台南400年記念を彩った歴史的邂逅
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末裔同士が対面
2024年4月27日、スウェーデンのストックホルムから台南に駆け付けたのは、1624年から台湾を統治したオランダ東インド会社最後の行政長官フレデリック・コイエット(1620~1687年)の、14代目末裔(まつえい)に当たるマイケル・コイエットさんと妻のリンダさん、そして子息エイドリアンさん。彼らを出迎えたのは、オランダ軍を駆逐して台湾の支配者となった明の遺臣である鄭成功(1624~1662年)から10代目の鄭達娟さん、鄭達仁さん、鄭達智さんらきょうだい(彼らは鄭成功の6番目の息子鄭寛の血筋)だった。
「ようやくお目にかかれましたね」とでも言うように、勝者も敗者もなく固い握手を交わした末裔らは、「赤嵌楼」(プロビンシア城)の脇に建つ石像とは打って変わり、和やかな笑顔を浮かべて見つめ合った。
オランダ東インド会社は38年間にわたって、台南(当時の地名はタイオワン)一帯に要塞(ようさい)を築き実効支配をした。現在も安平区に残る「安平古堡」(ゼーランディア城)は、台南市内に建つ赤嵌楼と並びオランダ時代を象徴する建造物だ。
オランダ東インド会社は、日本産の銀や銅、中国産の生糸や陶磁器、インドの綿織物、東南アジアからの香料を中心に中継交易を行い、莫大(ばくだい)な富を本国にもたらした。だが1661年に明の遺臣の鄭成功軍が台湾に侵攻。両軍は約1年にわたって熾烈(しれつ)な攻防戦を展開したが、オランダ軍は1662年2月に投降した。
行政長官のコイエットは辛うじて命は助けられたものの、バタビア(現在のインドネシア・ジャカルタ)に追放された。敗戦の責任を取らされて長きにわたって孤島に幽閉された上、オランダに送還されてからも禁足令を受け、アムステルダムで67歳の生涯を閉じた。
台湾でもほとんど知られていなかったが、行政長官のコイエットはスウェーデン人だった。バタビアに拠点を置いたオランダ東インド会社は、各国から広く人材を集めた国際企業だったのだ。
コイエットは日本とも縁が深く、台湾に赴任する前は1647-48年、52-53年の2度にわたって平戸から出島に移ったオランダ商館の責任者を務め、任期中に将軍・家綱にも拝えつしている。商館長時代にコイエットが本社に宛てたおびただしい書簡を調べると、貿易の報告ばかりか日本や東アジアの社会風習や情勢、明と清との勢力争いや明軍が台南へ侵攻する可能性などの分析が事細かに記録されている。また彼は、鄭成功に限らずいずれ清の軍隊が台湾のオランダ領地に侵攻してくる危険性を早くから危惧していたが、バタビアの総督たちはその意見に耳を傾けなかったようだ。このように、日本を含め広く東アジア情勢にも精通していたコイエットのキャリアや能力からみても、彼が台湾の行政長官に就任したのは当然の抜てきだっただろう。
神格化された鄭成功
一方、オランダに代わって台湾を統治した鄭成功は、悲願の「反清復明」(清に反発し、明を復活させる)を実現できぬまま1663年に亡くなっている。その後孫の代に清に屈した鄭氏政権は22年しか続かなかった。しかし初めて台湾を統治した漢族の英雄として神格化され、鄭成功は「開山王」となった。
2024年4月28日と29日の両日には、鄭成功を祀(まつ)る「延平郡王祠」と「鄭成功祖廟」に、台湾各地や長崎県平戸市、東南アジアや北米からやってきた信者や縁者、政府要人らが集まった。台南市長をはじめ中央政府からは外交部長(外務大臣に相当)が列席するなど、台南を切り開いた偉人の功績をたたえるとともに、台湾と世界の安寧を祈願した。
式典の始めに、その昔は敵同士だった両者の末裔が姿を現すと、歓声と拍手が起こり、シャッター音が鳴り響いた。この熱狂の中に、鄭成功の日本人の母である平戸出身の田川マツの末裔が参加していればさらに意味深かったろうが、この点に関しては残念ではあった。
偶然が引き寄せた末裔さがし
それにしても、どのようにして邂逅(かいこう)が実現したのだろうか?
