追悼:2024年に亡くなった著名人
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1月4日
篠山紀信(しのやま・きしん)さん(83)=写真家
1970年代、小学館の若者雑誌『GORO』での女性アイドルグラビア撮影でスター写真家となり、ヌード写真の「激写」をキャッチフレーズに活躍した。山口百恵、松田聖子などのレコード・ジャケットも多く手掛けた。40年、東京生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、広告カメラマンを経て68年に独立した。ジョン・レノンの生前のラストアルバム『ダブル・ファンタジー』(1980年)のジャケット写真も撮影。レノンとオノ・ヨーコ夫妻のキスシーンを切り取り、世界の多くの人が知る1枚となった。宮沢りえの写真集『Santa Fe』(91年)は165万部も売れて社会に大きな反響を呼んだ。人物や風景の作品も多く、歌舞伎の坂東玉三郎を撮影した一連の写真集や、「シルクロード」シリーズなどがよく知られる。
2月6日
小澤征爾(おざわ・せいじ)さん(88)=指揮者
1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間務め、2002年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任し、2010年まで務めるなど世界を舞台に華々しい活躍を続けた。日本国内では新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者として中心的な役割を果たした。1935年、旧満州の奉天生まれ。父は歯科医。満州事変の中心人物だった軍人、板垣征四郎と石原莞爾から一字ずつをもらって「征爾」と命名したという。当初はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合中に指を骨折して断念。桐朋学園に入って音楽家の斎藤秀雄に師事し、指揮者の道に。59年にフランスに渡り、ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位となった。カラヤン、バーンスタインという大御所に指導を受け、才能が花開いた。斎藤門下の音楽家を中心とする「サイトウ・キネン・オーケストラ」の活動でも知られる。
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3月1日
鳥山明(とりやま・あきら)さん(68)=漫画家
『ドラゴンボール』の孫悟空、『Dr.スランプ』のアラレちゃんなど、魅力的なキャラクターが登場する人気作品を次々に生み出した。日本の漫画が世界の「MANGA」として広まるきっかけをつくった先駆者と評価が高い。1955年、愛知県清洲町(現・清須市)生まれ。高校卒業後、地元の広告代理店でデザインを担当。3年で退職し、しばらくして週刊少年ジャンプの新人賞に応募を始める。78年の『ワンダー・アイランド』で雑誌初掲載。80年に連載開始した大ヒット作『Dr.スランプ』、84年の『ドラゴンボール』はいずれもテレビアニメ化され、日本だけでなく世界80カ国で放映された。ゲームの『ドラゴンクエストシリーズ』などのキャラクターデザインも手掛けた。フランスの芸術文化勲章「シュバリエ」を受章している。
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4月6日
曙太郎(あけぼの・たろう)さん(54)=元横綱
外国出身者で初めて大相撲の横綱(第64代)となり、幕内優勝11回の成績を残した。引退後は相撲界を離れ、格闘技やプロレスにも進出した。1969年、米ハワイ・オアフ島生まれ。旧名チャド・ローウェン。高校ではバスケットボールで活躍。大学中退後、東関親方(高見山)にスカウトされて88年に初土俵を踏んだ。身長2メートル3センチ、体重233キロ(いずれも日本相撲協会の歴代横綱紹介ページの数字)という体格で、突き・押しの相撲で順調に番付を上げ、92年名古屋場所で大関、93年初場所後に横綱に昇進し、貴乃花や若乃花とともに一時代を築いた。ひざの痛みから94年以降は休場が目立ち、2001年に引退を表明。曙親方として後進を指導していたが、03年に相撲協会を退職して格闘技K-1に電撃転向し、同年の大みそかにボブ・サップと対戦(KO負け)した。1996年、日本国籍を取得。
