山崎豊子生誕100年:壮大重厚な作品世界への誘い

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2024年は作家の山崎豊子生誕100年の節目となる。綿密な取材に裏付けられた彼女の作品は壮大重厚なものであり、それ故、寡作であるが、多くの読者に支持され、そのほとんどが映像化されている。人々を引きつけてきた作品世界を紹介したい。

両手で握手を求めてきた

出版社に勤務する私は、何度も山崎豊子氏から話を聞く機会に恵まれた。作風からいって気難しい人物を想像していたが、初めて山崎氏の大阪の自宅でお会いした時こそ緊張したものの、それ以後、東京で会うようになってからは、彼女は「滝野さーん」と言って両手で握手を求めてきた。素顔はおちゃめで気さくな、話好きの「大阪のおばちゃん」であった。

本稿では、直接ご本人から聞いた話や、彼女の書き残したものからその作品世界を紹介していこうと思う(以下、敬称略)。

家業から生まれた大阪商人の物語

山崎豊子(1924~2013年)が産声を上げた大阪の船場は商人の町であり、彼女の実家もまた昆布商であった。1944年に現在の京都女子大国文科を卒業後、毎日新聞大阪本社に入社。配属先の学芸部の上司が後に作家となる井上靖である。その出会いがなければ、作家山崎は誕生していなかった。

彼女は井上から「人間というのは一生に一回は傑作が書ける。自分の家のことなら書ける。君も何か書いてみたらどうか」と勧められる。それが57年の処女作『暖簾』であり、翌年、中央公論に連載した『花のれん』で早くも直木賞を受賞する。このときの受賞の言葉は、後年の執筆スタイルを暗示するものだった。

いわく、「私は盆栽作りのような枝ぶりのよい小説は書けそうもないし、また書きたいとも思わないのです。禿山(はげやま)に木を一本、一本、植林していくような、いわば植林小説を書いて行きたい」。山崎は「半年勉強して、半年で書く」というスタイルを通していた。

「山崎豊子生誕100年」のフェア=都内の書店で(nippon.com編集部撮影)
「山崎豊子生誕100年」のフェア=都内の書店で(nippon.com編集部撮影)

今日知られる社会派作家としての地位を不動にしたのが、『白い巨塔』(63年週刊誌連載開始)である。浪速大学病院に勤務する野心家の第一外科助教授・財前五郎と良心的な第一内科助教授・里見脩二を通して、教授選をめぐる医局の腐敗や医療ミスの問題を鋭く突き、大きな社会的反響を呼ぶ。

もっともご本人は「社会派」とレッテルを貼られることにご不満だったようで、「弱い立場の人を見過ごせない、不条理を許せないという元来の性格が、たまたま社会的テーマに広がっただけ」と語っている。

だが、同作の反響の大きさから作家の視線がより社会的な問題に向かっていったことは間違いないところだろう。今度は経済界、なかでも最も聖域とされた銀行業界に斬り込んだ『華麗なる一族』(70年週刊誌連載開始)が始まった。

同作は、関西有数の財閥当主で都市銀行頭取の万俵大介が、折からの金融再編に乗じて「小が大をのみこむ」大型合併をもくろむというもの。だが、系列の鉄鋼会社専務で正義感の強い長男の鉄平は唯我独尊の父親との確執が絶えず、破局を招く。山崎によれば「閨閥(けいばつ)、企業悪、官僚悪の三本の柱」がテーマであったという。

「作品を通して人間の真実が見えてくる」

山崎作品の魅力は、綿密な取材に裏付けられた、細部に至るまでの圧倒的なリアリティである。取材は長期にわたる。小説にはそれぞれ原型となるモデルが存在する。それ故、発表後に様々な臆測を呼ぶことになるが、彼女は「実在する一人の人物が、そのまま小説の主人公になり得るのなら、作家の創作の作業は要らない」と断じている。

そして、この作家のすごみは独自の視点でさらに読者を引きつける個性的な人物造形を仕立てていることだ。「取材で得た事実を羅列しただけでは、小説にはなりません。事実を掘り下げて、作家としての構成力、想像力で人間ドラマを形作る。作品を通して人間の真実が見えてくる」と語るのである。

山崎は、納得するまでとことん取材対象に肉薄していく。主要な登場人物にあわせ、物語の進行をラストまで時系列で大きな紙に書きこんでいく。その年表が完成し、全体を俯瞰(ふかん)、構想がまとまって初めて執筆に取り掛かる。

しかも腹にストンと落ちる題名が決まらなければ、容易に書き出せない。彼女は「タイトルはその作品のテーマそのものです」と語る。『二つの祖国』と『沈まぬ太陽』について、「祖国は本来ひとつだし、太陽は必ず沈みます。相反する言葉をふたつ並べたところがいいんです」と言っていたのが印象的だった。

作家の原点となった戦争体験

ご本人によれば、作家としての原点は戦争体験だった。戦中、彼女は軍需工場で弾を磨く作業に従事する。体調が悪く、休んでいる時に海外の小説を読んでいて、監督する軍人に殴られたこともあった。「私には青春がなかった」とも言う。彼女はこう書いている。

