世界で最も売れたバイク 疾走し続けるスーパーカブ
経済・ビジネス 社会- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
「カブに始まり、カブに終わる」
物心が付いた半世紀以上前、すでに身近にスーパーカブがあった。朝夕の新聞配達、昼時にはそばや中華料理の出前など、さまざまな用途でこの原付きバイクが活躍していた。視界に入らずとも、「ストトトトッ」という周囲を威圧しない柔らかな排気音、「ガチャコンッ」という変速時のメカニカルなサウンドから、耳でもスーパーカブの存在を感じることができた。都会だろうと田舎だろうと、日本のあらゆる場所で私たちの生活になじんできた稀有なバイク、それがスーパーカブなのだ。
モータージャーナリストとしてこれまで、国内外のさまざまなモーターサイクルを試乗してきたが、スーパーカブに乗るたびに牧歌的で心地良いエンジンの鼓動感と、ライダーの技量を問わない易しい操作性、そして燃費の良さに感心する。故障したという話は全くと言っていいほど聞いたことがない。「フナに始まり、フナに終わる」 という釣りの格言になぞらえて、ライダーたちはバイク趣味について「カブに始まり、カブに終わる」と昔から言い習わしてきた。スーパーカブは初心者がライディングの基本を学ぶのに最適な上、年を重ねても乗り続けられることから、まさにこの言葉は言い得て妙なのだ。
スーパーカブの主な歴史
1958年8月 初代「スーパーカブC100」発売
1959年 米国へ輸出開始
1961年 スーパーカブシリーズ、世界生産累計100万台
1964年 オーバー・ヘッド・カムシャフト(OHC)を初採用したスーパーカブC65発売
1974年 世界生産累計1000万台
1983年 スーパーカブ50、燃費180km/l達成
2005年 世界生産累計5000万台
2008年 発売50周年、世界生産累計6000万台
2014年 スーパーカブの形状が日本で立体商標登録認可
2017年 世界生産累計1億台
2025年 50ccモデル生産終了予定
出所:ホンダ
本田宗一郎が造り、藤沢武夫が売った
スーパーカブは、ホンダの創業者の一人であり、営業の最高責任者であった藤沢武夫がプロデュースし、叩き上げの技術者である創業社長の本田宗一郎が開発した。
1956年12月、この2人はヒット商品へのヒントを得るためにヨーロッパを視察する。当時、日本ではスクーターが人気であり、ホンダも54年にFRP(繊維強化プラスチック)樹脂ボディの「ジュノオK型」を発売。しかし、車重に対してパワーが不足している上、故障が多かったことから、決して成功作とは言えなかった。本田と藤沢は、ヨーロッパで多くの人がスクーターやモペッド(ペダル付きのバイク)を日常の足として使用しているのを知り、国情の違いをくんだ上で、日本人が求めている小型二輪車の理想像を模索した。
2人が絞り込んだコンセプトは、「そば屋の出前持ちが片手で運転できること」と、「スカートの女性でも乗れること」であった。本田は欧州から帰国してすぐの57年早々から陣頭指揮を執ってエンジンの開発に着手する。当時、バイクのエンジンは軽量でシンプル、かつ高出力が出せる2ストロークが主流だったが、本田は燃費性能に優れ、オイルの飛散の少ない4ストロークを選択した。またぎやすさを優先してエンジンをできるだけ低い位置に搭載したり、左手によるレバー操作が不要な遠心式自動クラッチを開発したりと、さまざまな新機軸を盛り込んだ。排気量は50ccで、最高出力は4.5馬力。同じく50ccで2ストロークの「ホンダ・カブF型」(自転車に取り付けた補助エンジン)が1馬力であったから、実に4倍以上ものパワーを発揮したのだ。
車体設計においてもさまざまなアイデアが具現化された。タイヤ径については、当時の舗装率がまだ10%程度だったことに加え、小柄な日本人の体格を考慮して17インチがベストとされた。しかし、国内では存在しないサイズだったため、これを量産してくれるタイヤメーカー探しに奔走した。スーパーカブのスタイリングは、この17インチタイヤを前提にデザインされており、もし対応してくれる会社がなかったら、今に続くエレガントなS字ラインの車体は生まれていなかったかもしれない。
加えて足元を覆う特徴的なレッグシールドは、前輪からの泥跳ねを防ぐものであり、軽量なポリエチレン樹脂で作られている。当時の専門メーカーではこれほど大きな成形をしたことがなく、ホンダ側で金型を用意することを条件に量産してもらえることになったのだ。
