中尊寺建立900年で脚光を浴びる「奥州藤原氏」: 100年の栄華と滅亡
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俘囚を管理して朝廷に特産品を貢納
国史・国学の叢書『続群書類従』(ぞくぐんしょるいじゅう)によると、奥州藤原氏の祖先は藤原北家魚流(うおなりゅう)の藤原秀郷(ひでさと)である。NHK大河ドラマ『光る君へ』にも登場する藤原摂関家の道長の傍流にあたる。
奥州に移り住んだのは、秀郷の子孫の頼遠(よりとお)、または、頼遠の子・経清(つねきよ)の時代。経清の子・清衡が奥州藤原氏の初代であり、中尊寺を築いた人物である。もっとも、奥州藤原氏が秀郷子孫というのは系図上であり、確証があるわけではないが、少なくとも藤原摂関家は一族に連なる血筋と認めていたというのが定説だ。
経清が下向した時代の奥州は、たびかさなるヤマト王権による侵攻の結果、朝廷に服属した俘囚(ふしょう)と呼ばれる人々が住む地だった。現地の豪族から俘囚長(ふしゅうのちょう)が任命されて俘囚を管理し、奥州の特産品である金や、鷹の羽根・水豹(すいひょう / アザラシ)の皮・馬などを、貢物として京都に献上していた。
奥州の東側「陸奥」は、俘囚長の安倍氏が統治。安倍氏は、京都から下った貴族の末裔だったとの説が有力だ。一方、西側の「出羽」では、清原氏が実権を握っていた。清原氏は俘囚を祖とする、または京都の貴族の末裔など出自がはっきりしない。いずれにせよ、奥州藤原氏は婚姻を通じて安倍氏、清原氏と結びつきを強めていった。
奥州藤原氏と源氏の長い因縁が始まる
1051(永承6年)年、京都への朝貢を怠った安倍氏に懲罰を与えるため、源頼義が派遣され戦となった。1062(康平5)年まで続く前九年の役の始まりだった。
経清は安倍氏につき、一方の清原氏は源氏と連合。結果は源氏・清原方の勝利で終わり、経清は処刑される。その後、安倍氏の領地は清原氏のものとなった。この戦いの最中の1056(天喜4)年に生まれた清衡は清原氏の子として育てられた。
ところが今度は清原氏の内紛が始まり、清衡は義理の兄弟たちと戦うことになった。1083(永保3)年〜1087(寛治元)年の後三年の役である。これを機に、清衡は清原氏からの独立を目指していく。
ここに、またもや源氏が介入してきた。源頼義の子・義家だ。義家は、のちに奥州藤原氏の前に立ちはだかる源頼朝の高祖父である。奥州藤原氏と源氏との長きにわたる因縁が、ここから本格的に始まった。
清衡は義家と組んで清原氏一族と戦い、勝利した。これによって、義家は奥州の覇権と権益を握ったはずだった。だが、京都の朝廷はこの戦いを、清原氏の内政に介入した義家の「私戦」と捉え、恩賞を与えなかった。義家は落胆したのか東北から手を引き、その結果、清衡が清原氏の領地を手に入れるのである。
平泉を拠点にインフラを整備し中尊寺を建立
清衡は1094(寛治8)年頃、朝廷から陸奥の押領使(おうりょうし)に叙任される。押領使は治安維持の全権を持つ、いわば「警察権」を持った役職だ。すると清衡は旧安倍氏系、旧清原氏系の小豪族を支配下に置き、かつ摂関家への貢納に励んだ。京都と巧みに「外交」しつつ、一方で奥州の勢力を結集させていく──その先には、中央政府と距離を置く「独立構想」が視野に入っていたと見ていい。
「黄金都市」平泉の建設も始まった。平泉は衣川と北上川の合流点にある要衝地であり、7平方キロメートルにわたる農地を開発したという。また、白河関(福島県)から外ヶ浜(青森県)に至る幹線道路・奥大道(おくのたいどう)も整備し、人と物の移動を活性化した。平泉は奥大道のほぼ中間点に位置している。
