世界で戦った青木功のプロゴルフ人生60年:「金じゃない、人がやってないことに挑戦したかった」

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ゴルフ界のレジェンド、青木功がプロテストに合格してから60年を迎える。節目の年にあたり、ご本人にこれまでのゴルフ人生を振り返ってもらった。

青木 功 AOKI Isao

1942(昭和17)年8月千葉県我孫子市の生まれ。1964年6月にプロとなり、71年関東プロで初優勝。83年にはハワイアンオープンで日本人として初めて、米ツアーで優勝した。日本オープン2勝を含め通算85勝(米ツアー1勝、米シニア9勝)。国内賞金王を5回、獲得した。2015年旭日小綬章受章。

世界ゴルフ殿堂セレモニーでかつての仲間と再会

今年82歳となる青木は、2016年4月から4期務めた日本ゴルフツアー機構の会長職を3月で退任した。その間、スポンサーとの交渉や下部ツアー含め全国で年間40数試合ある大会全てに顔を出すなど、多忙を極めていたが、ようやく激務から解放された。まずは近況から聞いてみた。

「6月初めの10日間、娘と一緒にアメリカに行って来ました。世界ゴルフ殿堂創立50年を祝うセレモニーに出席するためです。自分は20年前に殿堂入りしたんだけど、つくづく行ってよかったと思ったよ。ジャック(ニクラス)は来られなかったけど、リー・トレビノやベン・クレンショー、マーク・オメーラなんかと再会できた」

「トム・ワイスコフの奥さんが来ていて『トムは?』って尋ねたら、2年前に亡くなったと聞いたのは残念でしたが、20年前に一緒に戦った連中と会えるというのは格別な味わいがあるよね。それでそのまま足を延ばして、パイン・ハーストで開催された全米オープンを観戦してきた。難コースだけど、松山(英樹)は粘って6位に入ったんだから、たいしたものですよ」

世界ゴルフ殿堂入りの祝賀会で、記念のトロフィーを贈られる青木功プロ(右)=都内のホテルで、2004年12月9日(時事)
世界ゴルフ殿堂入りの祝賀会で、記念のトロフィーを贈られる青木功プロ(右)=都内のホテルで、2004年12月9日(時事)

フロリダ州にある世界ゴルフ殿堂は、ゴルフ界に顕著な功績を残した人をたたえる組織。マスターズを創設したボビー・ジョーンズやアーノルド・パーマー、帝王ジャック・ニクラスなど往年の名手が名を連ね、青木の殿堂入りは日本人で樋口久子プロに次いで2人目となる。青木は、「ゴルフは天職」と言う。今後はゴルフとどう関わっていくのか。

「周りからは試合に出ろと言われるけど、自分はこれまで世話になった人と一緒にゴルフを楽しむ機会をうんと作りたいと思っているんですよ。ゴルフを通じて交流を深めてきたから、ゴルフで恩を返さないといけない。もちろんジュニアの育成は続けていくし、プロアマにも出るけどね。この歳になっても70台が出るかなっていう意欲はあるから、スコアには挑戦していきたいよね」

トランプ大統領と安倍首相とのゴルフ

青木は千葉県の茂原カントリー倶楽部をホームコースとし、コース改修に関わった。現役時代はここで練習を重ね、その後も機会あるごとにプレーしている。2019年5月、トランプ大統領来日の折には、当時の安倍首相と3人でラウンドした。その時の様子を振り返る。

「トランプさんはもともとゴルフが大好きで、ハンデ1か2だったと聞いたけど、随所にその面影はありましたね。すごく真面目なゴルフをやる人。しかも、ゴルフをやる時はプレーに集中し、安倍さんと一緒にカートに乗ったら、すぐ外交の話だもの。パッパと切り替えていたのはすごい。安倍さんもやるからには負けたくないという気持ちがあったと思うけど、2人とも真剣にゴルフをやっていましたね」

「昔、自分は安倍さんのお父さんの晋太郎さんと年に2、3回ゴルフをやっていたの。だから、晋太郎さんから『うちで飯食うか』と誘われることもあって、『パパただいま』なんて声が聞こえたから『あの人誰?』『うちの晋三です』『こんばんは、青木です』って、あいさつしたこともあった。それもあって晋三さんがトランプ大統領と松山英樹と霞ヶ関カンツリーでゴルフをやって、もう1回やろうとなったときに、『今度は青木さんと回ろう』となったらしいです」

