「裸の大使」秋にロンドン、来夏パリへ:海外大相撲、熱狂と親善の歴史

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長山 聡 【Profile】

大相撲の巡業は外国人観客の増加もあって、連日「満員御礼」となっている。日本相撲協会はこの追い風に乗って、今年10月には34年ぶりのロンドン公演、来年6月には31年ぶりのパリ公演を打つ。古くから大相撲は「裸の大使」と呼ばれ、海外で日本人が驚くほどの熱狂を呼んできた。その歴史を振り返ってみた。

英国34年ぶり、フランス31年ぶり

「ロイヤル・アルバート・ホールは、2度目となる大相撲の開催で『相撲の殿堂』に変貌する」(英BBC)

昨年12月上旬、英メディアは1991年以来となる大相撲ロンドン公演について期待を込めて報じた。会場のロイヤル・アルバート・ホールは、1909(明治42)年建設の旧両国国技館のモデルで、大相撲ゆかりの地だ。

95年以来となるフランス・パリも公演を待ち焦がれている。地元メディア電子版は今年2月、来年の興行の発表を受け、「伝説の力士/力の紳士がパリに復活する」と報じた。

ロンドン公演の会場となるロイヤル・アルバータ・ホール前で、タクシーを降りるポーズを取って公演をPRする北の若(右)と若手力士=2024年12月(ゲッティイメージズ)
ロンドン公演の会場となるロイヤル・アルバータ・ホール前で、タクシーを降りるポーズを取って公演をPRする北の若(右)と若手力士=2024年12月(ゲッティイメージズ)

大相撲の海外興行は、2013年のインドネシア・ジャカルタ巡業以来12年ぶり。国際親善が目的の「公演」となると米ラスベガス以来20年ぶりになる。この間、角界は野球賭博事件、八百長メール事件などの不祥事の連鎖に揺れ、さらに新型コロナウイルスの影響もあって、海外興行が激減していた。

日本相撲協会も久々の海外興行に力が入る。報道によると、八角信芳理事長(元横綱北勝海)は、ロンドン公演発表の現地記者会見で「日本古来の伝統文化である相撲の魅力をロンドンの皆さんに伝え、心ゆくまで楽しんでいただけるよう全力を尽くします」と力を込めて語った。

前回ロンドンは「ウルフ」に人だかり

前回のロンドン公演があった1991年は、貴花田(後に貴乃花)が頭角を現し、日本国内は空前の相撲ブームに沸き返っていた時期だ。貴花田は春場所では18歳7カ月で三賞、夏場所では18歳9カ月で横綱千代の富士を破り金星。その後、名古屋場所で新小結、秋場所では新関脇と、いずれも史上最年少で番付を駆け上がった。

ロンドンでもその人気の波及を期待したが、肝心の貴花田は結膜炎で休場してしまった。代わりに当地で話題になったのは、貴花田に敗れた夏場所で引退したばかりの「ウルフ」こと元横綱千代の富士(陣幕親方=当時)だった。現地の人気観光スポット「ろう人形館 マダム・タッソー」に立像が飾られるほど有名で、本人がPRも含めて公演前にロンドンに乗り込むと、どこへ行っても大きな人だかりができた。

取組は本場所形式の5日間でいずれもチケットは完売。7.5ポンド(当時1800円)の立ち見席に、300ポンド(同7万2000円)の値がつくほどの注目度だった。

1991年10月の大相撲ロンドン公演には後に角界を代表する力士となる若手も登場した。市内を観光する当時の若花田、曙、舞の海(左から)=共同
1991年10月の大相撲ロンドン公演には後に角界を代表する力士となる若手も登場した。市内を観光する当時の若花田、曙、舞の海(左から)=共同

一番人気は当時254キロの大関小錦で、大量の塩をまくことから“ソルトシェーカー”の異名を取った水戸泉や、曙など巨漢力士にも注目が集まった。その一方、直前の秋場所で三賞を受賞した若花田(後に若乃花)、舞の海といった技能派力士たちにも熱い声援が送られていた。

千秋楽には横綱北勝海が5戦全勝で優勝。当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)は「本場所に近いものを見せることができた。民間大使としての役割は果たせたと思う」と総括した。

明治時代には京都相撲が渡英

ロンドンでは、明治時代にも相撲が披露されている。当時のメジャー興行組織の東京、京都、大阪の3団体のうち、京都相撲が1910(明治43)年に日英同盟記念の「日英博覧会」に派遣された。渡英したのは京都横綱の大碇(おおいかり)など35人だった。

ロンドンの日英博覧会の相撲会場に勢ぞろいした京都相撲の力士たち=1910年、ロンドン郊外(筆者提供)
ロンドンの日英博覧会の相撲会場に勢ぞろいした京都相撲の力士たち=1910年、ロンドン郊外(筆者提供)

4カ月半の博覧会の後、パリを振り出しに欧州各地を巡業した。ただその後、欧州を転々としているうちに困窮した一行は解散し、大碇らは南米にわたって諸業に従事したという。衰退しつつあった京都相撲は看板力士を失ったこともあり事実上活動が難しくなった。大正初期までその名は「協会」として存在したが、有名無実となった。