さらに中尊寺の建立である。中尊寺に清衡が奉納したと伝わる「落慶供養願文」には、戦乱で失われた多くの者の魂を浄土に導くために建てたと記されている。「中尊寺経」と呼ばれる写経も奉納するなど、東北の安寧を願っていたことがうかがえる。
商業を振興し、インフラを整備。さらに仏教によって民衆を統治する──平泉は当時の地方には他に類を見ない発達した都市であり、奥州藤原氏「独立構想」の本拠地でもあった。
毛越寺を建立した2代基衡
2代基衡の誕生年は諸説あるが、1105(長治2)年説が一般的だ。1128(大治3)年の父・清衡没後、兄との後継争いを制し、実権を握った。
基衡の特筆すべき事績は、毛越寺の建立である。京の都の文化を積極的に取り入れ、本堂は都の方角に向けられていた。周囲に、京風の碁盤の目状の街区を整備したとも伝わる。
一方、この時代、中央では摂関家の権力に陰りが見え始め、上皇・法皇による院政へと移行していた。こうしたことを背景に、基衡は摂関家に対して「低姿勢から高姿勢へて転じたのではないか」と、高橋崇は指摘する(『奥州藤原氏』/中公新書)。実際、関白・藤原頼長とは低姿勢で融和した後に衝突するなど、摂関家との関係に変化がみられる。
半面、基衡が建立した毛越寺の優雅な庭園には、彼の貴族志向が強く反映されている。
金色堂に納められた基衡の遺体から、彼が肥満した体型だったことが分かっている。武光誠はぜいたくな食生活に慣れ親しんだ基衡を、次第に貴族化した人物ではなかったかと述べている(『奥州藤原三代の栄華と没落』KAWADE夢新書)。
毛越寺の阿弥陀堂だった観自在王院は、基衡の死(1157・保元2年)の1年後、彼の妻が建立したものだ。今も残る舞鶴が池は平安時代に書かれた最古の庭園書『作庭記』に則って築いたといわれる。妻が夫の貴族志向を受け継いだのだろう。
基衡は京都の摂関家に「高姿勢」でありながら、文化・生活は貴族的という二面性を持っていた。
秀衡を悩ませた「義経問題」
基衡が逝くと、3代秀衡が平泉を治めた。秀衡は源義経との関係で知られる。
義経という人物は1180(治承4)年、打倒平家に挙兵した兄・頼朝に馳せ参じるまでの経歴が、詳しく分かっていない。だが、1174(承安4)年頃に元服し、その後奥州に向かって秀衡に庇護されたと伝わる。源平合戦で活躍後、頼朝と対立し、再び平泉に姿を現したのを確認できたのは1187(文治3)年だった。
通説では秀衡は義経を厚遇したとされるが、裏付ける証拠はない。秀衡も父・基衡と同じく貴族志向が強かったらしく、京都から文官(行政官吏)を招いていたが、武光誠は文官の下位に義経を位置けていたとみている。つまり、義経は貴族志向の強い秀衡が、中央の行政システムや文化を導入するために招聘した、京都に明るい人物のひとりに過ぎなかった可能性もある。
また高橋崇も、秀衡は自分が死んだのちに「義経を大将軍として国務の任にあたらせよ」と、息子たちに遺言したとされる件を引き合いに、これらはあくまで鎌倉幕府の公文書『吾妻鏡』や、僧侶の日記『玉葉』が伝聞をもとに記したにすぎず、秀衡の真意だったかは疑問と指摘する。
仮にこの遺言が事実だったにせよ、平泉が攻撃されたときは義経を軍事指揮官に立て迎撃せよとの意味であり、国務を任せるほど重用していなかったともいう。
鎌倉幕府との戦いを案じながら死去
秀衡は平清盛・源頼朝と互角に渡り合った男でもある。
