能登半島地震1年:地元拠点の写真家が見つめ続けた被災地の姿
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忘れもしないあの日から、1年がたとうとしている。この1年を振り返ろうとしても、目に浮かぶのは地震発生後の混沌(こんとん)としていた能登の様子ばかり。あの時、能登で目にしたものは、あまりにも恐ろしく悲惨な光景だった。
元日に半島を襲った大地震
悪い夢でも見ているようだった。
「元日」という年始めの日に発生した、マグニチュード7.6の大地震。最大震度7を記録した揺れは、能登半島に甚大な被害をもたらした。多くの木造家屋が倒壊し、人々が守り続けてきた「日常」や生活基盤が一瞬にして奪われた。穏やかだった風景が無残に変わり果てた様子は、「現実を受け入れたくない」と思うほど信じ難いものだった。
能登を代表する観光名所である「輪島朝市」では大規模な火災が発生。珠洲市や能登町では約5メートルの津波に襲われた集落もあった。電気や水道、通信といったライフラインは途絶え、道路の亀裂や陥没、土砂崩れなどが救援活動を阻む。一時30カ所以上の集落が孤立し、被害状況の全容が把握できないまま、住民の安否も分からず、ただ時間だけが過ぎていった。
地震の影響で、能登と金沢を結ぶ大動脈「のと里山海道」が寸断され、各地の道路で大渋滞が発生。通常は自動車で片道約2時間の能登から金沢までの道のりが、10時間近くかかることもあった。また、一般車両には能登入りを自粛するよう緊急の呼びかけが行われた。
自衛隊車両が行き交い、救急車や消防車などのサイレンが鳴り響き、上空にはヘリコプターが飛び回った。一刻を争う救援活動。普段は想像もできない非現実的な状況が現実として目の前に広がり、不安と緊張で胸が締め付けられるようだった。
私の家族も被災者になった。家族全員の無事を確認できたのは、地震発生から3日後のことだった。
発災当日の元日、正月の祭りを撮影しに出掛けていた私は、いったん金沢にある妻の実家へ避難。2日に輪島市にある私の実家へ向かおうと試みたが、道路は亀裂や陥没で寸断され、車では進めなかった。土砂崩れも発生し、実家のある集落は完全に孤立。残された人たちは不安な気持ちでいっぱいだったはずだ。4日、準備をし直して車で集落に近づき、2時間かけ山道を歩いた。山を越えて家族と再会できた時の姉の驚いた表情を今でも覚えている。姉は正月休みで帰省していたところで被災していたのだった。
家族と再会した安心感の後、押し寄せたのは深い喪失感だった。あまりにも変わり果てた能登の光景を前に、「もう以前の風景は戻らない」という現実が重くのしかかった。それでも次第に心の中に「今、自分に何ができるだろうか」という問いが繰り返されるようになった。能登に生きる人間として、そして能登の写真家として、この現実にどう向き合えばいいのか。私は1月中旬から能登半島を回って、「被災地の記録」を始めていた。
能登の写真家としての使命感
父の仕事の都合で日本各地を転々としてきた私には、輪島市にある父方の祖父母の家はお盆や正月に帰省する思い出の場所。唯一「故郷」と呼べる場所だった。
東京の大学を卒業後、北陸の会社に就職。休日に自然と足が向くのは、能登半島だった。美しい自然に囲まれた半島の海沿いをドライブして感じる潮風や、四季折々の風景に癒やされるひとときは、日々の疲れを忘れさせてくれた。そして、いつしか一眼レフカメラを持ち歩き、能登の風景や祭りを撮るようになった。自然が作り出す造形美や、心を揺さぶる祭りの情景に魅了されるたびに、「写真を通し能登の素晴らしさを伝えたい」という思いが強くなった。私が写真家を志すのは自然な流れだった。
2014年、27歳で輪島市へ移住。広告デザイン事務所を立ち上げ、写真や仕事を通じて大好きな能登半島の魅力を発信してきた。この10年間、それを「天職」と感じられる日々だったからこそ、今回の地震は積み上げてきたものを一瞬で切り裂くようで、受け入れ難い現実だった。
高さ28メートルの奇岩、珠洲市の見附島は、地震の揺れと津波で崩れ、変わり果てた姿となった。日本海に面して小さな田が重なり海岸まで続く輪島市の白米千枚田は、田んぼに幾筋もの深い亀裂が入り、水路も壊れ、深刻な被害を受けた。
「被災地の記録」を進めていく中で、「日常を取り戻す」や「復興」という言葉が程遠く感じた。テレビなどで報道される情報は時間などの関係もあり、どうしても限定されてしまう。「私たちの町の被害は伝えられていないので、写真を撮って発信してほしい」。避難者やSNSからはそんな言葉も届いた。
能登半島は私の「人生のレール」を敷いてくれた場所だ。写真を通じ、多くの人々と出会い、自分自身を成長させてくれた。私は覚悟を決め、能登半島に起きた「現実」を記録し続けることにした。
