ニッポンの異国料理を訪ねて: ウイグルの味を世界へ。 さいたま市「シルクロード・ムラト」が伝える故郷の一皿
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ウイグルの夫婦が営む「希望」の料理店
JR北浦和駅を起点に西へ延びる埼大通りを車で走っていると、国道17号線を越えたあたりで、いきなり風変わりな名前の店が現れる。「シルクロード・ムラト」。2006年にオープンしたウイグル料理レストランで、ムラトとは希望を意味する。
ウイグルと聞いて、具体的なイメージを描くことができる人はどれくらいいるだろうか。ウイグルはシルクロードで知られる中国西域、新疆ウイグル自治区を指し、そこには2020年の中国国勢調査によると1162万人のウイグル人が暮らす。大半がイスラム教徒だ。
シルクロード・ムラトを営むウイグル人の夫婦、夫のウシュル・エリさんと妻のアイトルソン・トホティさんもイスラム教徒であり、この店で提供される料理はハラル。ハラルとはイスラム法で「許されたもの」を意味し、中国料理の主役のひとつである豚は、ここでは一切出てこない。店内の装飾も、私たちが一般的にイメージする中華の雰囲気からはほど遠い。
シルクロード・ムラトの朝は早い。ランチ営業がない平日でも、朝7時ごろから仕込みが始まる。「面白いものが見られますよ」とエリさんに誘われて早めに店を訪れると、本場のパンづくりの最中だった。小麦の産地として知られるウイグルでは「ナン」と呼ばれる固めのパンが主食で、家庭でも日常的に食べられるソウルフードだという。
小麦粉を練って、しばらく寝かせた餅のような生地の数々。それをエリさんと男性スタッフの2人が器用に成型し、模様をつけていく。男性スタッフはウイグルに近い中央アジアのウズベキスタン出身だが、2人はウイグル語で会話をしていた。エリさんによるとウイグルとウズベキスタンの言語は「どちらもトルコ語の兄弟みたいなものなので、問題なく通じます」とのこと。試しに筆者が学習中のトルコ語で話しかけると、これがそこそこ通じるのだった。
世界は、そして人々はつながっている──。
シルクロード・ムラトにいると、そんな世の中の姿が手に取るようにわかる。人気メニューのひとつである炊き込みごはん「ポロ」はウズベキスタンにもあり、「プロフ」という名の国民食として親しまれている。
ウイグルの朝の食卓には、ナンとイチジクやアンズのジャムと並んで決まって紅茶が出てくる。その呼び名はトルコやインドと同じチャイだが、ウイグルのチャイはインドやトルコとは異なり、砂糖ではなく塩を入れる習慣があるという。普遍性の中に、さりげなく多様性が浮かび上がる。
「偉くなりたくて日本に来た」
ナンの釜入れを見届けてしばらくくつろいでいると、近所に住むエリさんの日本人の友人がひょっこりと顔を出し、昔話に花を咲かせる。
友人「僕は以前、和食レストランをやっていて、その店に来日間もないエリさんが来たんだよ。それから近所の居酒屋でもちょくちょく会うようになって付き合い始めた。当時はエリさん、日本語ができなかったよね」
エリさん「全然。与野(さいたま市)の日本語学校に通ってはいたけど」
友人「知ってたのは『カンパイ』くらいだったんじゃない?」
やがて友人が帰ろうとすると、エリさんは「これ持って行って」と言って、でき立てのナンと一緒に、スイカを手土産に持たせた。彼が言うには、この組み合わせが「言葉にならないくらいうまい!」らしく、友人も太鼓判を押すのだった。
この日はイスラム教の礼拝日である金曜日。昼になるとエリさんはスタッフとともに近所のモスクに出掛け、その後、自らの人生について話を聞かせてくれた。
シルクロード・ムラトの店主エリさんが来日したのは1997年、27歳の時だった。
「ひとことで言えば、ぼくは偉くなりたくて日本に来たんです。父は県知事まで務めた人で、姉は大学の先生。ぼくはウイグルの国営企業の会計士として働いていたけど、最終学歴が専門学校だったので、父や姉のように偉くなるには大学や大学院に行かなきゃいけないと思った。それで姉が留学していた日本に来たんです。アジアナンバーワンの経済大国でしっかり学んで帰ったら、ウイグルでエリートになれると思って」
日本での暮らしは、見るものすべてが新鮮で驚きに満ちていた。駅の自動改札や自動販売機を見るたび最先端のテクノロジーに感心していたが、なにより忘れられないのがバラで有名な近所の与野公園にある公衆トイレの美しさだった。「遠くから見て別荘かな? と思って近づいて行ったら、トイレなんです。日本人はトイレにこんなにこだわるんだと驚きました」
