アンパンマン誕生の背景に80年前の戦争体験:やなせたかしさんが伝えたかった「生きる喜び」

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中野 晴行 【Profile】

2025年4月放送開始のNHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』。主人公のモデルは人気マンガ『アンパンマン』を描いたやなせたかしさんと妻の暢(のぶ)さん(いずれも故人)だ。子どもたちに大人気のキャラクター誕生の背景には、悲しい戦争体験があることはあまり知られていない。やなせさんの伝記を書いた作家の中野晴行さんに、ユーモアの中に込められた平和への思いについてつづってもらった。

「顔」を食べさせ、欲を戒める

筆者が、やなせさんに最後のインタビューをしたのは2013年春。戦争体験を本にまとめるためだった。当時94歳になっていたため取材は毎回1時間以内と約束していたが、いつも予定を超えて話が弾んだ。

戦争についてこう語ってくれたことがある。

「ぼくは、戦争の原因は『飢え』と『欲』ではないか、と考えています。腹が減ったから隣の国からとってこようとか、領土でも資源でもちゃんとあるのにもっと欲しいとか、そういうものが戦争につながるのです」(『ぼくは戦争は大きらい』やなせたかし著、中野晴行構成、小学館)

この考えは、代表作『アンパンマン』シリーズの中にもはっきり表れている。アンパンマンは空腹で困った子どもたちの所に飛んでいき、あんぱんでできた自らの顔を差し出して食べてもらうことで、困難を克服する。飢えのない世界をつくり、欲を戒める存在を具体化したのがアンパンマンなのだ。

90歳(卒寿)を祝うパーティーでの漫画家のやなせたかしさん(中央)。『アンパンマン』のキャラクター数が、単独のアニメーション作品内では世界一と認定するギネスブック証明書を手にした=2009年7月、東京都内のホテル(時事)
90歳(卒寿)を祝うパーティーでの漫画家のやなせたかしさん(中央)。『アンパンマン』のキャラクター数が、単独のアニメーション作品内では世界一と認定するギネスブック証明書を手にした=2009年7月、東京都内のホテル(時事)

「食べられない」つらさと情けなさが原点

やなせさんは1919年、高知県に生まれた。幼少期に新聞社特派員として働いていた父は東京に家族を残し、上海で客死。母は再婚し、2歳年下の弟・千尋(ちひろ)さんと共に高知県の開業医の叔父に引き取られた。絵が上手で、デザインを勉強するために上京して東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)に進学、卒業後は都内の製薬会社宣伝部で働いた。

41年、22歳で招集を受け旧小倉市(現北九州市)が拠点の旧陸軍部隊に配属。既に日中戦争は泥沼化しており、日本は12月には真珠湾攻撃を起こして米英などの連合国との太平洋戦争に突入した。43年には中国・福州に送られ、暗号の解読や、現地の住民に協力を呼び掛ける宣伝活動などに従事。「日中は双生(そうせい)の兄弟である」など、両国の協力と融和の必要をテーマにした紙芝居を自作して近隣の村々を巡ったという。

終戦間際に上海へ移動する途中、やなせさんたちの隊は中国軍の奇襲を受けた。近くで爆弾が破裂し、銃弾が耳をかすめ飛んだ。日本や中国の兵が次々と死んでいく中で九死に一生を得た時、心底、「戦争は大嫌いだ」と思ったという。上海ではマラリアに感染し、40度以上の高熱が何日も続いた。食糧不足と備蓄に対応するため、食事は薄いおかゆが朝晩に出るだけ。草を食べて飢えをしのいだことも。食べ物が無いことがどんなにつらくて情けないかを痛感した。

終戦直後、上海で米海軍に捕らえられた日本人捕虜たち。やなせさんはこのころ、上海近くの街の施設にとどまっていたという=1945年9月(Photo12/UIG/Getty Images)
終戦直後、上海で米海軍に捕らえられた日本人捕虜たち。やなせさんはこのころ、上海近くの街の施設にとどまっていたという=1945年9月(Photo12/UIG/Getty Images)