ちなみに大阪相撲は衰退しながら大正末期まで存続したが、1925(大正14)年に東京相撲が吸収する形で統一団体となることが決まった。準備期間を経て2年後の1927(昭和2)年に正式合併。プロの団体がまとまり、財団法人の資格を得た。

「パリに神聖な儀式の場」

パリでは1986年、95年と過去2回の実績がある。86年興行の際、地元フィガロ紙は「相撲は神道の信仰と結びついたスポーツ」「単なる肉体の戦いではない」などと紹介した。フランスで相撲は日本の伝統文化を知る「神聖な儀式の場」と捉えられている。

満員御礼の垂れ幕を掲げた大相撲パリ公演=1986年10月、ベルシー総合スポーツセンター(共同)
満員御礼の垂れ幕を掲げた大相撲パリ公演=1986年10月、ベルシー総合スポーツセンター(共同)

相撲を愛したシラク元大統領

フランスの故・シラク元大統領は大の相撲ファンだったことで知られる。86年にはパリ市長、95年には大統領として公演の実現に尽力。シラク氏は「人生で必要なことはすべて相撲で学んだ」と公言するほどだった。

大統領官邸のエリゼ宮を訪問し、シラク・フランス大統領(当時、中央)と面会した貴乃花(左)、曙(右)の両横綱=1995年10月(共同)
大統領官邸のエリゼ宮を訪問し、シラク・フランス大統領(当時、中央)と面会した貴乃花(左)、曙(右)の両横綱=1995年10月(共同)

95年のパリ公演は災難にも見舞われた。力士たちが到着した翌日、空港の倉庫が全焼。興行に必要な明け荷、化粧まわし、締め込み、行司装束などが焼失した。相撲協会は代わりの締め込みや化粧まわしなどを急きょパリに送り、公演には間に合ったが、思い出の衣装を失い落胆する力士もいた。

会場のベルシー総合スポーツセンターは全3日間がいずれも観客1万人を超える大盛況。初日と千秋楽優勝の横綱曙と、2日目優勝の横綱貴乃花が決定戦を戦い、曙が寄り切りで制して総合優勝となった。

米ホワイトハウスで稽古披露

大相撲は、明治から米国でも興味を持たれていた。大横綱だった常陸山(ひたちやま)は、1907(明治40)年8月に柔道家や門弟らとともに、力士として初めて米国の地を踏んだ。

ワシントンのホワイトハウスではセオドア・ルーズベルト大統領(当時)の前で肉じゅばんのシャツを着て横綱土俵入りを披露した後、稽古を見せるなど「スモウ」を大いにアピール。常陸山は、マゲのせいで女性と間違えられたうえに、見事な太鼓腹だったため、妊娠していると思われたというエピソードも残る。

ニューヨークに移動した常陸山はアレキサンダーという怪力の持ち主と力比べもした。手と手を握り合わせて高く差し上げ、それを内側に絞り上げて勝負。両者とも満身の力を込めて争ったため、30分以上たっても決着がつかず、引き分けたという。

怪力の米人アレクサンダー(後列左から2人目)と力比べをした常陸山(同右)。前列は柔道家(左)と幕下力士=1907年、米ニューヨーク(筆者提供)
怪力の米人アレクサンダー(後列左から2人目)と力比べをした常陸山(同右)。前列は柔道家(左)と幕下力士=1907年、米ニューヨーク(筆者提供)

今秋公開予定の米ハリウッド映画「THE WIDE WEST」は1900年代初めの米国を、大相撲力士が旅行する設定だ。元関脇の逸ノ城が出演することも話題だが、物語はこの常陸山の渡米のエピソードが元になっている。

海外で成長する力士たち

海外での経験は、力士を成長させる。常陸山は帰国後「外国では俳優でもどんな人間でも教育があるので、紳士と対等に交遊している。日本の力士たる者は、武士道の本義に背かぬよう、力量と教養を備え、社会的地位を保つようにしたい」と語った。

現役を引退し、出羽海親方となった常陸山は、1915(大正4)年に横綱梅ケ谷ら37人の力士を引き連れ、サンフランシスコ博覧会参加という名目で再び米国に渡った。その後、フレスノ、ロサンゼルス、サクラメント、シアトル、カナダのバンクーバーと西海岸を回って興行、後輩たちに「世界」を見せた。

海外でもっとも興行が多いのは明治から日系移民が増えていたハワイ。1914年(大正3)年7月に、東京相撲の横綱太刀山・鳳一行によるものが始まりだ。当時は片道10日間も汽船に揺られ、太平洋を渡った。夜7時からのナイター興行だったにもかかわらず、連日盛況だったという。

