パリ・パラ閉幕:偏見とバイアスからの解放 「障害者のスポーツ」を超えて

スポーツ 国際・海外 健康・医療 国際交流 イベント

9月8日、パリ・パラリンピックが閉幕した。シドニー大会から24年にわたりパラ競技を撮影し続けてきたフォトグラファー、越智貴雄さんは「パラリンピックは、パリで偏見とバイアスから解放され、新しい時代に入った」と見る。越智さんは、パリでの撮影取材を通し何を感じ取ったのか。過去の取材経験を踏まえて語ってもらった。

越智 貴雄 OCHI Takao

1979年大阪府生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業。2000年のシドニー・パラリンピックからパラスポーツの取材を始め、パラリンピックは12大会撮影取材。2004年にパラスポーツ専門メディア「カンパラプレス」を設立。写真集出版、新聞連載に加え、義足女性のファッションショーや写真展なども主催してきた。著書「チェンジ! パラアスリートを撮り続けてぼくの世界は変わった」。

異なるレベルの大会

国際パラリンピック委員会(IPC)のアンドリュー・パーソンズ会長は、閉会式前の記者会見で「パリ大会は今後のベンチマーク(基準)になる。運営のすべてにおいて、レベルがとても高かった」と自画自賛した。そう言いたくなるのも理解できるほど、これまでとは異なるレベルの大会だった。

パリ・パラリンピックの各会場には連日、多くの人が訪れた。写真はエッフェル塔近くのブラインドサッカー会場。エッフェル塔には、五輪マークが掲げられ、オリ・パラの一体化が感じられた(越智貴雄撮影)
パリ・パラリンピックの各会場には連日、多くの人が訪れた。写真はエッフェル塔近くのブラインドサッカー会場。エッフェル塔には、五輪マークが掲げられ、オリ・パラの一体化が感じられた(越智貴雄撮影)

驚かされたことがある。ロンドンから東京までの3大会は競技会場で、大型ビジョンなどで複雑な障害のクラス分けをわかりやすく説明し、観客の理解を促していた。だが、パリは障害クラスを説明せず、競技をありのままに見せた。絵画鑑賞で言うなら、作者名もキャプションもない状態で、いきなり作品を見て感じたままを楽しむ方式だ。

観客から「障害者が頑張っている」という拍手は感じなかった。純粋に競技を楽しんでいる人が多く、パラアスリートを「表現者」としてリスペクトする雰囲気があった。パラリンピックと五輪は違うが、ただその「違うもの」の中には「健常者と障害者」というわれわれの側のバイアスに基づくものがある。それを極力排除することにも、パリは注力していた。

パリ・パラリンピックの陸上男子走り幅跳びで優勝し、ロンドンから4連覇を果たしたドイツのマルクス・レーム(越智貴雄撮影)
パリ・パラリンピックの陸上男子走り幅跳びで優勝し、ロンドンから4連覇を果たしたドイツのマルクス・レーム(越智貴雄撮影)

無数のわだちから感じ取ったもの

車いすテニスは、一般テニスの全仏オープンと同じローランギャロスで開かれた。グランドスラム大会で唯一、レンガの粉となる赤土クレーコートを採用している伝統あるこのコートで、車いすの「わだち」をどう撮影できるのか、楽しみにしていた。

決勝は、18歳の小田凱人選手と英国のアルフィー・ヒューエット選手。私はあえて選手に一番近いコート近くのカメラマン席から離れ、観客席の最上階にあるフォトポジションで撮影することにした。

車いすが残すわだちの軌跡が最も良く見渡せるのが、観客席だったからだ。

小田選手はヒューエット選手にマッチポイントまで追い詰められたが、そこから奇跡の逆転をして金メダルに輝いた。勝利の瞬間、小田選手はクレーコートに倒れ込んで喜びを爆発させた。私は狙い通りの瞬間をファインダー越しで眺めながら無我夢中で撮影した。