自転車用補助エンジンのカブF型を超えるという意味から、「スーパーカブC100」と名付けられたこの新型車は、58年8月に発売されるや否や大ヒットとなる。当時、二輪車をすべて合わせた国内の販売台数は月間4万台程度だったが、藤沢は「スーパーカブだけで月間3万台は売れる」と宣言。そして、発売3年目にして早くも年間の生産台数が約56万台に跳ね上がり、藤沢の宣言をはるかに上回った。
アメリカで成功、世界中へ
藤沢はスーパーカブ発売の2年前から海外市場を調査していた。二輪の年間販売台数は欧州が200万台だったのに対し、アメリカはわずか6万台。当時のアメリカにおいて、バイクはアウトローの乗り物というイメージが強く、しかも売れているのはハーレー・ダビッドソンやトライアンフなどの大排気量車が中心だった。
困難が予想されるものの、世界一の購買力を誇っていたアメリカで成功すればリターンは大きく、世界へ飛躍する足掛かりとなる。藤沢は、最初にチャレンジすべきはアメリカだと決断した。ホンダはスーパーカブを日本で発売した翌59年、「アメリカ・ホンダ・モーター」をロサンゼルスに設立する。4機種ほどのラインナップで乗り込んだが、売り上げは惨憺(さんたん)たる結果になった。
苦境の中で活路となったのが、スーパーカブC100(北米名:ホンダ50)だった。日本では配達や通勤などの足として普及したが、アメリカではピックアップトラックやキャンピングカーに積んで、移動先での遊び道具として使われ、高い評価を得ていた。
市場の動向を分析したアメリカ・ホンダは、従来の二輪販売店だけでなく、釣具店やスポーツショップにまでホンダ50の販路を広げ、さらに積極的に雑誌や新聞に広告を打った。こうした努力が実り、62年には年間の販売台数が4万台以上に伸びたのだ。
そして、63年には満を持して「ナイセスト・ピープル・キャンペーン(Nicest People Campaign)」の宣伝広告を大々的に展開。「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA(ホンダに乗ると素晴しい人びとに会える)」というキャッチコピーと、さまざまな使い方を提案したイラストは大評判となった。これにより、バイクはアウトローの乗り物から、生活を楽しく便利にする二輪モビリティというイメージの転換に成功。ホンダ50はアメリカにおいて社会現象の一つにまでなったのだ。
アメリカでの成功と前後して、ホンダはスーパーカブの海外生産もスタートした。これは「需要のあるところで生産する」という企業理念に基づくもので、61年に台湾、63年にベルギー、そして67年にタイの工場が稼動。現在では世界9カ国10拠点で生産されている。
各国で進化、発展
C100の誕生から59年後の2017年10月、スーパーカブ・シリーズの世界生産累計が1億台に達した。単一シリーズとしては世界一であり、現在は1億1000万台を突破している。
スーパーカブは各国のニーズに合わせたさまざまなバリエーションが存在し、例えば日本では1961年という早い段階でC100の新聞配達仕様を国内ショーで公開。また、同年にアメリカではオフロード走行を考慮した「CA100Tトレール50」を発売している。
95年には、モダンでスタイリッシュなデザインの「WAVE」がタイで登場。これは東南アジア全域だけでなく、南米でも大ヒットする。ブラジルでは、手荷物を抱えてバイクに乗るのは格好悪いとの理由から、シートの下に大きな収納スペースを持つ「Bizシリーズ」が98年に誕生した。こちらも南米エリアのスタンダードモデルへと成長している。
日本では2025年11月から始まる排ガス規制の強化に伴い、排気量50cc以下の原付きバイクは生産できなくなる。ホンダは24年12月に限定の「最終モデル」を発売し、25年5月をメドに生産を終える。110ccモデルは引き続き生産、販売を続けるため、スーパーカブの歴史がここで途絶えるわけではない。気軽に乗れて、便利かつ経済的、しかも堅牢で壊れにくい。世界の街中でスーパーカブを見かけたら、「あれも1億1000万台の内の1台だ」と思いを巡らせてはいかがだろう。
バナー写真:2022年にモデルチェンジした「スーパーカブ110」に乗る大屋雄一氏。最新の排ガス規制に対応したり、パンク修理のしやすいチューブレスタイヤを採用している(モーターファンバイクス提供)