
「動作分析で世界トップ」メジャーリーグが認めた日本のスポーツ科学の神髄とは
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メジャー球団が日本企業を指名
スポーツ科学の発展が加速する中、野球界でもデータがトレーニング内容や試合の戦略を大きく左右する時代になっている。とりわけ進化が著しいのが、プレー中の選手の動きを専門機器で測定、分析し、けがの予防も含めたパフォーマンスの向上につなげる動作分析の分野だ。2024年9月には、この分野を得意とする日本のベンチャー企業が米メジャーリーグのシカゴ・カブスとサポート契約を結び、そのニュースは驚きをもって受け止められた。
というのも野球の新しい概念やトレーニングは米国で生まれ、のちに日本に届くのが一般的だからだ。ではなぜメジャー球団が、国外の企業にアプローチしたのか。その背景には世界に先駆けて動作分析をリードしてきた、日本の研究者たちの姿があった。
カブスとサポート契約を交わした日本企業とは、14年に創業した「ネクストベース」。同社は世界最先端の測定システムとスポーツ科学に基づいたノウハウを用いて、選手のフィジカルの強さや投球動作、スイング動作を測定し、気鋭のアナリストが結果につながるアドバイスをする、いわば野球のコンサルタント。そんなネクストベースが22年8月、千葉県市川市に研究所とトレーニング施設を兼ねた「ネクストベース・アスリートラボ」を開設すると、たちまち評判になり、プロアマを問わず多くの野球選手が足しげく通うようになった。
「ネクストベース・アスリートラボ」の壁面を埋め尽くす有名選手のサイン(撮影:松園多聞)
プロ野球選手の利用は、延べ200人以上。通路の壁は、プロ野球では西武の平良海馬(たいら・かいま)、阪神の村上頌樹(しょうき)、日本ハムの清宮幸太郎など有名選手のサインで埋め尽くされている。仙台育英学園高校や慶應義塾高校など甲子園常連校の選手も多数通っており、シーズンオフの11月から2月は予約を取るのも難しくなるという。
そんなネクストベースに、カブスからアプローチがあったのは23年9月のこと。創業者でもある中尾信一社長が言う。
「日本人選手をスカウティングするために来日したジェド・ホイヤーGMがアスリートラボを視察したい、という連絡をカブス側からいただきました。彼は米国にあるような研究とトレーニングを兼ねた施設が日本にないかとスタッフに尋ね、そこからアスリートラボの存在を知ったようです」
多忙なスケジュールを縫ってカブスのGMがアスリートラボに立ち寄ったのは、ちょっとした思いつきからではない。来訪の理由にはカブスのみならず、米球界が直面する課題があった。「投球動作のバイオメカニクス的分析」の研究に長く取り組み、アスリートラボでの研究やトレーニングを主導する神事努(じんじ・つとむ)上級主席研究員が言う。
「カブスのメンバーが最も関心を寄せていたのが、投手のけがの予防についてでした。米国では近年、肘を故障してトミー・ジョン手術を受ける投手が増えています。米国に比べて日本は肘を故障する投手が少なく、そこから私たちの活動に興味を持たれたようです」
カブスのメンバーは1時間30分ほどラボに滞在し、意見交換をした。そのときの様子を中尾社長が振り返る。
「会社概要の資料をお見せして、提供するサービスなどについて説明しました。カブスはメジャーでも先進的な取り組みで知られているだけに、ホイヤーGMの質問は非常に的確なものでした。帰国の際に、アスリートラボの視察が今回の滞在で最も面白かったという感想をいただきました」
右:NTTに勤務の後、IT系ベンチャーを設立。2014年にネクストベースを創業した中尾信一社長。立教大学時代は野球部に所属した 左:元国立スポーツ科学センター研究員で、北京五輪で女子ソフトボール日本代表をサポートし金メダルに貢献するなど、多くの実績を持つ神事努上級主席研究員(撮影:松園多聞)
カブスが驚いた精緻な測定
アスリートラボには世界最先端の計測機器とノウハウがあり、神事氏をはじめとした専門的な知見を持つアナリストが選手の動きを測定し、スポーツ科学に基づいて評価。個々の特性に合わせてパフォーマンス向上策を定め、それに沿ったトレーニングを提案している。これだけのメニューをワンストップでできるのが、この施設の強みだ。
最先端の機器を用いる投球動作の測定の様子(ネクストべース提供)
