ベトナムで自律的な町並み保存を引き出した日本の協力とは:世界遺産の街・ホイアンからの報告

国際・海外 国際交流

古い瓦屋根の木造建築が並び、旧市街全体が世界遺産に登録されているベトナム南中部沿岸のホイアン市。30年以上前に日本単独の協力により始まった保存活動は今、ベトナム人自らの保存へと変化を遂げている。自律的な活動を引き出した日本の協力とはどんなものだったのか。

ベトナム

修復された「日本橋」、日越交流の象徴

ベトナム中部の大都市ダナンから南へ約30キロ。ホイアンには、「日本橋」の通称名で呼ばれるベトナムの「国の宝」がある。ベトナムの2万ドン札にも使われている町のシンボル的存在で、正式名称は来遠橋(Cau Lai Vien)だ。

世界遺産ベトナム・ホイアンの象徴的な建造物来遠橋(別称:日本橋)。修復が終わり、周辺は多くの観光客でにぎわっている
世界遺産ベトナム・ホイアンの象徴的な建造物来遠橋(別称:日本橋)。修復が終わり、周辺は多くの観光客でにぎわっている

その修復工事が8月、完了した。橋の基礎や橋脚、床、屋根、電気システム、防災、防犯システムの取り付けなどの修復や改修が約1年半をかけて行われ、橋は新たな装いとなった。竣工(しゅんこう)式はホイアンで8月にあった日本祭の中で実施。伊藤直樹在ベトナム日本大使夫妻も出席し、世界遺産の町のシンボルであり、日本とベトナムの交流の象徴とされる「日本橋」のリニューアルを祝った。

修復工事に日本は政府や国際協力機構(JICA)、文化庁による専門家の派遣を通じて協力した。私も2022年8月にJICA専門家として訪越、工事における橋脚の補強などの分野でアドバイスを行った。1992年8月から30年以上続けてきた町並み保存の協力の節目となる改修に力を添えることができ、感慨深かった。

ベトナムホイアンの来遠橋。内部は木材を組み合わせた構造で、寺も併設されている
ベトナムホイアンの来遠橋。内部は木材を組み合わせた構造で、寺も併設されている

再び賑わいの核に

橋は幅3メートル、長さ18メートル で、旧日本人町と旧中国人町のエリアを結んでいる。世界遺産認定(1999年)に至る前の1985年にベトナム政府が建築・装飾・歴史などの価値を認め、国家歴史文化財に認定した。

ホイアンは水害が多く、橋は繰り返しの修復を経て今に至る。現在は建設当時の原形はとどめていないものの、屋根や入り口の装飾の美しさは見応えがある。近年は老朽化もあって訪問者を制限するなどの措置も取られていた。今回の改修後は橋の内部への観光客受け入れを全面的に解禁し、再びにぎわいの核になった。                                     

ベトナム・ホイアンの来遠橋の改修。繕いが終わった柱梁を組み上げる作業(JICA提供)
ベトナム・ホイアンの来遠橋の改修。繕いが終わった柱梁を組み上げる作業(JICA提供)

ベトナム・ホイアンの来遠橋の屋根周りの再生と瓦屋根の復原作業。装飾には丁寧な塗りなおしが行われた(JICA提供)
ベトナム・ホイアンの来遠橋の屋根周りの再生作業。装飾には丁寧な塗りなおしが行われた(JICA提供)

朱印船貿易、日本人町の歴史

この橋は1593年に日本人の商人たちの資金によって初めの形が建設され、1817年に再建されたものだと推定されている。

ホイアンは、16世紀から17世紀の大航海時代に中国船やポルトガル、オランダ商船が集まる中継貿易港として繁栄した。中国の明朝が、日本を対象に民間人の海上交易を禁止する海禁政策に転じると、日本の豪商が御朱印船でホイアンに渡海。日本橋の東側に日本人町をつくり、繁栄した。江戸幕府が鎖国政策に転じても日本人町は17世紀後半まで続いた。日本橋は周囲の火災などにより移設されたが、今の橋の付近からも日本との関係を示す遺物が発掘され、古くからの日越交流を感じさせる場所となっている。

町並み保存に日本の特別な支援

成長が続くベトナムは政府開発援助(ODA)対象国からも卒業しつつある。文化財保存についても近年は、日本に一方的に協力を求めることはない。報道によると今回の橋の改修における総費用は202億VND(約1億円強)で、地元のクアンナム省とホイアン市の関係機関が拠出したとされ、日本の資金援助は民間の一部に限られた。日本とベトナムの専門家が対等に意見交換できるよう心がけ、より良い方法で日本橋を後世に残すというスタンスだった。

