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給食考(前編) 子供の命をつないだ歴史
社会 食 文化- English
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始まりは僧侶らの善意
日本の学校給食は、1889(明治22)年、現在の山形県鶴岡市の大督寺(だいとくじ)境内にあった私立忠愛(ちゅうあい)小学校で始まったのが最初とされている。同校は貧しく就学できない子供のため、仏教各宗派の僧侶らが協力して開き、無償で昼食を提供した。献立は「塩むすび、塩ザケ、菜の漬物」で、費用は僧侶らが托鉢(たくはつ)でまかなった。
山形県鶴岡市にある「学校給食発祥の地」記念碑(学校給食歴史館提供)
鶴岡は庄内藩の城下町であり、藩主・家臣・領民の結束が極めて強く、相互扶助の精神が息づいていた。そうした風土に、庄内米や日本海から遡上(そじょう)するサケなどの豊かな食文化、僧侶らの慈悲的な行動が結びついた。日本の学校給食は、その萌芽から「貧困児童につらい思いをさせない」「貧富による劣等感を抱かせない」といった精神を内包し、いまなお脈々と受け継いでいる。
最初の学校給食を再現したメニュー。塩むすび、塩ザケ、菜の漬物(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)
同様の取り組みは、有力者の寄付や自治体の負担により他地域でも実施された。1923(大正12)年の関東大震災、30年代に東北地方を襲った大凶作などをへて、欠食児童を救済する給食は各地へ拡大し、昭和の時代に入ると国の施策として位置づけられた。
給食は欠食児童救済のほか、社会の戦時色が強まるにしたがって栄養改善や体位向上を期して積極的に推奨された。だが、戦況の悪化とともに食糧不足のため、ほとんどの学校で中止となる。戦中、戦後の食糧逼迫(ひっぱく)は国民を極度の栄養不足に陥らせ、特に発育途中にある小学校児童の体位は戦前を大きく下回るほど著しい影響を受けた。東京都が戦後に行った調査では1日に全く食事を摂れない児童、1食のみの児童の割合がそれぞれ4割に達していた。
学校給食の歴史
1889年 山形県鶴岡市で最初の給食
1923年 関東大震災発生
戦時中 戦争末期には給食中断
1945年 終戦
1946年以降 米国などの援助でパン、脱脂粉乳が給食に
1949年 国連児童基金(ユニセフ)の援助による給食開始
1950年 ガリオア援助による給食開始
1951年 ガリオア援助打ち切り
1954年 学校給食法制定
1960年代 脱脂粉乳から牛乳へ移行
1976年 米飯を正式導入
2005年 食育基本法制定
2008年 学校給食法改正。「食育の推進」を明記
出所:文部科学省など
戦後の新しい学校給食
終戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、食糧危機で社会不安が高まることを危惧した。トルーマン米大統領(当時)の命を受けてフーバー元大統領を団長とする使節団が来日し、GHQの最高司令官、マッカーサー元帥に給食再開と食糧輸入の必要性を訴える。
GHQの後押しを受ける形で、1946(昭和21)年のクリスマスイブ、12月24日に、児童の「命」をつなぐための新しい学校給食が、東京、神奈川、千葉の3都県25万人を対象に始まった。基となったのは、民間の米慈善団体「アジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia)」からの寄贈物資だった。いわゆる「LARA(ララ)物資」と呼ばれるものだ。名称に大統領から「公認された(licensed)」と付けられているのは、日本への物資持ち込みをGHQが厳しく統制していたためで(※1)、児童を救いたいという米関係者の熱意が示されているともいえる。
戦後再開された学校給食を再現したメニュー。トマトシチューと脱脂粉乳のミルク(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)
最初の代表的なメニューは脱脂粉乳を溶かしてつくったミルク、トマトシチューのみだったが、食うや食わずの生活を強いられていた子供にとっては貴重な栄養源だった。学校給食はその後も海外からの支援物資によって支えられ、アメリカの占領政策の一環である「占領地域救済資金(Government Appropriation for Relief in Occupied Areas Fund)」、通称「ガリオア資金」による援助も始まる。同資金により50年には、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、福岡の8大都市の小学校児童127万人を対象に、初めてパン、ミルク、おかずがそろった「完全給食」(※2)が週2回程度実現した。
しかし、51年のサンフランシスコ講和条約調印で日本が独立を果たすと、ガリオア資金は打ち切りになる。給食維持のための負担は全額が保護者にのしかかることになり、全国各地で国庫補助による学校給食の継続を求める運動が展開された。52年から小麦粉購入に対する国の半額補助が始まったことで、全国の小学校に完全給食が広がっていった。
