世界遺産「知床」:安全確保と自然保護で揺れる-観光船沈没受けた基地局建設が中断
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流氷の南限、希少な生物
北海道東部の知床は、オホーツク海に突きだした知床半島を中心としたエリアだ。アイヌ語で大地の行き止まりの地を意味する「シリエトク」が語源で、一帯には知床連山や豊かな海、湖沼群などが点在する。
2005年に陸と海を合わせた約7万1,100ヘクタールが世界自然遺産に登録された。北半球における流氷の南限で、ヒグマは世界的にも高密度で生息。シマフクロウ、オオワシ、オジロワシなどの国際的希少種の重要な繁殖地や越冬地となっていて、陸と海が一体化した多様で特異な生態系が世界遺産の「顕著な普遍的価値(OUV)」を構成している、と評価されている。
沈没の遊覧船「携帯通じず」
知床半島と周辺海域は普段は人が足を踏み入れないエリアも多く、携帯電話が通じる場所は限られている。通信事業者のエリアマップによると、最もエリアが広いNTTドコモでも半島の先端部分は電波が届かない。2022年4月に行方不明の6人を含め、乗客乗員26人が死亡した知床岬遊覧の観光船「KAZU I(カズワン)」が沈没事故の際に使っていた通信手段は通話エリアが狭い携帯電話で、機能しなかったとされている。
地元からは、携帯電話が通じれば、沿岸の避難港への誘導や早期の救助活動が可能だったのではないかという指摘もあった。ある関係者は「命は助けられなくとも、あんなにも行方不明の方が出る事態を軽減できたはずだ」と語る。
周辺海域では小型船が漁をしており、漁業者にとっても携帯電話はメッセージのやり取りもできる手軽な連絡手段として重要視されている。事故を受け、知床半島の北側を占める斜里町と南側の羅臼町は、自然環境に配慮した上での基地局の設置を国などに強く要望してきた。
半島先端に携帯基地局、太陽光パネル
こうした要望を受けてまとめた国の計画によると、基地局は、観光客が集まる「知床五湖」、港や宿泊施設がある「ウトロ地区」、半島先端部分の「知床岬灯台」、半島先端部分に近い海岸の「ニカリウス地区」の4カ所に設置するとしている。環境省と総務省は国立公園内での事業を認可し、携帯電話通信事業者への補助金を決定した。
だが、今春、具体的な計画が明らかになると、懸念の声が強まっていく。
最も問題視されたのは、普段は人や車が入ることが難しい知床岬灯台の基地局だ。灯台に整備するアンテナの電源確保のために、サッカーコートほどの約7000平方メートルの敷地に、高さ3メートルの太陽光パネル264枚を設置する計画で、人工物設置には蓄電池、外枠フェンスも含め水平投影面積換算で計745平方メートルを使う。また、地中ケーブルを約2キロにわたって埋設するとした。
環境省は「安全性や利便性といった公益性と自然環境への影響を考慮し、設置は妥当だと判断した。海側からは太陽光パネルは見えず、景観にも影響はしないはずだと考えた」と説明する。
環境省など国の機関は地元の推進側協議会には説明をしたものの、自然保護団体や世界遺産地域の保護管理に助言を続けてきた有識者による「地域科学委員会」には事前に具体的な計画を説明してこなかったという。
「人工物いらない」署名4.7万筆
知床の世界遺産登録を進めた元町長で、斜里町民有志の会「知床の自然を愛する住民の会」の会長、午来昌(ごらい・さかえ)さんは、今年4月になって計画を知り、驚いた住民の一人だ。今、知床岬の基地局設置を再考するよう求める。
「世界遺産に登録された20年ほど前、これ以上の人工物は知床半島にはいらないと願った。知床の価値は、みんなの力で自然を残してきたこと、そのものにある。不便さはあるけれど、その中で不便さを感じながらも生きていこう、それを後世に伝えようと誓ったことを思い出さなければいけない」
「住民の会」は、24年5月から全国から4万7600筆集め、7月以降に斜里町や羅臼町、総務省、環境省、北海道、林野庁に提出した。知床半島の先端部分での基地局建設を止め、他の基地局の能力増強などで通信環境を改善すべきだという内容だ。知床岬の基地局には他にも日本自然保護協会や日本野鳥の会、世界自然保護基金(WWF)ジャパンなどが懸念を表明している。
こうした声を受け、斜里町の山内浩彰町長は5月末、「安全安心と自然・景観との両立」を改めて表明。知床岬の工事をいったん停止した上で、環境に影響がない他の基地局の整備を進め、電波の改善状況を見極めてから知床岬の整備方針を決定してはどうか、とする意見だ。山内町長は「携帯の電波は必要だが、自然保護の観点での懸念の声もあり、いったん立ち止まって良い方法を考えてもいい」と語る。