両首脳とのゴルフ当日、青木は2人にクラブをプレゼントした。

「それで当日、自分が見るところ、トランプさんのドライバーのシャフトが柔らかそうだったので、『ミスタープレジデント、チェンジシャフト、オーケー?』って聞いたら、『いいよ』って言うので、テーラーメイドの日本版のグローレのヘッドを付けて硬いシャフトで打ってもらったら、これが飛んだわけだ。それで『オー、グッド!テイクアウトしていいか』って聞くから差し上げた」

「そしたら安倍さんもオレもという感じだったから、同じように選んで、2人とも気に入ってラウンドで使ってくれた。本当に互いに意気投合していて仲がいいという印象でした。さすがに自分も緊張して、最初はクラブが手につかなかったけどね。安倍さんは気遣いのある人で、ゴルフをやった後日、我々夫婦と茂原カントリー倶楽部のオーナー夫妻を首相官邸でご飯に招待してくれましたよ」

プロテスト合格から初優勝まで7年かかった

ここから現役時代を振り返っていく。青木が、埼玉県の大宮ゴルフコースで行われたプロテストに合格したのは21歳の時だったが、ゴルフ場でキャディの仕事をしていたものの、プロを目指していたわけではなかったという。

「中学時代に野球をやっていて、野球で高校に進めるはずが、中学3年の最後の大会で、2アウト1、3塁でキャッチャーがパスボールして2対1で負けちゃった。県大会に行けないから先の道を閉ざされてしまい、頭に来て野球道具を捨てたんだ。そのことでオヤジと喧嘩(けんか)になって、『お前なんか勝手に自分で生活しろ』って言われたから家を出た。前々から近所の人に『ゴルフ場でキャディやったら稼げるぞ』って聞いていたから、林由郎さんが所属ヘッドプロだった東京都民ゴルフ場で世話になった。1年後には千葉の我孫子ゴルフ倶楽部に移ったけど、まだその時はプロになろうとは思ってなかったの」

中学時代は野球選手、最後の大会で負けた。「頭に来て野球道具を捨てたんだ」(撮影:ニッポンドットコム編集部・土師野幸徳)
中学時代は野球選手、最後の大会で負けた。「頭に来て野球道具を捨てたんだ」(撮影:ニッポンドットコム編集部・土師野幸徳)

「金がないから、小遣い稼ぎですよ。だけど昭和36年の日本プロゴルフ選手権に林さんが勝って、優勝賞金で30万円もらったって聞いたのよ。おお、あの小さいオヤジが30万円もらえるなら、自分はデカイから50万円稼げるんじゃないかと思った。それでやってみるかとなってさ。今なら笑っちゃうけど、自分はその時そう思ったわけ」

1回目のプロテストは1ストローク足りずに落ちた。我孫子から埼玉県の飯能ゴルフクラブに移り、2回目でようやく合格したものの、すぐに勝てるようになったわけではない。予選落ちが続き、初勝利は7年後の28歳の時、横浜カントリークラブで開催された『関東プロ』だった。

「プロになってゴルフ場の給料が1万5000円から3万5000円になった。貧乏だったのが金持ちになったような気分だよ。それでクラブ所属のプロとして2、3年たった頃、先輩プロから『お前、プロだ、プロだって言うけど、試合出なきゃプロじゃないよ』と言われた。ああ、そうか、じゃあ、分かった、やるよとなって。だけどなかなか勝てない。それでトレーニングを始めた」

「神奈川県の湯河原のゴルフ場に、20万円持って、この金がなくなるまで泊まり込みでトレーニングをやらせてほしいと頼みに行った。1カ月たった頃、もうお金も尽きただろうと思ったら、支配人が『まだ大丈夫だよ』って言うんだ。支配人は自分がコースを回るだけだと思っていたらしい」

「ところが自分は毎朝5時頃起きてコースを走っている。コース課の人がそれを見て伝えてくれていたんです。20万どころの話じゃない、30万、40万かかっているはずだよ。それを『やる気があるなら納得いくまでやれ』って言ってくれた。そのおかげでようやく優勝できたわけです。これまですいぶん数多くの試合で勝ってきたけど、今、振り返ってみて一番うれしかったと思うのは、やっぱり初優勝ですよ」

