【追悼】詩人・谷川俊太郎:日本語の可能性を広げ続けた「柔らかな心」の革新者
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生きることの寂しさ
谷川俊太郎さんは、近代から今日に至るまで、日本で最も人気のある詩人だと言える。明治以降、近代詩の父と呼ばれる萩原朔太郎をはじめ、北原白秋、中原中也や宮沢賢治、戦後の詩壇を彩った田村隆一、茨木のり子、新川和江らまで多くの詩人たちが活躍してきた。それでも、谷川さんほど多くの人に愛され、70年以上にわたり活躍した詩人はいない。
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ万有引力とは
ひき合う孤独の力である宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
18歳のときに文芸誌「文学界」に発表した詩「二十億光年の孤独」は、日本人の多くが教科書などで一度は目にしたことがあるはずだ。みずみずしい一編には、大きな宇宙に抱かれて生きる人間の喜びとともに、誰もが持つ孤独や不安、仲間を求める気持ちが刻まれている。
この世に生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きる人間とは、根源的に悲しみを抱えている。豊かな四季の移ろいの中を生きる日本の人々は古来、生命の移ろいにも敏感で、生きることの寂しさを「もののあはれ」と表現した。
人間は、自らの不完全さ、ひずみを知るがゆえに、誰かを求めずにはいられない。自らを満たしてくれるはずのものを探して、遠く夢を見続けてしまう。ひんやりとしたものの中に静かな熱をはらんだ言葉に触れた後は、「この世に生を受けるとは、なんとあはれなことなのだろう」と、小さなため息をつかずにはいられない。
この詩から思い起こされるのは、平安末期から鎌倉時代の初めを生きた僧侶、歌人の西行の歌だ。武士としての栄達を捨て、歌の道に生きた西行は、今からおよそ千年前、若き日の谷川さんと同じように、夜の空、自然の静寂の中に自分を見つめて歌を詠んだ。
なげけとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな
心なき身にもあはれはしられけり
しぎ立つ沢の秋の夕暮れ
柔らかく平明な谷川さんの詩は、一見モダンのようでありながら、日本の伝統的な感受性とも真っすぐに結びついているのかもしれない。
「柔らかな心」を持ち続けて
1931年12月15日、法政大学総長も務めた哲学者の父、徹三と母の多喜子の間に、一人っ子として東京に生まれた。軍国主義が強まりつつある時代の中で、大正デモクラシーの自由な空気の中で育った両親のもと、家には開明的な空気が流れていた。毎年夏には、浅間山のふもとにある北軽井沢の別荘で過ごした。後の作品に現れる自然や宇宙のイメージは、この地で感じたものが色濃く影響しているという。旧制都立豊多摩中(現・都立豊多摩高)に進み、13歳で終戦を迎えた。
戦後の文学者を語るとき、終戦時に何歳だったかは大きな問題だ。300万人以上の死者を出したこの戦争を、銃後の市民として、兵士として、あるいは子供としてどう生きたのか。年齢が少し違えば、その体験は大きく異なり、文学的感受性に影響したからだ。戦後の詩壇は、戦中のアナーキズム運動やプロレタリア詩の流れをくむ小野十三郎(とおざぶろう)ら日本的叙情を否定する人たちや、同人詩誌「荒地」を舞台に、実際に召集された経験を持つ鮎川信夫や田村隆一など硬質な詩を書いた人たちが力を持っていた。
一方、少年時代に終戦を迎えた谷川さんは、焼け跡で死骸を見るなど重い体験を抱えながらも、柔らかな心を持ち続けることができた。21歳のとき、「櫂(かい)」の同人になる。川崎洋(ひろし)、茨木のり子のほか、同世代の大岡信をはじめ、穏やかで心に染み入る親しみやすい作品を書く詩人たちが同人だった。
詩も言葉も信用していない詩人
1960年代以降、豊かになっていく日本社会の中で、言葉に関わるさまざまな仕事を引き受け、一般的な知名度は高まっていく。62年には、曜日で言葉遊びをした「月火水木金土日の歌」の歌詞で日本レコード大賞作詩賞を受賞、63年には、手塚治虫原作のテレビアニメ「鉄腕アトム」の主題歌を作詞した。64年には市川崑監督から頼まれて、記録映画「東京オリンピック」にも関わった。
そんな中で、65年に発表した連作詩「鳥羽」の一編は、文学界に大きな衝撃を与えた。詩人として生きるとはどういうことなのか、鋭く問い掛けてくる。
何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ本当の事を云おうか
詩人のふりはしてるが
私は詩人ではない