4月21日
フジコ・ヘミングさん(92)=ピアニスト
1999年放送の、NHK教育テレビのドキュメンタリー番組『フジコ~あるピアニストの奇跡』が大きな反響を呼び、2000年代に国内外で精力的に活動した。波乱万丈の人生と、情熱的な演奏から「魂のピアニスト」とも称された。1931年、ピアニストの大月投網子(とあこ)とスウェーデン人の画家との長女としてベルリンで生まれる。幼少期から日本でピアニストとして頭角を現すも、16歳の時に病気で右耳の聴力を失う。29歳でドイツに渡り、本格的な演奏活動を始めようとしたタイミングで高熱を出して一時的に左耳の聴力を失うなど、困難続きの人生だった。ウィーンやストックホルムでの生活を経て、日本に帰国したのは、母の死の2年後の95年。母校の東京芸大・旧奏楽堂などで演奏活動を行い、番組放映後の99年10月には東京オペラシティコンサートホールで「復活リサイタル」を行う。同年8月にデビューCD『奇跡のカンパネラ』も発売され、フジコ・ブームが日本クラシック界に巻き起こった。
6月6日
槇文彦(まき・ふみひこ)さん(95)=建築家
東京・代官山の複合施設ヒルサイドテラス、南青山のスパイラル、京都国立近代美術館、幕張メッセ、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスなどを手掛けた日本建築界の巨匠。1993年にプリツカー賞を受賞。海外では2013年、米同時多発テロで崩壊したニューヨークの世界貿易センター跡地に、4ワールドトレードセンターを竣工させた。1928年、東京生まれ。母方の祖父は竹中工務店会長を務めた竹中藤右衛門。東京大学工学部建築学科で丹下健三に師事し、黒川紀章、磯崎新らとともに研鑽を積んだ。米ハーバード大学に留学し、同大助教授などを経て、65年に槇総合計画事務所を設立。79年から89年、東京大学教授を務めた。2013年、東京五輪の主会場となる新国立競技場について、ザハ・ハディド・アーキテクツのデザインに基づく当初案を「巨大すぎる」と指摘し、論争を巻き起こした。
7月10日
徳田虎雄さん(とくだ・とらお)(86)=医師、政治家
「命だけは平等だ」と唱え、裸一貫から日本最大の病院グループ「徳洲会」を一代で築き上げた。衆院議員を4期務めたが、初当選前の1983年と86年の衆院選鹿児島・奄美群島区では自民党の現職、保岡興治と激しい選挙戦を繰り広げ、買収や贈賄、選挙賭博などで双方に選挙違反の検挙者が続出して「保徳戦争」と称された。1938年、兵庫県に生まれ。鹿児島県・徳之島で育つ。小学校3年生の時に幼い弟が救急医療を受けられず、急病死したことをきっかけに医師を志した。大阪大学卒業後、勤務医を経て、1973年に大阪府松原市に「徳田病院」を設立し、「24時間常に救急患者を受け入れる」「患者からの贈り物は受け取らない」などの方針をアピールし、次々に病院を建設した。2002年に全身の筋肉が萎縮する筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発病。2013年には親族が公職選挙法違反で逮捕されるなど不祥事が続き、病院経営から退いた。
8月1日
桂米丸(かつら・よねまる)さん(99)=落語家
落語芸術協会会長を1977年から99年まで務めた、落語界の最長老。新作落語一筋で、90歳を越えても寄席の舞台に上がってファンを笑わせた。1925年、横浜市生まれ。本名・須川勇。生家は港湾荷役業の元締め須川組で、二代目の父親の三男として生まれた。戦後すぐの46年、五代目古今亭今輔に入門。古今亭今児で47年に寄席デビューし、49年にはわずか3年で桂米丸を襲名して真打昇進した。落語界の売れっ子であるとともに、ソフトな語り口と都会的なスマートさを持ち味に、テレビ黎明期のスターとして全国のお茶の間に知られた。弟子に桂歌丸(故人)、桂米助らがいる。最後の定席出演は2019年9月の新宿末広亭下席で、実に72年間にわたって寄席で活動した。1992年、紫綬褒章受章。