パリ・パラリンピックの車いすテニス男子シングルス決勝でプレーする小田凱人選手=フランス・パリのローランギャロス(越智貴雄撮影)
パリ・パラリンピックの車いすテニス男子シングルス決勝でプレーする小田凱人選手=フランス・パリのローランギャロス(越智貴雄撮影)

試合後、撮影した写真を見て、私は大きな誤解を抱いていたことに気付かされた。

実は私は、パラアスリートが困難を抱えながらも前に進んできた軌跡を、クレーコートのわだちで抽象的に表現しようとしていた。だが、実際に写真に写っていたのは、2人の「選手」の激闘の痕跡そのものだった。

つまり、コートには「パラアスリート」の困難さなどではなく、純粋に「アスリート」の戦いの軌跡が残されていたのだ。シンプルに考えれば当たり前のことだが、写真を見返しながら、素晴らしい試合に引き込まれていた自分に気付かされた。

私だけではない。満席のスタジアムで、歴史的な試合を「障害者のスポーツ」として見た人はいなかっただろう。そうでなければ、あの盛り上がりは生まれなかったはずだ。パラアスリートが、五輪のアスリートと差別されることなく扱われる時代がすでに来ていると、私は確信した。

シドニー:裏切られた懸念

過去の大会の私自身の体験を振り返ってみると、それがパリに至るパラリンピックの歩みをたどったものだったこともわかる。

初めてのパラリンピック体験は24年前のシドニーだった。五輪の撮影の仕事の後、ある新聞社から、急に撮影取材を依頼されたのがきっかけだ。

シドニーで私は、会場の観客が熱心に選手を応援している姿に驚かされた。

その理由はシンプルだ。私が障害者に対して、ある種の感覚を持っていたからだった。

障害者とはかわいそうな人たち。誰かが手助けをしてあげないといけない。そういう人を見るのは失礼な行為で、カメラを向けることなんてとんでもない。そう思っていた。

だがその心配は良い意味で裏切られた。

2000年のシドニー・パラリンピックの男子車いす陸上1500メートル。スタジアムからは大きな歓声が沸いていた(越智貴雄撮影)
2000年のシドニー・パラリンピックの男子車いす陸上1500メートル。スタジアムからは大きな歓声が沸いていた(越智貴雄撮影)

開会式の行進では、両足のない選手が片腕で逆立ちして手を振っていた。そのほかの選手も、パラリンピックに出場できたことを誇りに思っていることが伝わってきた。障害者のスポーツは、悲愴感が漂っているに違いないと思っていたのに、パラリンピックという祝祭空間の中では、健常者と障害者という違いは消え去っていた。

義足で跳ぶ人、目が見えないのに走る人、車いすバスケや車いすラグビーでは車いす同士がぶつかって火花が飛んでいた。選手の誰もが格好良かった。

街中にはパラアスリートの広告が張られ、陸上競技場会場では多くの観客が声援を送っていた。当時のこの驚きは、現場にいた人間しか分からないものだった。

シドニー大会のころ、障害者がスポーツをすることに対し、今とは異なる感覚を抱いていたのは、私だけではなかったと思う。パラリンピックは日本の新聞のスポーツ面にはほとんど載らなかった。練習は「トレーニング」ではなくて「リハビリテーションの延長」だった。

シドニー大会の翌年、パラリンピックで撮りためたものを集めた写真展「魂の瞬間」を東京で開いた。たくさんの人が会場に来てくれた一方で、「かわいそう」と感想を漏らす人もいた。それが当時の限界だった。

パリ・パラを取材する中で、当時の障害者をめぐる状況や感覚を思うと、隔世の感を禁じ得ない。パリでは障害者に対する古い価値観を感じることはほとんど無く、都市全体がパラリンピックを楽しむ雰囲気に覆われていたからだ。