昭和初期、戦時色が強まる中で大相撲の興行は日本の勢力下にあった朝鮮・中国東北部(満州)に限定。日本の敗戦後も、しばらく海外興行はなかった。

戦後は「年6場所制」で本格化

戦後の海外での活動は、サンフランシスコ講和会議で日本が国際社会に復帰した1951年に復活した。日本文化の紹介のため幕内八方山・大ノ海、十両藤田山の3人が高砂親方(元横綱前田山)とともに渡米し、半年間にわたりハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴを回った。小規模だったため、現在の海外興行とは異なるものだった。

年6場所の現制度になった1958年以降は日本の経済成長もあり、海外興行が本格化。国際親善のための「公演」、商業ベースの「巡業」が制度化されて大規模化し、活発に企画された。

地道な海外PRの継続もあり、大相撲は世界中の要人からも注目されてきた。86年の夏場所は東京・両国国技館で英国のチャールズ皇太子(現国王)とダイアナ元妃(故人)が観覧した。

元ビートルズのポールマッカトニーも大の相撲ファンで、2003年と13年に九州場所を観戦、13年には土俵に掲げる広告「懸賞」でアルバム『NEW』を宣伝した。記憶に新しいのは19年5月の米トランプ大統領。当時の安倍晋三首相(故人)とともに夏場所千秋楽を観覧し、優勝力士の朝乃山に米大統領杯を授与した。

九州場所観戦のために福岡国際センターを訪れたポールマッカートニー(中央)=2013年(筆者提供)
九州場所観戦のために福岡国際センターを訪れたポールマッカートニー(中央)=2013年(筆者提供)

複数横綱の競演で熱気を

10月のロンドン公演が迫る中、2025年春場所優勝の大の里はもちろん、カド番を脱出した琴桜にも横綱昇進を目指してほしい。1993年に曙が推挙されて以来、10人の横綱力士のうち日本人は若乃花、貴乃花、稀勢の里のわずか3人。3月の大阪場所では横綱はモンゴル出身の豊昇龍だけになっている。

和製横綱の誕生は、相撲人気を後押しする。日本国内で関心を高め、その熱気を海外にも伝えたいところだ。また、大の里は師匠との関係で雲龍型の土俵入りを選択することがほぼ確実だ。不知火(しらぬい)型の豊昇龍との華麗なる横綱土俵入りの競演は、欧州のファンを喜ばせるだろう。

大相撲の海外興行は、米国や欧州だけではなく、旧ソ連や中国といった旧共産圏の国も訪れるなど、全方位で日本文化を知ってもらうきっかけをつくってきた。チョンマゲに浴衣姿のスモウレスラーは、「日本古来の格闘技、そして文化の継承者」として破格の歓迎を受ける。今年のロンドン公演、来年のパリ公演も「裸の大使」としての役割を十分に果たすはずだ。

米ロサンゼルスのメモリアル・スポーツ・アリーナで千秋楽を終えた大相撲。観客と握手する当時の横綱朝青龍=2008年6月(共同)
米ロサンゼルスのメモリアル・スポーツ・アリーナで千秋楽を終えた大相撲。観客と握手する当時の横綱朝青龍=2008年6月(共同)

過去の海外興行(1958年以降)

1960年代 公演 モスクワ・ハバロフスク(65年)
巡業 ハワイ(62、66年) ハワイ・ロサンゼルス(64年) マカオ(66年)
70年代 公演 北京・上海(73年)
巡業 ハワイ(70、72、74年) ハワイ・ロサンゼルス(76年)
80年代 公演 メキシコシティ(81年)ニューヨーク(85年)パリ(86年)
巡業 サンノゼ・ロサンゼルス(81年) ハワイ(84年)
90年代 公演 サンパウロ(90年) ロンドン(91年) ウィーン・パリ(95年) メルボルン・シドニー(97年) バンクーバー(98年)
巡業 マドリード・デュッセルドルフ(92年) 香港(93年) ハワイ・サンノゼ(93年)
2000年代 公演 ソウル・釜山(04年) 北京・上海(04年) ラスベガス(05年)
巡業 台北(06年) ハワイ(07年) ロサンゼルス(08年) ウランバートル(08年)
10年代 巡業 ジャカルタ(13年)
20年代 公演 ロンドン(25年予定)パリ(26年予定)

カッコ内は興行の実施年
出所:大相撲ジャーナル

バナー写真:パリ・エッフェル塔の前で2026年6月の大相撲パリ公演をPRする栃大海(左)と若手力士=2025年2月(AFP=時事)

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    元「大相撲ジャーナル」誌編集長。1956年東京都生まれ。上智大学経済学部卒業。86年より読売新聞社発行「大相撲」誌と日本スポーツ出版社発行「ホームラン」の取材・執筆、編集補助等に携わる。91年に読売「大相撲」誌の専属となり、記者として精力的に相撲界を取材。2010年8月の「大相撲」誌休刊後、読売プラス編集委員などを務めた。著書に『貴乃花 不惜身命、再び』(イースト・プレス)、『あなたの知らない土俵の奥』(実業之日本社)。ほか、相撲関連書籍、ムックなどへの書き下ろし多数。

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