調査不足指摘、工事再開見通せず
さらに、国の天然記念物であるオジロワシの繁殖に関する影響調査は期間が短すぎるとの指摘も出た。科学委員会は、6月上旬の会議で、工事をしばらく中断し、オジロワシの繁殖や植生への影響を再調査し、地元住民らとの協議を十分行うよう環境省に要望した。会議では、計画について十分な説明がされていなかった点も問題点として指摘した。
環境省は斜里町の指摘や科学委員会の要望を受け、オジロワシなど生態系への影響調査を改めて実施する方針を示した。住民らとの協議も改めて実施する方針で、現段階では基地局の工事はストップし、再開時期は見通せなくなった。
早期実現派も意見書
一方で早期実現を求める動きも活発化している。
地元漁協など12団体は6月、基地局の設置を進めるべきだとする意見書をまとめ、国などに送付した。この意見書には、これまでの国や自治体、携帯電話事業者と地元の関係団体による協議の場で、環境保護について「丁寧な協議を繰り返してきた」とし、「計画の見直しを求めることはありません」と記した。
意見書に賛同した、まちづくり団体事務局長の桜井あけみさんは、「知床は多くの人が訪れる場所なのに、携帯電話がつながらず、安全や利便性の面で課題がある。遊覧船の事故があってそれがより明確になった」と指摘。さらに「基地局の設置を望む声は漁業者や観光客など幅広い。環境に影響がさらに少ない手法が他にあれば良いが、現段階では太陽光発電を使って実現するのが最善だ。技術革新があれば太陽光パネルの規模を小さくするなどの対応を取ればよい」と話す。
さらに、知床半島の南半分を占める羅臼町は6月、環境への配慮は重要としながらも、「人命第一」として、基地局の早期完成を求めた。
知床半島は大正時代から一部で農地が切り開かれたり、砂防ダムがつくられたりした歴史がある。さらに戦後はリゾート開発の計画が浮上したこともあった。その後、1977年に全国から寄付を募ったナショナルトラスト運動「知床100平方メートル運動」などにより、地域は自然の復元に努めてきた。知床の自然は、住民たちが再生し、守り育てきたものであることも、基地局の建設積極派、慎重派それぞれの思いを複雑にしている。
世界自然遺産の条件であるOUVに影響する新規工事は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会への報告が定められている。だが環境省は、今回の工事は大規模ではないため、報告は不要と判断。報告はユネスコからの情報照会を受けた8月末になった。
双方が話し合う場を
知床の保全と利用の在り方を専門家や地元関係者が話し合う「知床世界自然遺産地域適正利用・エコツーリズム検討会議」座長の敷田麻実・北陸先端科学技術大学院大学教授(観光学)は、「携帯基地局は、安全性の面から、無いよりはあった方が良い。しかし、世界自然遺産のエリア内においては自然や景観の保護も重視すべきで、どちらかに偏った議論は避けるべきだ」と強調。今回の問題と今後の対応については、「混乱が起きたのは、自然保護運動を担ってきた人や科学委員会に対して議論の過程で十分な説明がなかったことも大きい。建設推進派、自然保護派、第三者がともにテーブルについて議論し、衛星電話など携帯電話以外の安全確保策も十分検討したうえで、一段レベルの高い合意点を探す作業が必要になるだろ
太陽光パネルのトラブル全国で
知床のケースは、日本の端で起きた異例の出来事なのだろうか。知床の問題の本質は基地局そのものだけではなく、電源を確保するための大きなソーラーパネルや電源ケーブルの埋設も含めて、どう自然環境と両立するのかだ。
総務省が太陽光パネルの設置が多い24道府県の市町村に調査したところ、4割でトラブルが発生していた。多くの事例で、景観との調和や設置後の周辺の環境整備などが問題点として指摘されている。国の再生可能エネルギーの推進政策によって設置が広がる太陽光パネルだが、知床に限らず、日本中の広範なエリアで地元との軋轢(あつれき)を生んでいることから、経産省幹部も今後のパネル設置拡大の課題のひとつとして地域との意見調整を挙げている。
知床の事例は着地点が見えていないものの、双方が歩み寄ることができれば、環境と再生可能エネルギーの結節点で起きる問題解決のモデルケースになるとみられる。
バナー写真:世界自然遺産に登録されている知床半島と周辺海域。半島の先端に携帯電話用のアンテナと太陽光発電パネルなどの設置が計画されていた(PIXTA)