北京:「パラの五輪化」加速

パラリンピックの大きな変化を感じたのは2008年の北京大会だった。

会場はどこも満席。動員があったのかもしれないが、観客たちの熱狂に偽りはなかった。満員の観客がアスリートを鼓舞するスタジアムの様子は、従来の大会とは全く異なる雰囲気に包まれていた。会場に来れば、パラスポーツの面白さがわかる。それを実践していた。

2008年北京・パラリンピックの開会式。多くの人が来場し、盛り上がりを見せた(越智貴雄撮影)
2008年北京・パラリンピックの開会式。多くの人が来場し、盛り上がりを見せた(越智貴雄撮影)

01年の国際オリンピック委員会(IOC)とIPCの間での合意書に基づき、北京からは五輪組織委がIPCと共同で大会を開催し、組織も統合した。五輪とパラリンピックを可能な限り同等に扱うことになり、パラリンピックは五輪側から財政支援を受け、「パラリンピックの五輪化」が加速していった。

その一体化は、パリでいっそう進んだ。パラアスリートの強化は進み、身に付ける道具も進化。競技性がさらに増した。エンブレムは五輪とパラが共通で、選手やスタッフ、メディアなどのIDカードには、五輪マークとパラリンピックのマーク「スリーアギトス」が並んで印刷された。カメラマン用ベストも両大会共通。小さな備品まで共通化し、五輪からパラリンピックへの模様替えの手間も省いた。

ロンドン:楽しむ大会へと変貌

2012年のロンドン大会では、オリンピアンと同様に厳しいトレーニングを重ねたエリート・パラアスリートを、英国の公共放送「チャンネル4」が大々的に取り上げた。競技中継も積極的に行い、パラリンピックはその発祥の地でスポーツエンターテインメントとしての価値が高められた。チケットは、争奪戦が起きるほどだった。

ロンドン・パラリンピックの陸上競技場。パラリンピックだけで史上最多の270万枚のチケットが売れ、大きな盛り上がりを見せた(越智貴雄撮影)
ロンドン・パラリンピックの陸上競技場。パラリンピックだけで史上最多の270万枚のチケットが売れ、大きな盛り上がりを見せた(越智貴雄撮影)

2016年のリオ大会も、現地の盛り上がりは素晴らしかった。日本では東京大会を控え、連日競技が報道され、新聞のスポーツ面で扱われることが普通になった。障害者としてではなく、アスリートとして見つめる。その流れはパリでも、確実なものとなって引き継がれている。

パリではどの会場にもたくさんの観客が訪れ、250万枚のチケットが売れた。五輪との合計では1200万枚にのぼり、2大会合わせると史上最高のチケット売り上げ枚数になった。

東京:コロナの中、進んだ選手強化

新型コロナウイルスの影響で2021年開催となった東京大会は、原則として無観客。大会前のチケット販売は順調だったので、コロナがなければ東京大会もパラスポーツの魅力をたくさんの人に伝える機会になったはずだ。それが実現できなかったことは残念だった。

無観客で行われた東京・パラリンピックの陸上競技、車いす400メートル。パラリンピックレコードで金メダルを獲得した佐藤友祈選手。オリパラ招致段階からオリとパラがセットで語られるようになったことは大きなレガシーだった(越智貴雄撮影)
無観客で行われた東京・パラリンピックの陸上競技、車いす400メートル。パラリンピックレコードで金メダルを獲得した佐藤友祈選手。オリパラ招致段階からオリとパラがセットで語られるようになったことは大きなレガシーだった(越智貴雄撮影)

だが、日本としては選手の強化が進んだ。19年に五輪選手用のナショナルトレーニングセンター隣地にパラアスリートが使えるイースト棟が完成。選手の発掘、コーチの育成も積極的に行った。

国や企業から支援を受ける選手が増え、選手のプロ化、セミプロ化が進んだ。それが、東京大会の金メダル13個、パリではそれを超える金メダル14個につながった。

ビッグイベントに成長

既にパラリンピックは、五輪、サッカーワールドカップの規模に次ぐ大きな国際スポーツイベントに発展した。私がパラリンピックを撮影し始めた時には想像できなかったことだ。