清盛とは協調関係にあった。貿易による利潤追求に積極的だった清盛にとって、奥州の特産品を押さえている秀衡は「ビジネスパートナー」として欠くべからざる存在だったからだ。このため秀衡を朝廷に推挙し、官位をそれまでの六位から従五位に昇進させるのに尽力した。1170(嘉応2)年、陸奥の軍・政府の長官である鎮守府将軍に秀衡が就くように、働きかけたのも清盛だった。
一方の頼朝にとっては、「目の上のたんこぶ」だった。打倒平家に挙兵したものの、西の平家と北の奥州藤原氏が連動して軍事行動を起こせば、鎌倉は挟撃されかねない。清盛が病死する1181(治承5)年前後には、秀衡が白河関を越えて鎌倉に迫っているとの噂が流れた。フェイク情報だったが、頼朝はつねに秀衡を警戒していた。
だが清盛が没し、義経の活躍で平家が滅亡すると、頼朝は京都への朝貢を「直接行わずに鎌倉を通せ」と秀衡に指示するなど、いよいよ強気に出始めた。秀衡はこれをのんだ。奥州に潜伏している義経を引き渡せと迫ると「異心なし」、つまり頼朝に楯突くつもりはないと回答した。
秀衡と清盛は、いわばウィンウィンの関係にあり、お互いを利用しあっていたが、頼朝は不信感と敵意を隠そうとしなかった。源氏と平家のあいだを巧みに泳ぎ奥州に干渉させなかった秀衡も、平家が滅亡すると、次第に頼朝に追い込まれていった。
文化面では京都・平等院を模した無量光院を建立し、貴族志向を極めた。浄土思想を具現化した無量光院の規模は平等院の上を行っていたと考えられ、京都を凌駕したいとの願望がうかがえる。
一方で、政庁を祖父・清衡の館があった地に移転した。これが柳之御所である。武光誠はこの移転を、奥州の武士の独立性を回復させる策だったという。貴族化を進めながらも、来るべき鎌倉との合戦も見据えていたのだろう。だが、1187(文治3)年、多くの課題を残したまま没する。
20代半ばで部下に裏切られて死んだ4代泰衡
秀衡死去のわずか2年後の1189(文治5)年8月21日、栄華を誇った平泉は炎上した。鎌倉幕府の侵攻を目前に控え、奥州藤原氏自らが火を放ったという。『吾妻鏡』は、その様子をこう記す。
「泰衡、平泉館を過ぎ、なお逃亡。わずかな郎従を館内につかわし(中略)高屋、宝蔵等に火をはなち、三代の旧跡を失う」
翌日、焼け野原となった平泉に鎌倉幕府軍が入城した。
『吾妻鏡』に名がある泰衡が、秀衡の跡を継いだ4代目である。
これにさかのぼる同年閏4月、泰衡は源義経を殺害した。再び『吾妻鏡』の記載。
「閏四月大三十日、藤原泰衡が源義経を襲った。朝廷の命令や頼朝の圧力に抗しきれなかった」
歴史に「タラレバ」はないが、仮にもっと早く義経を引き渡していれば、結果は違った可能性がある。だが、泰衡は決断できなかった。とはいえ、金色堂の遺骸の歯を調査したところ、死亡推定年齢はおよそ25歳(泰衡は生年が不明)。強大な鎌倉幕府に対抗するには、若すぎた。迷いもあったのだろう。
平泉を出た泰衡は必死に逃げたが、9月3日、贄柵(にえのさく / 秋田県大館市)で最期を迎えた。家臣の裏切りに遭い、首を取られる酷い死だった。
こうした生涯をたどった泰衡に、特筆すべき事績はない。ただし、裏切って首をとった家臣がいた半面、主だった重臣たちは主君が死ぬまで戦い続けた。降伏は泰衡死後である。泰衡は慕われていたのかもしれない。確証はないが、その可能性があるのが救いだろう。
〔参考文献〕
- 『奥州藤原氏』高橋崇 / 中公新書
- 『奥州藤原三代の栄華と没落』武光誠 / KAWADE夢新書
バナー写真:奥州藤原三代。左から、初代清衡、2代基衡、3代秀衡。毛越寺所蔵