「お別れの会」で女優篠ひろ子さんが語った夫・伊集院静の思い出

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昨年11月に亡くなった作家・伊集院静氏を偲ぶ「お別れの会」が3月18日、東京會舘で開かれた。午後2時から始まった、氏と関係の深い方々による第1部には出版・新聞・芸能・経済・スポーツ各界から約400人が参列(午後4時より一般による献花式)。著名人による弔辞の後、最後に締めくくりの挨拶(あいさつ)をしたのが夫人の女優・篠ひろ子さんである。夫について思い出を語った彼女の言葉をここに紹介したい。

姿勢正しくマイクの前に立った

さすが各界に人脈の広い伊集院氏ならではの会だった。弔辞の言葉を述べた顔ぶれは多士済々。冒頭、発起人代表の講談社・野間省伸社長の挨拶から献杯の発声をサントリーホールディングスの佐治信忠会長、次いで作家の桐野夏生、騎手の武豊、政治家の小泉進次郎、作家の北方謙三、大沢在昌、ミュージシャンの大友康平ら各氏の思い出話に続き、最後に挨拶したのが篠ひろ子さんである。

会場にはマスコミのテレビ、カメラが砲列をなしていたが、ご本人の希望で撮影は不可となった。ベリーショートの髪にグレーのパンツスーツ姿で姿勢正しくマイクの前に立った彼女は、年齢こそ重ねたものの、往年を思わせるまさに女優そのものであった。伊集院氏との結婚と同時に芸能界から身を引いた彼女が、公の場で話をすることはめったにないことである。時間にして14分ほど。司会役の阿川佐和子さんが問いかける形で篠さんは語り始めた。

「みなさまどうも、今日はこれだけ大勢の方にお集まりいただいて、誠にありがとうございました。そして伊集院静をずっと支え続けてくださいました皆様に心よりお礼申し上げます。阿川さんはいろんなことを、主人のことを全部知っていらっしゃるので、2人で今だから話せる話っていうのをお話したいと思います」

最初に阿川さんがこんな話を披露する。

阿川「私がまだひろ子さんにお目にかかったことがない段階のときに、あるとき伊集院さんがテレビ番組にお出になって、何か収録でカチンと来たことがあったらしく、『もうこの収録はおしまいにしてくれ。おれは帰る』と言ってスタジオを出ちゃった。楽屋に戻ったら、スタッフや番組プロデユ―サーも大慌てになって、『伊集院さん、お願いですから、もうちょっとですからスタジオに戻ってください』『いや、戻らん』と言って、みんなが説得してもダメだった時に、あるプロデユーサーがひろ子さんと親しい人で、その方が仙台にいらっしゃるひろ子さんにお電話を差し上げたと」

「それで『奥様とつながっています』と言って伊集院さんと替わったら、ひろ子さんは『今そういうふうに途中でスタジオを出て、番組を止めたら、その後どういうことになるかが分かるかしら』と。それをやったら番組の局の社長が『誠に申し訳ありません』と挨拶に来るでしょう。そこに出ているタレントの会社の社長、ほかにもスポンサーやいろんな方が挨拶にいらっしゃるでしょう。『そういう面倒なことを受けるのと、今、スタジオに戻るのとどっちが楽か分かりますか』と、ひろ子さんがおっしゃったら、『はい』と言ってスタジオに戻られた。私はその話を聞いたとき、『すごい!伊集院さんより強い人がいるんだ』『かっこいい』と思いました」

篠「強くはないですよ。一応そういう社会で仕事をしていたものですからね」

「お別れの会をやるのは勝手だが、家族に迷惑はかけるな」

篠「あの人の、メモの話はしてなかったかしら。メモが見つかったんです。編集者の方が、『奥様は(お別れの会に)いらっしゃらなくてもどちらでもけっこうです』と言うんです。『え、なんで』と聞いたらメモがあったと。そのなかに、『お別れの会をやるのは勝手だが、家族に迷惑はかけるな』というメモがあったそうです。だから、私はここにいなくてもよかったんじゃないかしら。そんなことがありました」

「(主人は)メモを書いてなんでも(書斎の壁に)張る癖がありまして。そのメモは、東京に最後に行ったのが8月の末。それから1カ月後、東京にいる間に、何か自分では感じるところがあったんじゃないかしら。私たち年ですから、終活だとか言っていて、いろいろ片づけが始まっていたんですが、当時、終活じゃなくなっちゃって、主人は(仙台の家にある)自分の周りのものを全部、片づけたんですよ。大事なものが何もなくなってしまって。それで『もしかしたら』ということで書いていたのかな。今思うとね」