だが、この30年余りの日本の協力は、ホイアンにとって特別なものだったことは間違いない。

1990年代初め、ホイアン旧市街では住宅や集会所、寺院、神社など多くの建物が老朽化し、倒壊の恐れがあった。住宅には当然、住民がおり、維持、保存の価値を分かってもらうことが重要だった。

1997年のホイアン・グエンチミンカイ通り。町並みの奥に来遠橋の入り口が見える
1997年のホイアン・グエンチミンカイ通り。町並みの奥に来遠橋の入り口が見える

日本側は93年から昭和女子大を中心にさまざまな大学や専門家のチームが、文化庁の指導の下、旧市街の調査研究を実施。町並み保存の技術協力を担ってきた。私は当時、対応チームの代表を務めていた。

日本の協力内容は、大きく分けて技術や情報の提供と現地の人材育成だった。そしてその手法は5つの段階に分類できる。

第1は、町並みに関わる歴史的経緯や建物の構造などの調査に加え、住民の建物の利用実態に関する意向を調査すること。第2に文化遺産を保存するための工事などの変更を日本に託すため、コンセンサスを形成すること。第3に歴史的な建物の所有者や関係する地域住民、行政と建築物の保存に関して相談すること。第4に、現地の住民組織「ホイアンソサエティー」に、日本で集めた寄付金や助成金を託し、伝統民家の持ち主が修復工事を行えるように資金援助する仕組みを調整すること。そして第5として、日本から派遣した文化財修復の専門家による基本的技術を伝達することだった。

ベトナム側は世界遺産登録を急いでおり、上記のプロセスはほぼ同時に進んだ。

技術の伝達は例えば、骨董(こっとう)のつぼを直すのに、全体を元の形として作り直すのではなく、金継ぎなどで古い部材を極力残しながら直すといった手法を、ベトナム人技術者に知ってもらうことだった。この基本を理解すれば、古い町並みの修復方法は自然と身に付き、具体的にどの技術を使えば良いかも自分で考えられる。ホイアン市の遺跡管理事務所の幹部を日本に招聘(しょうへい)し、大学での技術習得も促した。

1995年のホイアン中心街のチャンフー通り。観光客の姿は目立たなかった
1995年のホイアン中心街のチャンフー通り。観光客の姿は目立たなかった

ベトナム人の尊厳に配慮

丁寧なプロセスを踏んだのは、ベトナムの文化財の修理を外国である日本の協力の下で行うことによるトラブルを避けるためだ。ベトナム人の主体性や尊厳に配慮しながら、日越の関係者が一緒に工事を進められるよう工程管理にも配慮した。

さらにホイアン市は1996年9月から2年間、日本の技術指導を受けない文化財修復工事を禁止。野放図な再建築などで伝統的建造物の文化財価値を損なわないようにし、現地技術者の技術向上を図るのが目的だった。町並み保存を重視した当時のグエンスー市長の英断だった。

こうして、ホイアン市は短期間で独立して町並みを保存できる体制を整え、1999年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産登録が実現した。

ホイアンの古い町並みでショッピングや食事を楽しむ観光客
ホイアンの古い町並みでショッピングや食事を楽しむ観光客

日本はこれまで、エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコールワットなどの遺跡の発掘や保存でも大きな役割を果たしたが、それは複数の国の中の一つとしてであった。ホイアン歴史地区の保存は日本だけが協力する形で始まり、日本主導で進んでいった。日本の存在感は極めて大きいといえる。

日本の協力が重視された背景には、ホイアンの歴史地区が木造建築群だったこともある。日本は、木造建築として世界最古の法隆寺夢殿、最大の東大寺大仏殿を保存してきた実績がある。そのためホイアンの市民は、木造建築の保存を日本に任せようと決めたのだ。

上空から見渡す世界遺産・ホイアンの街並み(PIXTA)
上空から見渡す世界遺産・ホイアンの街並み(PIXTA)

観光客急増、町並み保存あってこそ

1999年の世界遺産登録後、ホイアンへの国際協力は、文化庁・昭和女子大学を中心とする日本の町並み保存への協力から、次第に世界各国からの水道・電気・街路整備などの協力へと拡大していった。日本のJICAも青年海外協力隊員を常駐させ、日本橋周辺の水環境整備、町中の衛生環境整備、美化活動など、観光基盤整備への協力を続けた。2018年にはJICAが水質改善のため、下水処理施設の建設や日本橋水路の改修などを行った。