9月11日
アルベルト・フジモリさん(86)=元ペルー大統領
1990年にペルー大統領に就任し、日系移民として初めて一国の元首となった。96年に発生したペルー日本大使公邸襲撃事件では、特殊部隊突入を指揮して過激派ゲリラを殺害し、人質解放の「解決」に導く。独裁的な政権運営への批判が高まり、3選後の2000年の外遊でペルーに戻らず、辞任して日本で事実上の亡命生活を5年間送った。1938年、リマ郊外で生まれる。日本名は藤森謙也(けんや)。両親は熊本県出身の移民1世。数学者としてラモリナ国立農科大学の学長を務め、その後政界に進出。90年の大統領選に新党「変革90」を結成して出馬し、有名作家のマリオ・バルガス・リョサ氏(2010年にノーベル文学賞受賞)を破って当選した。92年に国会を閉鎖し、憲法を停止して強権的な体制を築き、その下で経済成長とインフレ収束に成功する。反対者からは「独裁者」として人権侵害、汚職の犯罪者と指弾される一方、支持者からは「救世主」と崇拝された。
9月29日
大山のぶ代さん(90)=声優、俳優
藤子不二雄原作のテレビアニメ『ドラえもん』で、ドラえもんの声を担当。国民的な人気キャラクターとともに、その独特な声が人々に親しまれた。1933年、東京生まれ。高校卒業後に俳優座養成所に入り、56年のNHKドラマ『この瞳』でデビュー。ハスキーボイスを買われて声優としての活動が増え、NHKの人形劇『ブーフーウー』の3匹の子豚のブー役、ちばてつや原作のテレビアニメ『ハリスの旋風』の主人公、石田国松役を演じた。長寿番組『サザエさん』でも69年の放送開始当初、磯野カツオ役を演じた。『ドラえもん』は1979年のスタートから、2005年3月まで26年間も続けた。08年に脳梗塞を患い、近年は介護を受けながら生活していた。
10月14日
中川李枝子さん(89)=児童文学作家
双子の野ネズミが主役の人気絵本『ぐりとぐら』(1963年)を世に出した、日本を代表する児童文学作家。『ぐりとぐら』は全22作のシリーズとなり、これまで累計の発行部数は2200万部を超えている。英語、中国語、韓国語、タイ語、クメール語、デンマーク語、フランス語など多くの言語に翻訳され、世界中の子どもたちが読み継ぐロングセラーとなった。1935年、札幌市生まれ。都立高等保母学院を卒業後、東京・世田谷区の保育園で保育士として勤めた。仕事の傍ら創作活動を始め、園児をモデルに書いた童話『いやいやえん』で62年に作家デビュー。『ぐりとぐら』は翌年に誕生。絵は妹の山脇百合子さん(2022年死去)が担当した。代表作はほかに『そらいろのたね』『ももいろのきりん』など。アニメ映画『となりのトトロ』の主題歌「さんぽ」の歌詞も手がけた。2013年、菊池寛賞受賞。
10月17日
西田敏行さん(76)=俳優
映画の人気シリーズ『釣りバカ日誌』で、主人公の「ハマちゃん」こと浜崎伝助役を好演。NHKの大河ドラマでは、豊臣秀吉(1981年の『おんな太閤記』)、西郷隆盛(90年『翔ぶが如く』)、徳川吉宗(95年の『八代将軍吉宗』)、徳川家康(2006年の『功名が辻』)など数々の歴史上の偉人を演じ、人懐っこい笑顔で人々を魅了した「国民的俳優」だった。1947年、福島県郡山市生まれ。明治大学中退後、日本演技アカデミーを経て青年座俳優養成所に入った。71年の舞台『写楽考』で主役に抜擢され、80年のテレビドラマ『池中玄太80キロ』で主人公のカメラマン役を演じて人気を決定的にした。代表作はほかにも、映画『植村直己物語』(86年)、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主人公テヴィエ役、テレビドラマ『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』シリーズなど多数。元気に日常生活を送り、仕事も精力的にこなす中、虚血性心疾患により自宅で倒れた。