終戦翌年の46年、児童の発育助長と健康保持を目指した学校給食の方針が、「学校給食実施の普及奨励について」と題して文部・厚生・農林の3省次官の通達として出されたことは注目に値する。教育の一環としての学校給食という位置付けを明確にし、衛生、栄養の知識から食事作法、ひいては「民主主義的思想の普及」など10項目にわたって教育効果が記述されている。
54年には学校給食法が制定された。学校給食が単なる栄養補給の食事から教育活動の一環とされたことに加え、実施体制が法的に整備されたことで、学校給食は外国からの輸入食糧に頼りつつも日本独自の展開をしていくことになる。その目標をまとめると、次の4点に集約できる。
- 日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養う
- 学校生活を豊かにし、明るい社交性を養う
- 食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図る
- 食糧生産、配分及び消費について、正しい理解に導く
同法で明記されたこれら4点と3省次官の通達で示された学校給食の教育的効果は、現在でもなお有効なものとなっている。
クジラ肉、揚げパン、ソフト麺…
戦後の主な給食メニューを紹介しながら、登場した背景や当時の社会情勢などを振り返ってみよう。
【クジラの立田揚げ】
50歳以上の日本人の多くが食べたはずのクジラ肉が初めて学校給食に登場したのは、1950年前後(昭和20年代後半)からだ。日本は当時、捕鯨大国だった。クジラ肉は復興期の貴重なタンパク源として食卓をにぎわし、価格は豚肉の3分の1程度と安価であったことから学校給食でも多く使用され、80年ごろまで続いた。
1952(昭和27)年ごろの学校給食。コッペパン、脱脂粉乳のミルク、クジラの竜田揚げ(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)
【揚げパン】
世代を超えて人気を博し、今では一般商品化もされている「揚げパン」。実は、病欠した児童への思いやりから生まれた1品だ。病気で休んだ児童には、近所に住む級友がパンなど当日の給食メニューの一部を届けることが一般化していた。「時間がたつと固くなる給食パンを、どうやったらおいしく食べてもらえるか」との思いから、東京都大田区の男性調理員が52年に考案した。油で揚げ、砂糖をまぶした甘いパンは、子供たちにとっては衝撃的なおいしさだった。60年代前半(昭和30年代後半)には全国的なメニューとなった。
【ミルク】
戦後すぐに児童の栄養補給、体位向上に大きな役割を果たしたミルク(脱脂粉乳)は、お湯に溶けにくく鍋で熱すると焦げ付き、ぬるくなると生臭くなった。その独特のにおいを嫌う児童も多かった。国内産牛乳を学校給食へ供給できる態勢が整い、64年の文部・農林事務次官通知「学校給食用牛乳供給事業の実施について」を受け、脱脂粉乳から牛乳への切り替えが順次すすんだ。
【ソフト麺】
正式には「ソフト・スパゲティ式麺」という。ポリエチレンの袋に個包装された麺を食器に移し、カレーソースやミートソースをからめて食べた。60年頃、製麺業界から「学校給食でも麺を食べてほしい」との声が上がり、時間がたつとのびる麺の欠点を補うものとして、横浜市の製造業者が考案した。パン用の強力粉を使い、生麺を蒸して冷水に浸してからゆでるという特別な製法で、欠点を克服した。専用の小麦粉を使ったうどんや中華麺が登場したことに伴い、ソフト麺は姿を消していった。
1965(昭和40)年ごろの瓶牛乳、ソフト麺などを組み合わせた給食メニュー(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)
【米飯】
現在当たり前となっている「米飯給食」の開始は、戦後30年以上たってからだった。終戦直後、コメは全国的に不作だったこともあって主食として十分な量を確保できなかった。65年以降(昭和40年代)になると、コメ生産技術の向上の一方で高度経済成長に伴う食生活の洋食化が進み、余剰米が大量発生した。余剰米解消の一環として、米飯の学校給食への利用が議論され、76年から全国で正式導入された。当初は従来のパンを主食とする給食が多く、給食向け米価の値引き率が引き上げられた79年以降にようやく米飯導入が各地で進んだ。
米飯給食を味わう小学生ら=1978(昭和53)年、栃木県益子町(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)
米飯給食が導入され、パン工場に炊飯が委託された=1978(昭和53)年(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)
米飯給食が拡大した80年代はファミリーレストランが普及し、家庭でも外食でも洋食の存在感が大きくなった時期だった。世相を反映するように、農林水産省は83年、コメを主食に自国の伝統的食文化を伝承しつつ、洋食など他国の食文化を反映した多様な副食を組み合わせる「日本型食生活」を提唱した。これを受けて、日本の学校給食はその多様性を増していくのである。
バナー写真:学校給食を楽しむ小学生ら=1952(昭和27)年(独立行政法人日本スポーツ振興センター提供)