能登半島に起きた現実と1年の歩み
能登半島のさまざまな地域を訪ね、地震や津波の被害を目の当たりにした時、まるで時空が歪(ゆが)み、現実から切り離された異世界に迷い込んでしまったかのような感覚にとらわれた。その場に立った瞬間、自分がここにいること自体が正しいのか、ためらいを覚えるほどの恐ろしい現実が目の前に広がっていたのだ。
3月中旬に「のと里山海道」は輪島方面限定ながら全区間で通行可能となり、7月には全線で対面通行が再開された。交通網の復旧が進むにつれ、全国からボランティアが能登半島へ駆けつけ、支援が本格化していった。彼らの存在は被災地にとって大きな励ましであり、温かい言葉にどれだけ勇気づけられただろう。
夏になるといくつかの地域ではキリコ祭りが開催され、笑顔と熱気があふれた。
キリコ祭りは夏から秋にかけて半島各地で行われる祭り。キリコと呼ばれる巨大な燈篭(とうろう)を担ぎ出し、威勢の良い掛け声や太鼓・鉦(かね)の音に合わせ、町内を練り歩く。
各地の被災状況から、数年は能登で祭りを見られないだろうと思っていたので、不安や葛藤を抱えながらも祭りの開催に踏み切った地域の人たちの決意や強い思いが伝わってきた。祭りへの思い入れは格別なものとなって、そこに集う人々の姿には一層の輝きがあった。
キリコを担ぎながら笑い合う若者たちの姿や、地域の活気を取り戻そうとする熱意には、言葉にできないほどの力強さを感じた。それはまさに、能登の人々が未来への一歩を踏み出す象徴のようにも見えた。
私自身の家族についても少し触れると、3月下旬に両親もようやく2次避難先から「みなし仮設住宅」に入居できた。避難生活からの一つの区切りとなり、生活の安定を取り戻す小さな希望を感じた。とはいえ、ここに至るまでには多くの手続きや時間が必要で、被災者の生活再建の道のりがいかに厳しいものかを改めて実感した。
能登半島地震から半年がたつと、被災家屋の解体作業が本格化し始めた。特に夏以降、公費解体のペースが進み、石川県は11月末時点で約1万棟の解体が完了したと発表した。政府や石川県は、2025年10月までに公費解体の完了を目指しており、1万棟は解体見込み棟数の約3割にあたる。作業の進捗(しんちょく)は目に見えて加速していった。
倒壊した家屋が並んでいた場所は次々とさら地となり、かつて生活が営まれていた痕跡が失われていく光景も広がった。集落がさら地となり、草木が生い茂ることで、そこに家が建っていたことすら初見では分からなくなった場所も少なくない。今は復旧・復興の過程ではあるが、同時に地域の景観や記憶が静かに失われていくようにも感じられる。
「被災地」の記録から「復興への道のり」の記録へ
石川県は12月17日、能登半島地震による県内の死者が469人に達したと発表。他県や今後の災害関連死の認定などを含め、死者は全体で500人を超える見通しだ。建物の被害は合計10万件近くにのぼっている。
今の能登半島は、復興への道のりに立つ前の「応急処置」の段階にあると感じる。9月の能登豪雨で甚大な被害を受けた地域も多く、この先、まだ多くの困難が待ち受けているだろう。もともと少子高齢化と過疎化が著しく進んでいたところに、今回の地震が追い打ちをかける形となり、人口流出も避けられない現実がある。
「復興」という言葉にどのようなイメージを持つかは、立場や状況によって異なるだろう。それでも、被災地支援に来てくれた多くの人が「能登は必ず復興しますから」と力強く言ってくれたその言葉に、私は大きな希望を見い出している。
雨が降り続く中、被災地を記録していると、一瞬だけ空に晴れ間が見えた。その瞬間、海の方に虹が架かり、倒壊した家屋と空が一つの風景として映し出された。その光景をカメラに収め、今回の記事の冒頭に掲げた。この一枚が未来の能登へ希望をつなぐ写真になることを願う。
月日がたち、被災地の状況が変わっていく中で、写真を撮り続けた私にしか伝えられないことがあるかもしれないと感じ始めた。能登には美しい自然に加えて、古くから受け継がれてきた豊かな文化や伝統がある。それらは単なる「遺産」ではなく、未来へとつながる大切な「財産」だと思っている。そして私たちは、この文化や伝統を決して失うことなく、次の世代へと受け継いでいかなければならない。私は写真家として、それらを担う一部になりたいと思う。
復興への道のりを記録し続けることで、現実と向き合いながら、生業(なりわい)の再建にも努めたい。「再生」には長い時間が必要だが、その未来に少しでも希望の光を灯(とも)せるよう、歩みを止めることなく進むつもりだ。
この記事が、能登半島地震を記憶するきっかけとなり、一人でも多くの人が能登の今とこれからに思いを寄せてくれることを願う。
バナー写真:被災地の海辺のがれきを記録していた時、一瞬だけ現れた虹=2024年11月27日、珠洲市折(吉岡栄一撮影)