました。慌てて世話役として同行していた硫黄島協会の方の車に乗せてもらったものの、その車の役割は、5台のバスに先回りして、戦跡がある場所の目印にするために道端の木に白い布を結んでいくことで、どこにも立ち寄ることなく15分足らずで元の駐車場に戻ってきてしまいました。

せっかく来られたのに何も見られずに帰ることになるのかと呆然としていたら、どこか見たいところがあれば、バスが戻ってくるまでの間に案内しますよと、硫黄島協会の方が言ってくださったんです。

——それは幸運でしたね。どこに向かったのでしょうか。

栗林中将が最後に立てこもっていた司令部壕です。事前の説明会では、内部の通路が狭く、一度に大勢入ると危険なので、外から見るだけだと言われていたのですが、その方が先導してくれて、中に入れることになりました。

壕の中の通路は高さ75センチ。膝をついて進んでも背中を擦りそうになります。しばらく直進し、通路が直角に曲がった先に、栗林中将の執務室だった部屋がありました。通路が直角に曲がっているのは、爆風から執務室を守るためです。執務室の隣に栗林さんが寝起きしていた部屋がありました。いずれも部屋とは名ばかりで、地中深く掘られた壕の中に作られたやや広い空間にすぎません。

壕の中で写真を撮るのははばかられたので、引き返して壕から出たあと、入り口を外から撮影していたのですが、そのときデジカメのレンズキャップを落としてしまいました。壕の入り口は地下に向かってかなり急な坂になっていて、そのまま壕の中までキャップが転がって行ってしまった。当時、私はフィルムカメラしか持っていなくて、友人から借りたデジカメでした。デジカメはその頃まだ高価でしたし、なくすわけにはいきません。もう一度壕に入らせてもらいました。キャップは入ってすぐのところにあったのですが、そのまま栗林さんがいた部屋まで進み、今度はひとりで、その場所に立ったんです。

懐中電灯を消し、暗く狭い壕の中にひとり立ったときに感じたのは、ここは確かに栗林さんが死んだ場所だけれど、人生の最後の時間を生きた場所でもあったということです。絶望的な状況の中、最後の最後まで、本土の被害を少しでも少なくするために合理的に考え抜き、最善を尽くした。そして、生き残った部下を率いてここから出撃していった。ある意味で、彼がもっとも自分らしく生きた場所なんですね。その事実が実感として迫ってきた。死の悲惨さよりも、生のエネルギーを感じたのです。

壕から出たとき、この島で栗林さんがどう死んだかではなく、どう生きたかを書こうと決心しました。それまで、研究者でもなく硫黄島戦の遺族でもない私が書いてもよいのだろかという逡巡があったのですが、死ではなく生の物語なら書けるかもしれない、と。忘れもしない2004年12月2日のことです。

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編集者。東京大学文学部卒業後、文藝春秋で『Sports Graphic Number』などを経て、『文藝春秋』で編集次長を務める。2017年、独立。スポーツや文化、経済の取材を重ね、ノンフィクション作品に魅了される。22年春より、長野県軽井沢町在住

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