鄭成功の直系の末裔が台北に在住していることは比較的簡単に分かったものの、問題はフレデリック・コイエットの子孫だった。
「この途方もない計画は、偶然の出来事が始まりでした」
両者の対面を準備した立役者の一人で、台南市の文化事業協力者である畢黎麗さんはこう回想する。
始まりは2004年。彼女のもとに台湾観光協会から連絡が入った。
「協会から、台湾とスウェーデンに関する逸話を取材したいという作家の世話を頼まれました。それがアニタ・ステイナーさんでした」(畢さん)
アニタさんは生まれ故郷スウェーデン・ヨーテボリの沖合で座礁した18世紀の貿易船の調査をしていたが、偶然コイエットの末裔に当たるマイケルさんと出会う。そしてコイエットが17世紀に、台湾で戦った敵の武将の寛大なる措置で一命を取り留めた感動的なエピソードを聞いた。さらにコイエットが日本の平戸や長崎でも働いていたことを知って、アニタさんはますます好奇心をかき立てられたのである。
「台南にやってきたアニタさんから最後の行政長官の末裔がスウェーデンにいると聞いて、思わず耳を疑いました。コイエットの魂が、彼女を使者として台南へ送ってきたとしか思えません」(畢さん)
早速畢さんはスウェーデンの台湾代表部の協力も得て、郷土史家の呉昭明さんとともにアニタさんの取材に尽力したことは言うまでも無い。
無事にスウェーデンに帰国したアニタさんから首尾よく取材が済んだことを聞いたマイケルさんは、2005年に家族を連れて台南へ向かう。そこで畢さんと初めて会うなりすっかり意気投合。その後長崎市の出島へも一緒に見学に行った。
アニタさんが書いた『少女リブの冒険―青い瞳で見た17世紀の日本と台湾』は、2007年に台湾でも翻訳版が出版された。それがきっかけとなり、オランダ時代最後の行政長官がスウェーデン人であったという事実が台湾でも大々的に報道されたのだった。
多くの力が結集して実現
2024年に向けて鄭、コイエット双方の末裔を招聘(しょうへい)すれば、台南400年を祝う歴史的イベントになると考えた畢さんは、台南市政府や廟の関係者の説得に乗り出した。だが、思うように計画は進まなかった。
「自分こそは鄭成功の末裔だと名乗り出る人が多かったこともあったので、マイケルさんが正真正銘のコイエットの末裔なのかと、当初、台南側の関係者は半信半疑だったのです」(畢さん)
さらに言えば、400年記念イベントはすでにいろいろ企画されていたため、市政府としては末裔同士の邂逅(かいこう)にあまり乗り気ではなかったのだった。
そこで畢さんら市民有志は、マイケルさんが正真正銘の14代目の末裔に当たること、両者が台南で対面することこそ、400年の歴史の節目にふさしいと説明をし続けた。
すると各国の「世界鄭氏宗親総會」、台南にある「延平郡王祠」、「鄭成功祖廟」(台湾で最初に鄭成功を祀った廟)、各地にある鄭成功廟の関係者らも動き出し、渡航費や滞在費の工面、各地の廟との連絡、オランダとスウェーデン双方との折衝などが前進した。そこでスウェーデンの末裔と台北に住む鄭成功の末裔の招聘に全力を傾けた。
2019年、畢さんはストックホルムに住むコイエット一家を訪ね、2024年のイベントへの参加を打診した。
「マイケルさんは、自分たちの現在があるのも鄭成功の慈悲の心からだと小さい頃から聞かされていた、と話してくれました」
こうしたことも前向きな返事につながったのだろうと、畢さんはしみじみと言う。
2024年に入り、ゲストの宿泊施設の提供を申し出る経済人やボランティアの人々が増え、市民と市政府の協力のおかげで、コイエット一家は廟の記念祭に全て出席することができた。ちょうど開催中だった画家の楊炳輝さんによる歴史絵画展では、フレデリック・コイエットの肖像画や当時のタイオワンの様子を描いた大作も鑑賞。また、安平区を見学したり4月29日に行われた長崎県平戸市と台南市の友好都市協定調印にも立ち会った。彼らにとって忘れられぬ滞在になったことは間違いない。
台湾と日本で祝祭は続く
4月30日の朝、帰国を前にしたマイケルさんは、万感の思いを込めてこう締めくくった。
「滞在中に体験した全てのことに、圧倒され続けました。この3日間は一生の思い出です」(マイケルさん)
「台南の街、人、歴史・・・すべてに大きな魅力を感じました、すぐにでもまた戻ってきたい」(エイドリアンさん)
台南では今年の2月から3月初旬にかけてのランタンフェスティバルに始まり、博物館や廟、商業施設などあちこちで400年の歴史を祝う催事が年末まで続く。
その1つにあたる鄭成功生誕400年記念式典に立ち会い、17世紀の歴史に登場する末裔たちの邂逅のドラマを見守ることができた私も、コイエット一家同様に感慨深い体験をすることができた。
7月13、14日には、平戸市で鄭成功の末裔や台南市の関係者、そして中国からの関係者や団体も参加して、台湾と同様の盛大な生誕祭が行われる。アジアの英雄は、日台中の祝福を受けながら7月14日で400歳になる。
写真は全て筆者撮影・提供
バナー写真:台南市開山路の「延平郡王祠」に祀られている鄭成功
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