詩の言葉とは、この世に存在するもの、人間の中に湧き上がる感情を、じかにつかみ取ることができるものなのか。谷川さんは、元読売新聞編集委員の尾崎真理子氏によるインタビューで、「言葉がどこまで可能か、有効かということに対して、一種のあきらめから出発した感じがする」と語っている(尾崎真理子著『詩人なんて呼ばれて』)。
他のインタビューでも、言葉や詩を信用していなかったからこそ、さまざまな表現を模索してきたと語っている。
1970年代以降、谷川さんは、それまでの詩人が試みたことのない、独創的な日本語の実験に挑み、言葉の可能性を追求していく。
「ことばあそびうた」(73年)では、ひらがなだけで表現する「ひらがな詩」を試み、読者を広げた。明治以降の日本語は、西欧の概念を漢語に訳して取り入れたことで、観念的で分かりにくい面がある。子どもに向けた詩の形を取って、言葉を柔らかくほぐそうとしたのだ。75年には伝承童話集「マザー・グースのうた」を、漢字をほとんど使わずに邦訳し、日本翻訳文化賞にも輝いた。日本では「スヌーピー」の名で知られるチャールズ・M・シュルツの漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳も手掛けた。
旺盛な詩作や執筆活動の一方で、詩人は言葉を越えた、本当の人の魂との触れ合いや詩情を求めて常にさまよっていたのかもしれない。私生活では22歳のときに結婚した詩人の岸田衿子さんをはじめ、3度の結婚、3度の離婚を重ねた。1990年に結婚した3人目の妻、絵本作家の佐野洋子さんは、ロングセラー『100万回生きたねこ』などを残した。才能ある女性との交際は、中年に差し掛かった詩人の世界につややかな彩りをもたらしたが、前述の『詩人なんて呼ばれて』の中で、「僕は生傷が絶えなかった」と正直に振り返っている。
近代文学史を振り返ってみれば、詩人の中原中也と評論家の小林秀雄は、恋人の長谷川泰子をめぐって三角関係に陥った。『智恵子抄』を残した高村光太郎は、深すぎる愛と鋭すぎる才能から妻の智恵子を狂わせてしまった。詩を生きるための杖とする者は、自分の心と言葉に正直にあろうとして、魂の旅を繰り返す宿命にある。谷川さんも例外ではなかった。
身近にあるささやかな幸せ
谷川さんの詩は、いつも私たちのそばにあった。地球の広さを思い起こさせる「朝のリレー」(1982)は教科書に載り、2003年にはネスカフェのCMにもなった。東日本大震災の後、1971年に発表した「生きる」がインターネットを通じて拡散され、人々の心を慰めた。
その言葉にいやされてきたのは日本人だけではない。やさしい言葉を使い、リズムにも優れている作品群は、日本語を学ぶ外国人たちも強く引きつけてきた。
中国が文化大革命の真っただ中に幼少期を送った1965年生まれの詩人、田原(ティエン・ユアン)さんは、日本に留学後、谷川さんの詩に出会った。人の心を包み込むような世界に深く感銘を受け、翻訳して母国に紹介するようになった。異国で出会った詩の言葉に導かれ、自らも詩を書くようになった。
梅干し好きの日本人は梅の樹によじ登って
青梅を揺り落とす
梅の実の雨粒であるかのように
ボトボトひっきりなしに落下するのである湿った普段着のように梅雨は
裸の島々をそっと被う(「日本の梅雨」より)
田原さんが谷川さんの詩から受け取ったものは、日本語のふくよかさだけではない。政治や社会体制といった私たちを覆う硬いよろいを脱ぎ捨て、木に実る青い梅やその匂い、地面に落ちた音といった生活の実感を伴ったものに心を寄せること。すなわち、この世のささやかな喜びを大切にする生のスタイルのようなものだろう。
田原さんだけではない。現在、その作品は英語や中国語、フランス語、ドイツ語など20数カ国語に翻訳され、世界の人々が日本文化に親しむきっかけとなっている。その功績がたたえられ、2019年に国際交流基金賞が贈られた。
贈賞式に車いすで現れた詩人は、「僕は権威にはなりたくありません」と若々しく語り、取材に集まった記者たちを大いにわかせた。
谷川さんの詩は、発表しただけで2500編以上と言われている。90歳を超えても、新しい試みを続けてきた。これは、昨年出版されたブレイディみかこさんとの往復書簡形式の共著『その世とこの世』の中に収められた「これ」と題する詩の一節だ。
これを身につけるのは
九十年ぶりだから
違和感があるかと思ったら
かえってそこはかとない
懐かしさが蘇ったのは意外だった
老いておむつをつける生活になった自らの近況を表現したものだ。一つずつできないことが増え、煩わしさに取りつかれていく老いの風景さえ、まばゆい光を放つ詩に昇華してしまう。
その作品は星々のように輝き続け、私たちの人生に寄り添い続けることだろう。
バナー写真:谷川俊太郎さん(2021年12月24日、東京都杉並区の自宅で / 共同)