『世界マッチプレー』で確信に変わった

その後は順調に勝ち星を積み重ね、ジャンボ尾崎としのぎを削る「AO時代」が到来する。初めて国外でプレーしたのは26歳の時。東南アジア4カ国を回るアジアサーキットに参戦し、海外の試合に関心を持つようになったという。1973年に国内メジャー『日本プロゴルフ選手権』の優勝を含め年間6勝を挙げると、翌年の4大メジャー『マスターズ』ほか、海外の試合からも招待を受けるようになった。主戦場を海外に移そうと思ったきっかけは何だったのか。

「転機といえば、78年にイギリスのウェントワースで開催された『世界マッチプレー』に優勝したことですよ。勝ったことで、これならアメリカでもどこでも勝てるかもしれないなと思った。79年、同じコースで行われた試合で、ビル・ロジャースに負けて2位だったけど、『なんだ、やればできるんだ』と今度は確信に変わった。だから80年の『全米オープン』でジャックと戦えた。負ける気がしなかったですからね」

1980年開催の4大メジャー『全米オープン選手権』では、青木は帝王ニクラスと4日間、同組で回り、一騎討ちとなって最終ホールまで決着がもつれた。惜しくも敗れたが、当時、日本人メジャー最高位の2位。開催ゴルフ場にちなみ『バルタスロールの死闘』と呼ばれ、伝説の名勝負として語り草になっている。83年には『ハワイアンオープン』で日本人初の米ツアー優勝を果たした。

全米オープンゴルフで東洋人として史上初2位となり帰国し、記者会見する青木功選手とチエ夫人=都内のホテルで1980年6月17日(時事)
全米オープンゴルフで東洋人として史上初2位となり帰国し、記者会見する青木功選手とチエ夫人=都内のホテルで1980年6月17日(時事)

「80年代、賞金総額など日本のゴルフのマーケットが世界1だった時代があった。自分はその頃にはアメリカで転戦するようになっていて、セベ(バレステロス、スペイン出身の名手)に『なんでこんなにでかいマーケットがあるのに、アメリカに行くんだ。稼ぐのなら日本でやったらいいじゃないか』と言われたことがある。だけど自分は金じゃないんだよ。人がやってないことに挑戦したかった」

「今みたく海外に簡単に行ける時代じゃなかったし、乗り継ぎも食事もとにかく大変だった。それでもスポンサーに頭を下げてチャレンジしたし、日本のファンの皆さんをガッカリさせてはならないと、トップ10は最低限の条件と自分に約束して転戦した。もちろん、同じ人間がやることだからアメリカでもどこでも自分は絶対負けないという気持ちも強かったんだ」

「ゴルフは天がくれた職業だ」

それだけに、今の若手ゴルファーには物足りなさを感じているという。

「今の若い人たちは海外志向なんだけど、自分たちみたいに、噛みついてやるみたいな闘争心が感じられない。松山は海外で戦ってもう10年、アメリカの一員になっているから別格ですよ。今回の全米オープンでは、日本人では石川遼ほか何人も出場したけど、確かに日本では強かったかもしれないが、全然、格落ちする。彼らはクオリファイ(予選)を通って出場してきたわけだから、それなりにゴルフがうまいはず。ところが、松山を除いて全滅だった」

「やっぱりそんなに簡単じゃない。自分たちの頃だって、パーマーやジャック、ゲーリー・プレーヤーなど強い選手はいたけど、何か特筆する技があればなんとか戦っていけた。自分なんかパターの打ち方とかバンカーショットとかね。磨いたのは自分だから。彼らがどっから寄せようが、自分はここから入れてやるみたいな強い闘争心がありましたよ。そういう意味では、海外に行くのなら覚悟がないと。ただ出場資格が取れました、『じゃあ、行ってきまーす』みたいな感じじゃ駄目。まだまだ松山の域には達していませんよ」

最後に改めて青木のゴルフ人生とは──。

「ゴルフを通じて普通では会えない人に会えた。昔はクリントン大統領やフォード大統領からもインビテーション(招待)がありました。トランプさんや安倍さんに指名してもらえたのもプロゴルファーであり続けたから、自分にしかできない経験だったと誇りに思う部分もある」

「自分はひとりじゃ寂しいし、何人でもいれば楽しいという性格だから、そういう意味で、プロになって60年、有名無名、いろいろな人との出会いに恵まれて、今日までやってきたかな。自分にとっては天職ですよ。だから最初にティーグラウンドに立ってティーアップする時、言葉には出さないけどゴルフを作ってくれた神様に必ず『ありがとう』って思う。いまでもそういう感謝の気持ちでゴルフをやっています」

バナー写真:インタビューに応じる青木功プロ(撮影:ニッポンドットコム編集部・土師野幸徳)

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