「だけど病院嫌いだったんですよ。検査は全然してなかった。(クモ膜下で倒れるまで)大腸と胃の検査は毎年していたんですが、あの病気をしてからずっと何もしてなかった。(クモ膜下で)血管の方が心配で。そんなことで病院に行く人ではなかった。私が『病院行ったら』と言うと『お前が行け』って言うんです。『私はどこも悪くないけど』って。もうそんなことがしょっちゅうでした。だから言えないんですよ」

「どこのひろ子だ」「仙台のひろ子です!」

阿川「そういえば、クモ膜下から回復なさって、執筆活動も再開なさって、元気にやってらしたにもかかわらず、去年の夏ごろから『もう東京に戻らない』とおっしゃっていたのに仙台から東京に戻ってらして。山の上ホテルにずっと入り込まれて、それで奥様が心配してらしたんで、ホテルのスタッフの人にちょくちょくどうなってるか報告してくださいと伝えたら、声は聞こえているので大丈夫です、生きてると分かったと。それから4日(部屋から)出てこないと報告を受けて、あまりに心配なので、ひろ子さんが東京に出て来て、お部屋をコンコンとやったら」

篠「『ひろ子です』と言ったら、『どこのひろ子だ』と言われちゃった。『仙台のひろ子です!』と。それから出てきてくれたんだけど、すごい時間がかかって。それで『さあ病院行きましょう』って言ったら『絶対、行かない』『あっそう、じゃ、今から先生に電話するから』と。(クモ膜下の時に執刀してくれた)その先生のところしか行かないんです。それで『先生に電話しますよ』と言って先生に電話すると、先生には『はい、今すぐ行きます』。それで『じゃあ行きましょうね』『絶対に行かない』。もうこのやり取りが何回もありました」

つらい時とか悲しい時「知らん顔するのがいい」

阿川「たくさん、激しいけんかもなさったかもしれないけれども…」

篠「もういろいろありました。だって、最初、『結婚生活は3年だ』と言われたんです。それが31年もいっしょに住んでるんです。お付き合い、女の人とはだいたい3年だそうで(阿川 そういうもんなんですか!?)、それが31年で。もうしっちゃかめっちゃか。下駄はいてどっか行っちゃうんですよ。いなくなっちゃう。最初から。家を出るわけじゃないんだけど、なんか、麻雀とか、帰って来ない。あとはどこか遠い公園で寝てるとか、それで私は冬場は寒いと困るんで、厚着させて出かけさせてた。そういうこともありました。でも、なんか肝心な時にやさしさがあります。肝心なところで、不思議な人でした。なんか人とは違う、私たちとは違う道をひとりで歩いているなあ、そんな不思議さがあった」

阿川「入り込めない?」

篠「それは自分が生きてきたなかで、そうでしか生きられなかったのかと思う。そういう感じがしてました。でも心は通じていると思うんですけど、つらい経験をたくさんしていくなかで、そういうものがそうさせたのかな、と」

「私は、いつもつらい時とか悲しい時とか、大変な時とか、どうやってこれをやり過ごしたらいいんですか、と聞いたことがあるんです。そのときに、『知らん顔するのがいい』と言うんですよ。そこを素通りして知らん顔する、私はその言葉を聞いて『すごい!』と思ったんですよ。知らん顔するようになったら楽になりました。だから、私、今回、主人が亡くなって、知らんぷりしてました。向き合うと、苦しかったり辛かったりするじゃないですか。だから知らん顔して、(亡くなってから今日まで)この4カ月、ずーっと過ごしていました」

夫を亡くして4カ月、いまでは淡々と話せるようになったのであろう。そしてこう思い出話を締めくくった。

「今日、早く目が覚めて、まだ暗かったんですけど、外を眺めて、主人と一緒になって何かがあったんだろうかとすごく考えました。でも、別に何もなくて。ただ、一緒になれてよかったんだと。ただ、喜べばいいんだとすごく思った。最期になって、『女房を支てやってほしい』ということを周囲に言ってたらしいんで、やっぱり優しい人だったんだ、そう思ってうれしかったけれども、私は大丈夫です、私も一生懸命生きて、これから今度は私があなたに会いに行きます。以上です、ありがとうございました」

バナー写真:伊集院静さんの「お別れの会」で掲げられた写真=2024年3月18日午後、東京都千代田区(共同)

伊集院静