観光客は1999年の世界遺産登録の2~3年前から増加。20万人程度で推移していたが世界遺産登録後の2001年には40万人になった。毎年観光客は増え続け、11年には150万人、18年には500万人を超えた。コロナ禍を乗り越えた24年には、これを超えると見込まれている。町並みの保存に力を入れてきたからこその、観光の成功である。

ホイアン市は、観光客を楽しませる努力もした。世界遺産登録前は夜の通りは真っ暗で、観光客は夜をホテルで過ごしていた。そこで、ランタン祭りや灯篭(とうろう)流しなどの行事を月1回から始め、今や毎晩のように夜市が開かれ、町に人があふれている。

ベトナム・ホイアンの夜の風景。店先や小型遊覧船の提灯が風情を感じさせる
ベトナム・ホイアンの夜の風景。店先や小型遊覧船の提灯が風情を感じさせる

さらに長期滞在型の観光を目指し、伝統的窯業村の復興、体験型農園の開設、田園生活体験型民宿の推進、田園地帯のエコツアーなどにより郊外へ観光客を誘導した。シーサイドリゾート開発や沖のチャム島の観光開発も進んだが、日本は2016年から3年間、JICA草の根技術協力により島の開発に協力している。

2003年からは日越国交を記念した日本祭が毎年8月に続いている。今、ホイアン市の海外交流は日本だけでなく、英国、ドイツ、フランス、中国、台湾、韓国などにも広がっている。ホイアンは大航海時代から外国の人々を大切に受け入れてきたからだろうか、観光客増加の要因のひとつとして、ハード、ソフト面の整備だけでなく、外から来る人への歓迎を忘れないのである。

支援機に多様な交流へ

ホイアンと日本の自治体の間では、互いに学び協力し合う持続的な連携が始まっている。17世紀中ごろの日本では、ホイアンの日本人町の惣代を務めた角屋七郎兵衛が三重県・松阪に送った柳状布をもとにした縦じまの松阪木綿が流行した。松阪木綿で財をなした三井・小津・国分・長谷川などの松坂商人たちは日本橋大伝馬町に店を構え、三井家は三井財閥を築いた。こうしたつながりもあり、松阪市・東京日本橋地区とホイアン市の交流が実現している。

鎖国に伴い長崎に帰国し生活した貿易商・荒木宗太郎と妻アニオーを懐かしむ「長崎くんち」の祭りを縁に、長崎県も交流を開始。ほかにもホイアンを中継地として銀を欧州まで運んでいた世界遺産の島根県・石見銀山、朱印船交易でホイアンとつながった大阪・堺、シルク産業の復興に向けて協力する京都・西陣など、多様な交流が行われている。

2023年、日越国交関係樹立50周年を記念して、ホイアンと長崎を舞台にしたオペラ「アニオー姫」の日本公演を昭和女子大、東京、神奈川で実施。オペラの音楽朗読劇や映像試写会は各地で開かれるようになった。昭和女子大学では「世界遺産ホイアン日本橋展」も開き、町並みのデジタル化も実現した。デジタル化は、VR Chatというネット仮想空間で実現したもので、現地に行かなくてもVRゴーグルやスマホなどで美しい町並みを楽しめるようにしたものだ。

長崎県から寄贈された朱印船のレプリカの前で笑顔を見せる、安倍晋三首相(下段右から2人目)とベトナムのグエン・スアン・フック首相(同3人目)=2017年11月、ベトナム・ホイアン[代表撮影](時事)
長崎県から寄贈された朱印船のレプリカの前で笑顔を見せる、安倍晋三首相(下段右から2人目)とベトナムのグエン・スアン・フック首相(同3人目)=2017年11月、ベトナム・ホイアン[代表撮影](時事)

要人も次々訪問

ホイアンを窓口にした日越交流は、要人も含め多様性に富むようになった。

2007年、当時の天皇陛下(現上皇陛下)はベトナム国主席を招いた場で「ホイアンの町並み保存や伝統的な木造建築の修復にはわが国の専門家も協力したと聞いておりますが、このような形で貴国とわが国の交流が現在にまで引き継がれていることを、うれしく思います」と述べられた。ホイアンに09年に皇太子さま(現天皇陛下)、23年には秋篠宮さまが訪問。17年に当時の首相である故安倍晋三氏が訪れた。

経済関係を中心に活況を呈する現在の日越の交流には、ベトナム人の視点に立って協力を続けてきた日本の地道な支援があったことを忘れないでほしい。

※クレジット無しの写真は筆者提供

バナー写真:日本の協力で保存されたベトナム・ホイアンの街並み

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