中国で終戦を迎えた。45年当時をこう振り返っている。

「敗戦した国の兵隊はみじめだな、と思いました。威張りかえっていたぼくの上官も襟章をとられて、ただの田舎のおじさんです。権威がないのです。(中略)検査が終わると、ぼくらはグループごとにわけられて、LCS(沿岸海域戦闘艦)に乗り組みました。それぞれに、銃を持ったアメリカ兵が警備についていました」(『ぼくは戦争は大きらい』)

「なんのために生まれ、生きるのか」

1946年に故郷の高知に戻ったやなせさんは、最愛の弟・千尋さんの戦死を知らされた。海軍中尉となり特殊任務でフィリピンに向かう途中、船が米艦からの攻撃で沈没。帰らぬ人となったのだ。

戦場のつらい体験と弟の早すぎる死は『アンパンマン』を描く大きな原動力になった。戦地で腹をすかせたまま「正義」を振りかざしていた軍隊は、やなせさんにとって「みじめなヒーロー」に見えた。しかも、その「正義」も当てにならない。戦争が終わると昨日までの悪と正義はきれいに入れ替わった。「ヒーローとは何だ」「本当の正義とは一体何だ」という思いが長くやなせさんの心の中に残ることになった。

「なんのために生まれて なにをして生きるのか」

弟と同じように太平洋戦争で亡くなった日本兵は230万人とも言われている。アニメの主題歌『アンパンマンのマーチ』の歌詞は、戦争で生きる喜びを奪われた弟たち若者への鎮魂歌と解釈することができる。生前には「そこまで意図したものではない」と語ったが、思いが自然とにじみ出たものではないだろうか。

やなせさんがタイトルを決め、自分で題字を書いた著書「ほくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い」(小学館、ニッポンドットコム編集部撮影)
やなせさんがタイトルを決め、自分で題字を書いた著書「ほくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い」(小学館、ニッポンドットコム編集部撮影)

高知の編集部での出会い

戦後は、地元紙・高知新聞の月刊誌編集部で働き、職場で暢さんに出会う。明るくハキハキして信念を曲げない暢さんに強く引かれていったやなせさん。1947年、仕事で上京した暢さんを追うように東京に戻り、求婚。東京はまだ戦中の爆撃跡が残り、食糧難。2人は婚姻届を出しただけで結婚式は行わず、知人宅のひと間に下宿して新婚生活をスタートさせた。

東京では百貨店「三越」の宣伝部員として働きながら新聞や雑誌にマンガの投稿を始める。マンガの仕事が増えると53年に独立。暢さんは「失敗したら私が養ってあげる」と背中を押した。舞台美術や作詞、テレビ出演、アニメーション映画のキャラクター設定、雑誌編集長などもこなし、周囲からは「困った時のやなせさん」と呼ばれたが、代表作が無いことが悩みだった。

大人には不評…子どもには大ウケ

現在の形のアンパンマンが初めて登場したのは1973年だ。出版社フレーベル館の幼児雑誌『月刊キンダーおはなしえほん』に『あんぱんまん』が掲載された。

だが、顔があんぱんのヒーローは、順風満帆に船出したとは言えなかった。顔を食べさせる設定が大人の批判を呼んだのだ。「残酷だ」「くだらない」といった声が幼稚園の先生や教育評論家から寄せられ、担当編集者さえ「こんな本はこれっきりに」と言い出した。

大人の懸念の一方、子どもたちはその魅力に気が付いていく。力が強いだけのヒーローではなく、やさしく喜びを分かち合う。本物のヒーローの存在が子どもたちの純粋な心をつかんでいった。やなせさんは、なじみのカメラ店の店主から「子どもから毎晩『あんぱんまん』を読んでくれとせがまれている」と聞かされ、驚いたという。

フレーベル館から出版されているアンパンマンシリーズの絵本(ニッポンドットコム編集部撮影)
フレーベル館から出版されているアンパンマンシリーズの絵本(ニッポンドットコム編集部撮影)

人気はじわじわと広がり、75年には続編『それいけ!アンパンマン』を刊行。アニメ放送は、紆余曲折の末、首都圏ローカルで1988年に始まった。当時は視聴率2%台なら上々の午後5時台の放送枠で、担当のディレクターは「視聴率は期待しないで」というほど。しかし、放送がはじまると7%を記録した。大人気番組となった作品の放送エリアは全国に拡大された。この時、やなせさんは69歳になっていた。