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11月13日
谷川俊太郎さん(92)=詩人、翻訳家
現代日本で最も知られ、親しまれた国民的詩人。10代から詩作を始め、1952年に処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行。創作活動は生涯にわたり続き、その詩は英語、フランス語、ドイツ語、中国語、デンマーク語などに翻訳された。1931年、東京生まれ。父は法政大学総長の哲学者、谷川徹三。高校卒業後、大学に進学せずにぶらぶらしていたところ、父に将来を心配されたことから詩を書いた2冊のノートを見せたという。徹三は衝撃を受けてノートを詩人の三好達治に送り、それが文芸誌に掲載されて脚光を浴びたというエピソードがある。1964年の記録映画『東京オリンピック』(市川崑監督)で脚本を担当。英国の童謡集『マザー・グースのうた』や米人気漫画『ピーナッツ』、レオ・レオニ作の絵本『スイミー』などの邦訳、アニメ『鉄腕アトム』の主題歌作詞など、活躍の場は実に幅広かった。東日本大震災(2013年)の後には、1971年刊行の詩集に収められた「生きる」が再び広く読まれた。
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12月6日
中山美穂さん(54)=俳優、歌手
1980年代、90年代にトップアイドルとして大きな注目を浴び、「ミポリン」の愛称で親しまれた。東京・原宿でスカウトされ、85年のテレビドラマ『毎度おさわがせします』で14歳の時にデビュー。歌手としては『WAKU WAKUさせて』(86年)、WANDSとともに歌った『世界中の誰よりきっと』(92年)などを世に出した。映画では、豊川悦治さんとともに主演した『Love Letter』(95年)が代表作として挙げられる。2002年に作家の辻仁成さんと結婚。パリで生活し、一時活動を休止したが、14年に離婚。死去当日は大阪市でコンサート開催の予定だったが、連絡が取れなくなり、東京の自宅で死亡しているのが見つかった。本人の公式サイトは「入浴中の不慮の事故」で、事件性はないとしている。
12月19日
渡辺恒雄さん(98)=読売新聞主筆
1991年、読売新聞の代表取締役社長・主筆に就任。日本テレビとその系列局も傘下に持つ同新聞グループのトップに30年以上も君臨した。中曽根康弘氏との「盟友関係」を軸に、保守政界に強い影響力を持った。近年では安倍晋三、岸田文雄両首相の指南役としても知られた。26年、東京生まれ。東京大学の学生時代に敗戦を迎え、日本共産党の東大細胞に所属した(47年除名)。読売入社後は、政治部で大野伴睦氏の番記者に。憲法改正に積極的で、トップ就任後の読売新聞は1994年、「憲法改正試案」を紙面で発表した。また、プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人)のオーナーを務め、退任後も最高顧問として球界に深くかかわった。
12月25日
鈴木修さん(94)=スズキ元会長
スズキの社長に1978年就任。2021年に相談役に退くまで、40年以上にわたり社長・会長を務め、同社を世界的な自動車メーカーに成長させた。海外進出に積極的に取り組み、1983年にインドで現地生産を開始。インド市場での同社の乗用車シェアは4割以上(2022年度)とトップを保っている。1930年、岐阜県生まれ。銀行員を経て、1958年に2代目社長の娘婿としてスズキに入社した。
社長就任翌年の79年、当時の価格で50万円を切る軽自動車「アルト」を発売し、ヒットを放つ。徹底した現場主義と軽いフットワーク、歯に衣着せぬ言動から「ワンマン」「カリスマ」経営者の呼び名があった。
バナー写真:サイトウ・キネン・フェスティバル松本のオーケストラコンサートでの指揮を終え、演奏者と笑顔で握手する小澤征爾さん(右端)=2010年9月5日、松本市の長野県松本文化会館(時事)