投球動作なら全身48カ所にマーカーを装着して、14台の高性能カメラで動きを撮影。同時に「フォースプレート」というマウンド下に設置された機器によって、踏み込む力や地面から返ってくる地面反力の大きさと方向などを測定する。これにより指先の動きやボールの回転、エネルギーの大きさや伝達効率など多くの情報を得られる。その情報を生かして球速や球質、投球フォームを改善し、パフォーマンス向上のためのトレーニングを提案。さらに肘などの故障リスクも判定できる。
アスリートラボを視察した時、カブスのメンバーが驚いたことがあるという。それは投球動作の計測に臨む、投手の利き手をアップで撮った写真を見せた時だ。関節から爪の先まで、多くのマーカーが装着された指を見て、彼らは目を見張った。
「ここまで細かく測定するのかと驚いていましたが、私たちとしては特別なことをやっている意識はありません。ボールをリリースする瞬間、最後にエネルギーを伝えるのが指先ですから」と中尾社長は言う。
各関節から爪の先にまでマーカーを装着。このきめ細やかさは「ネクストベース・アスリートラボ」ならでは(撮影:松園多聞)
アスリートラボの強みは撮影機器にもある。ここでは1秒間に1000コマ撮影できる高性能カメラを用いているため、指先の瞬間的なわずかな動きを高い解像度で捉えることができる。米国にはダルビッシュ有や大谷翔平が通うことで有名になった「ドライブライン」という施設があるが、これほど高性能なカメラは使用していない。アスリートラボの開設前だがすでに現在と同様のサービスを始めていた2018年、中尾社長と神事氏はドライブラインを視察して「全然負けていない。それどころか勝っている部分が多い」と自信を深めたという。
23年9月の視察以来、カブスとのオンラインミーティングを重ねたネクストベースは、昨シーズン開幕前の3月、スプリングキャンプに招待された。そしてカブス投手陣約20人を対象に、ホイヤーGMに説明した動作分析をした。そのときの様子を神事氏が語る。
「最初はわずか数人が見守っていただけでしたが、面白いことやっているらしいといううわさが広まり、コーチやR&D(研究開発)部門のスタッフが次々と集まって来ました。私たちの通常メニューの全てを見せたわけではないのですが、分析の早さや正確さ、細かさなどが高く評価されました」
2024年2月のカブスのスプリングキャンプにて(ネクストベース提供)
ハイレベル研究、日本浸透への課題
スプリングキャンプを終えて、ネクストベースはカブスとサポート契約を結ぶことになった。神事氏は「高額年俸の選手がけがで活躍しないのは大きな損失なので、まずはけがを減らしてパフォーマンスを上げたい」と目標を語る。ネクストベースはまだメジャーで具体的な実績を残したわけではないが、カブスが契約した日本企業のうわさは広がり、他球団からのアプローチが増えている。
昨年12月、神事氏はメジャーリーグ全球団の幹部や代理人が集まるウインターミーティングに参加。そこで全米野球バイオメカニクス学会(ABBS)が選抜した5人の研究者のひとりに選ばれ、肘のけがの防止について発表。大きな反響があったという。またメジャーリーガーを顧客に持つ代理人から、どうすれば能力を上げられるのかと相談もされたそうだ。
スポーツ科学の世界では米国が最先端というイメージが強いが、神事氏によると動作分析では日本が研究をリードしてきた歴史がある。日本では筑波大学を中心に1990年代から動作分析の研究が大きく進み、投げる、打つという複雑な回旋運動が含まれる野球の動作分析でも、ハイレベルな研究が進められてきた。
もっとも神事氏によると、こうした取り組みが自国で正当に評価されているかというと、疑問符がつくという。
「日本人選手がメジャーに行くと、この国では必ず挑戦と報じられますが、そこにはスポーツ科学を含めた米国の野球が最高峰だという認識があるからだと思います。私たちは動作分析では日本がトップだと自負していますが、その一方で研究の成果を生かしやすい環境が日本のスポーツの現場にあるかと考えると、そこは米国より遅れていると言わざるを得ない。米国ではコーチングを学んだ人が指導者になりますが、日本ではまだ選手時代の実績がモノを言うところがあるので、私たちの取り組みがなかなか浸透していかないのです。科学がいくら進歩しても、それを扱う人と組織が進歩しなければ意味がないと思います」
日本が世界に誇るスポーツ科学R&Dセンターである、ネクストベースのアスリートラボ。そのポテンシャルが本格的に花開くとき、日本のスポーツ文化をも塗り替える可能性を秘めている。
日本の野球レベルの向上に大きく貢献している千葉県市川市の「ネクストベース・アスリートラボ」。3月には東京・浜松町駅近くにも新たな拠点を開設する(撮影:松園多聞)
バナー写真:取材時に「ネクストベース・アスリートラボ」を訪れた高校野球強豪校の投手の測定の様子(撮影:松園多聞)