苦節の末につかんだ代表作。戦争中に味わった辛酸、そして戦後に出会った人々との関わりや仕事の積み重ねが、花開いたのだった。

気取らず役立つ人気者

筆者はかつて「あんぱんをキャラクターにした理由は?」と尋ねたことがある。やなせさんは「日本で生まれた食べ物で、安くて手に入りやすい。そこそこ長持ちしておやつにもなるし、飢えている人を助けることもできる」と説明してくれた。なじみやすく気取らないのに、誰にでも役立つ。そんな存在が子どもたちの共感を呼んだのかもしれない。

絵本『アンパンマン』シリーズの日本での発売点数は2018年時点で、やなせさんが手掛けたオリジナルが約200、アニメの絵を使ったものが約750。発行部数はトーハン調べで累計8100万部を突破している。

シリーズの出版が進むと、やなせさんは次々とアンパンマンの仲間のキャラクターを生み出した。テレビアニメ作品が1000回を迎えた2009年には、1768体(当時)のキャラクター数が「単独のアニメーションシリーズでのキャラクター数世界一」というギネスブック世界記録認定も受けた。いろいろな種類のパンや食べ物のキャラクターに加えて、いたずらものの「ばいきんまん」も生まれた。ばいきんまんは倒すべき悪役ではなく、あくまでも同じ世界に暮らす仲間のひとり。いたずらをしてアンパンマンからアンパンチを食らって「ばいばいき~ん」と逃げ出すが、またすぐに戻って来る。

海外では、アメリカ、韓国、中国、台湾、タイ、中東などでアニメが放送され、本やキャラクターグッズの販売も好調だ。

「福岡アンパンマンこどもミュージアムinモール」のパン屋「ジャムおじさんのパン工場」で売られたキャラクターパン=2014年4月、福岡市博多区(時事)
「福岡アンパンマンこどもミュージアムinモール」のパン屋「ジャムおじさんのパン工場」で売られたキャラクターパン=2014年4月、福岡市博多区(時事)

アンパンマンは、大災害で傷ついた子どもたちの心も救った。11年の東日本大震災の後、被災地の避難所では「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソングのように流れた。

「だから君はいくんだ ほほえんで……」

最後は笑顔に囲まれて

2013年10月。やなせさんは94歳の生涯を閉じた。翌14年2月には、東京・日比谷のホテルでお別れのパーティーが盛大に催された。演出や会場の飾りつけは生前に考えたもの。オープニングではやなせさんのシルエットが歌い踊る場面もあって会場は最後まで笑顔に包まれた。

祭壇に飾られたやなせたかしさんの写真。写真の前には代表作「アンパンマン」の人形が置かれた=2014年2月6日、東京都新宿区(時事)
祭壇に飾られたやなせたかしさんの写真。写真の前には代表作「アンパンマン」の人形が置かれた=2014年2月、東京都新宿区(時事)

1998年春に初めて東京・曙橋の「やなせスタジオ」に取材に訪れたて以来、やなせさんの話を繰り返し聞いた。健康法、仲間のマンガ家の思い出、故郷のこと……。いつも楽しい取材だった。

亡くなる直前までアンパンマンの物語を作ったり、曲を書いたりしていた。そして、人生を振り返ってこんな話をしてくれた。

「ぼくの人生はとてもラッキーだった。つらい時や困ったときは、必ず誰かがアンパンマンのように助けてくれたんだ」

バナー写真:アンパンマンの生みの親、故やなせたかしさん。この世を去ってからも、生み出したキャラクターたちは世界中で活躍し続けている=2013年5月1日(YOSHIKAZU TSUNO / AFP、時事)

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    中野 晴行NAKANO Haruyuki経歴・執筆一覧を見る

    ノンフィクションライター、編集者。1954年東京都出身。和歌山大学経済学部卒。2004年『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞。『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で2008年度日本漫画家協会賞特別賞。著書に『やなせたかし 愛と勇気を子どもたちに〈伝記を読もう3〉』などがある。

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