「男子は特攻機に乗って雲の向こうに死んでいき、私たち女子学生は全員、大学二年で動員された。そして飛行機工場に動員された友達はB29に爆撃されて死んでいった。私には、常に生き残った者として、何をなすべきかという思いがある」

そこで編まれたのが以下の戦争3部作である。

『不毛地帯』(73年週刊誌連載開始)は、第2次大戦中、大本営の作戦参謀だった主人公の壹岐正が苛烈なシベリア抑留を経て、戦後は商社に身を転じ、ライバル社との激しい商戦に巻き込まれていく物語だ。

山崎は、高度経済成長で豊かになったものの「日本全体が精神の不毛地帯になっている」との危惧から、「かつて大本営作戦参謀として戦争に携わった主人公が、その不毛の中でいかに生きるか、その生き方を通して、戦後、三十年の日本の歩みを描いた」と書いている。

山崎豊子の作品群(nippon.com編集部撮影)
山崎豊子の作品群(nippon.com編集部撮影)

『二つの祖国』(80年週刊誌連載開始)は、太平洋戦争から東京裁判を通じ、ロサンゼルスに住む日系2世の主人公・天羽賢治が、日米二つの祖国に引き裂かれる悲劇を描いたもの。日系人強制収容所、フィリピンの戦場、広島の原爆、東京裁判の4つのテーマを盛り込んだ意欲作だ。山崎には「日本人の心が荒廃し、自分の生れた国、祖国を愛するというごく自然の心すら失われつつある」という思いがあったという。

『大地の子』(87年月刊誌連載開始)は、中国に残された「戦争孤児」の悲劇が題材だ。そこに現実の日中共同の製鉄所建設プロジェクトを絡めている。主人公の陸一心(ルー・イーシン)は、篤志家の中国人に育てられ、優秀な技術者となるが、文化大革命で辛酸をなめ、名誉回復後に同プロジェクトに関わるものの、日中対立のはざまで翻弄(ほんろう)される。

本作の読みどころは、中国の人々の暮らしや中国共産党の実情を克明に描き切ったところにもある。それは当時の胡耀邦総書記との出会いがあったから可能になった。本来なら外国人が立ち入ることのできない未開地の貧しい農村や製鉄所などの取材が許された。開放政策が進んだ「つかの間の春」だったからこそ、作品が生まれたのである。実の父親との再会後が本作の肝だ。

「明日を信じて生きる心の中の沈まぬ太陽」

8年かけて『大地の子』を書き終えた時、山崎は「精も根も尽き果てた」と言う。そこで自分へのご褒美として、若い頃の憧れだったアフリカの最高峰キリマンジェロの観光に出かけ、ケニアの首都ナイロビで日本航空の現地駐在員O氏に案内役を頼んだ。

この時、彼から過酷な身の上を聞かされる。昔、労働組合委員長を務めた時代に経営陣と対立し、以後、報復人事でパキスタンのカラチ、イランのテヘラン、そしてナイロビへと、家族とも切り離されて長期間のへき地勤務を強いられているという。山崎いわく「流刑」である。

山崎は文筆稼業の引退も考えていた。『大地の子』を超える作品はもう書けそうにない。しかし、そこは作家の業というものだろう。O氏から根掘り葉掘り来し方を聞き出すことになる。それが『沈まぬ太陽』として結実する。

同作の誕生にはもう一つのエピソードがある。山崎は、長年にわたって信頼する出版社の編集者で、重役となっていた人物のところへあいさつに出向いた。するとこう言われたという。「芸術家に引退はない。書きながら柩(ひつぎ)に入るのが作家だ」。続けて「時に私の死期も近いから、生前の香典として香典原稿を一作いただきたい」と頼まれた。山崎は私に「香典原稿と言われたら書かないわけにはいきません。うまいこと言ったものです」と笑っていた。

日本航空から「国民航空」と名を変えた『沈まぬ太陽』では、主人公・恩地元が海外流転後、ようやく本社に戻ったものの、御巣鷹山事故が起こる。経営再建のために社外から会長が迎えられるが、醜い権力闘争が勃発し、会長を補佐する恩地もまた巻き込まれていく。

主人公は、企業の利益追求の犠牲となっても、なお節を曲げずに生き続ける人物として描かれる。『沈まぬ太陽』というタイトルは、アフリカで見た夕陽からヒントを得た。「どんな逆境であっても、明日を信じて生きる心の中の沈まぬ太陽を持ち続けていかなければならないという意味を込めて」と彼女は語るのだ。

2013年から週刊誌に連載中の『約束の海』が絶筆となった。彼女は最期まで書き続けた。私が知る山崎豊子は、理不尽なことに対して真っすぐ怒る。文壇とは交わらず、ひたすら原稿用紙に向きあう孤高の人であった。没後、スケールの大きな彼女の作風を超える作家はいまだに現れていない。

参考文献 『作家の使命 私の戦後』『大阪づくし 私の産声』『小説ほど面白いものはない』(いずれも山崎豊子著、新潮社刊)

バナー写真:インタビューに答える山崎豊子さん=2003年当時(共同)

本・書籍 戦争 日本航空 作家 山崎豊子