パリ・パラの競技の合間には観客が「オー・シャンゼリゼ」を歌っていた。観戦を純粋に楽しむ様子からは、少なくともスタジアムに来ている人たちは、五輪とパラリンピックの違いなど既に感じなくなったのでは、と感じるほどだった。

大会には連日、多くの観客が訪れ、日によっては、陸上競技場のスタジアムで、五輪を超える観客数だった。写真は、メダルを持って家族に会いに来たフランス人選手が、大勢の観客に囲まれて、写真撮影を求められ、最後には「オー・シャンゼリゼ」の大合唱が行われた(越智貴雄撮影)
大会には連日、多くの観客が訪れ、日によっては、陸上競技場のスタジアムで、五輪を超える観客数だった。写真は、メダルを持って家族に会いに来たフランス人選手が、大勢の観客に囲まれて、写真撮影を求められ、最後には「オー・シャンゼリゼ」の大合唱が行われた(越智貴雄撮影)

パリ・パラは、パラリンピックが新しい段階に入ったことを思わせる大会だったと結論付けられる。障害者だからといって区別せず、五輪と同じように競技を楽しむ。今後、この流れは加速することはあっても、元に戻ることはないだろう。

どう根付かせ、広げるか

成功したパリ・パラの陰で、課題も少なくない。

パラスポーツは車いすや義足など、高価な道具が必要な場合が多い。パリ大会には、難民選手団を含め史上最多となる168の国と地域が参加したが、発展途上国の選手は少なく、パラスポーツの広がりは十分ではない。

パリの街は、地下鉄や歩道などのバリアフリー化が遅く、車いすなどで移動するには困難が伴う。パラリンピック期間中も、この不便さは不評だった。パラ開幕に先立つ8月末、パリの地下鉄を2~3兆円かけて全線バリアフリー化する構想が発表された。時期は見通せていないが、パラリンピックがあったからこその動きだと受け止めたい。

日本ではエリート選手への支援は手厚くなったが、地域や学校の中での広がりは不十分といえるだろう。車いす競技の選手は、今でも体育館の使用を断られることがある。

パリ・パラリンピックのゴールボール男子で、日本チームは金メダルを獲得。表彰式に臨む日本選手(越智貴雄撮影)
パリ・パラリンピックのゴールボール男子で、日本チームは金メダルを獲得。表彰式に臨む日本選手(越智貴雄撮影)

障害者であっても、誰でもスポーツを楽しめる環境をつくること。スポーツを通じて障害者が社会に参加できるようにすること。それを実現するのがパラリンピックの原初的な意義だ。メダルの数を増やすこととは別に、やらなければいけないこと、変えなければならないことは膨大だ。この危機感は、メダルを獲得したアスリートたちも記者会見などで訴えていた。

カヌーの競技会場で、観戦者を盛り上げたパリ・パラリンピックのマスコット・フリージュ(越智貴雄撮影)
カヌーの競技会場で、観戦者を盛り上げたパリ・パラリンピックのマスコット・フリージュ(越智貴雄撮影)

パリ大会の期間中、どこに行っても人気だったマスコットキャラクターのフリージュくんは、両大会で共通のキャラクターだった。ただ、細かい設定の違いはあって、パラリンピックのフリージュくんは右足が義足だ。2体はフリージュ家の一員であり、そのモットーは「ひとりだとしても速く行ける。一緒ならもっと遠くへ行ける」。

2024年のパリ・パラは成功のうちに終わった。だからこそ、新しい課題も生まれている。可能性と課題の追及。私のパラリンピックの取材は、新たなステージに入りそうだ。

バナー写真:パリ・パラリンピック男子車いすテニスシングルスで優勝した小田凱人選手。クレーコートで仰向けになり喜びに浸った。コートには車いすのわだちが残されていた=フランス・パリのローランギャロス(越智貴雄撮影)

パラリンピック 五輪 金メダル 障害者スポーツ Paris 2024