日本語が上達して知り合いが増えてくると、日本人の生き方にも感銘を受けた。「お金持ちの社長の子どもでも、自分の力でがんばりたいという人が結構いて、起業するためにバイトでお金をためている人によく出会いました。血縁や賄賂に頼らず、自分で道を切り開こうとする。自分が生まれ育った国にはいないタイプの人たちでした」
日本語学校を出て、日本の大学で経済を学んだエリさんは、この国で働いてみたいと思い、自動車部品メーカーに就職する。だが、すぐにやめようと思った。その会社はウイグルに進出しようとしていたが、計画がとん挫し、会社にいる意味がなくなってしまったからだ。
「その会社の社長さんは、私が『役に立てないからやめる』と言い出すと反対しました。私のことを気に入ってくれていたからです。でも私は意志を貫き、自分のペースで働けるレストランを開こうと思って調理師免許を取得しました。ウイグルにいたころ、父の友人の食堂を手伝っていたこともあって、料理が得意なんです。日本の調理師免許だから、ぼくは和食ならなんでも作れる。でも、外国人の和食を誰が食べてくれるの? そう思って故郷の料理を出すことにしました」
地域住民にも愛される故郷の味
「故郷で偉くなりたい」から、「日本でウイグル食堂を」へ。気がつけば、人生のベクトルは変わっていた。それは故郷が変わったことが大きいのだろうか。ウイグルが今どうなっているのか、筆者は繰り返し尋ねたものの、エリさんは全く何も語ろうとしなかった。
2006年にオープンしたシルクロード・ムラトは、日本でなじみのない異国料理店で、かつ駅から遠い立地にもかかわらず、しっかりと地域に根づいた。週末になると遠方からもウイグルの同胞やイスラム教徒の留学生や労働者、日本人のエスニック料理愛好家がやって来るが、お客さんの多くは地元に暮らす日本人だ。
この店が日本人から愛されるのはなぜか。それは第一に、ウイグル料理が日本人の舌に合うということが大きい。妻のアイトルソンさんが言う。
「私は来日後、いろんな国の料理を食べたことで、改めてウイグル料理の特徴を知りました。ムスリムが食べる食事は、スパイスがかなり効いたものが多いですよね。ウイグル料理でもクミンをはじめ、コショウやコリアンダーといったスパイスが重要な役割を果たしていますが、量が控えめでやさしい味つけなんです。ですから初めて来て、舌に合うといって驚くお客さんが多いんです」
こうした味に加えて、日本で出会った夫婦が2人の子どもを育てながら地域の人たちと交流してきたことが大きい。特にアイトルソンさんは「ウイグルのことを伝えられるなら」と、声がかかれば忙しい合間をぬって近隣の学校や行事に顔を出し、故郷ウイグルの文化を伝え続けている。
シルクロード・ムラトには、常連の多くが頼む名物がある。それはラグ麺。小麦文化に生きる人々の食卓を彩ってきた、ウイグルを代表するメニューだ。
丹念に手延べした平麺はやわらかくも腰があり、小麦本来の甘みが漂う。これに旬の夏野菜とラム肉をニンニクとしょうがベースのスープに絡めていただくと、疲れ切った体が次第に元気になっていくのだった。
汗を流しながらラグ麺を食べ進める筆者を見て、アイトルソンさんがうれしそうに言った。
「この店を始めたとき、私たちの故郷のことは全然知られていなくて、『ウイグルって料理の名前なんですか?』なんてよく聞かれて悔しい思いをしました。でも、いまでは少しは知ってもらえるようになったかな。ウイグルのことを世界中の人たちに知ってもらう。それは外国に出た、私たちの務めだと思っていますから」
妻の言葉を引き取って、エリさんがこれからの人生を語る。
「ぼくの思いはただひとつ。とにかく家族をちゃんと食べさせたいということだけです。そのために、シルクロード・ムラトをしっかり守っていきたい。でも、子どもたちにこの店を継げとは言わないですよ。彼らには自分の好きな世界で、好きなように生きてほしいから。老後はどうするかって? 温泉にでもつかって、のんびり過ごそうかな。でもウイグルに帰ることもあるかもしれないなあ。人生、先のことは分からない。明日はどんな風が吹くか、それは誰にも分からないから」
すでに人生の半分を日本で暮らしたエリさん。異国で愛する家族を養っていくことに心血を注ぎながらも、言葉の端々から望郷の念があふれるのだった。
バナー写真:仲むつまじく「シルクロード・ムラト」を切り盛りする、ウシュル・エリさん(左)とアイトルソン・トホティさん夫婦 (熊崎敬撮影)