幕末に相場で大もうけしたやり手のコメ屋・お蝶 : 世界に先駆ける先物取引を支えた「旗振り通信」(後編)

経済・ビジネス 歴史

江戸時代、商人たちは誰よりももうけてやろうと必死になって知恵を巡らせたのだなとつくづく思う。なにしろ300年近くも前に、世界中のトレーダーがしのぎを削る先物取引の原型を生み、相場情報を速報する「暗号通信ネットワーク」までも編み出したのだから。「電信」の発達と共に廃れ、忘れられつつある「旗振り通信」網を、先人への敬意を込めつつ、前編・後編で掘り起こしてみたい。

各地に残る伝承や郷土史を手掛かりに

後編では「旗振り山」を訪ねるが、最初にお伝えしておくべきなのは、「旗振り通信」に「公式」な記録はないということ。商人たちの間から自然発生して進化し、幕府の御禁制をかいくぐり、商売敵にバレてはいけなかったことを考えれば、記録には残さず、知っている人が限られているほど価値があったのだ。

前編で紹介した『旗振り山』(ナカニシヤ出版)著者の柴田昭彦氏は、各地に断片的に残る伝承や郷土史研究家の論考、旗振り人の子孫からの聞き取りを手掛かりに現地調査を重ねながら全体像を明らかにしようとしてきた。今回の私の旗振り山訪問は、そうした柴田氏の20年余の地道な研究成果に基づいている。

堂島から岡山市までの旗振り通信「再現」スモッグに阻まれる

堂島から西方面に相場を伝えるための幹線通信ルートで、姫路(兵庫県)と岡山の中間地点にある岡山県備前市を訪れた。1981年に旗振り通信「再現」の試みが行われた際に中継点が3カ所設定された場所だ。

『旗振り山』によると、再現を実行したのは日本ボーイスカウト兵庫連盟西宮地区の旗振振り通信実行委員会の50人。当時西宮市の会社員で元国立民族学博物館客員教授の吉井正彦氏の企画だった。

旗振り通信ルート西方面の拡大図
旗振り通信ルート西方面の拡大図

約2年かけて各地の古老や郷土史家らに旗振り通信の中継点や方法などを聞き取り調査した上で実施。米市場跡から西宮市役所、金鳥山(神戸市東灘区)、高取山(同市須磨区)、金ケ崎山(明石市)、鶴ヶ峰(姫路市)、天狗山(岡山県備前市)、東大平山(同)、操山(岡山市中区)など25の中継点を経て岡山市北区京橋まで約170キロメートル通信に挑戦した。

江戸時代と違い排気ガスなどで見通しが悪いことから、約6キロ隔で中継点を設定。金鳥山では通信役のボーイスカウトが鉄塔に体を縛り付けて送受信したという。案の定、阪神地区ではスモッグに阻まれ一部無線で代用せざるを得なかったが、金ケ崎山から京橋までの110キロは約2時間で正しく伝えられた。

史実上の旗振り山である岡山県中南部・赤磐市の熊山(509メートル)に登った。「再現」の中継点になった東大平山(301メートル)と西大平山(327メートル)、それに操山(169メートル)も望める(以下、写真は筆者撮影)。

熊山から南方面
熊山から南方面

上の写真は熊山展望台から見る瀬戸内海方面(南方向)。画面内左寄りのとがった山の右手前に見えるのが東大平山と西大平山。奥にかすんで広がるのは小豆島だ。画面左枠外方向に隣の旗振り山・天狗山(392メートル)があるが、木立などで展望はない。

下の写真は岡山市方面(南西方向)。蛇行する吉井川の右側奥方向に旗振り場だった操山がある。かつては画面左枠外の西大平山や撮影場所の熊山から旗振り信号が送られた。

熊山から南西方面
熊山から南西方面

旗振りには体力と熟練技術が必要と実感

熊山に行った日は晴天ではあったが、見通しが悪く、約4キロ離れた東・西大平山が少しかすんでいる。さらに約18キロ離れた操山はモヤがかかったような状態。持参した倍率12倍の双眼鏡でもはっきりとは見えない。仮に私が操山からの信号を受信する役目だったら非常に不安である。

空気が澄んでいても、明確に発信地点を認識し信号の決まり事がしっかりと頭に入っていなければ定時の受送信に失敗してしまうだろうなと思った。さらに、山登りだ。標高数百メートルとはいえ車のない時代のこと。毎日登り下りするには体力がいると実感した。

ちなみに昔の旗振り人は1、2分程度で1回の送信を終えたという。彼らは前編で紹介した数字や文字、確認信号、暗号など通信プロトコルを熟知した職人、柴田氏の言葉を借りれば「旗振り師」というべきプロフェッショナルだった。

「再現」を企画した吉井氏によれば、給料は小学校の校長と同じぐらいだったという。また、柴田氏によれば、愛知・蒲郡では明治30年ごろに月給7円50銭だったという記録もあった。明治時代の小学校の教員の初任給が月に8~9円だったとされることから考えれば、地域・熟練度で違いはあるものの、旗振り師は家庭を十分維持していける収入を得られていたといえるようだ。

旗振り人が使ったフランス製の望遠鏡

旗振り通信に使われた望遠鏡が3本寄贈展示されている兵庫県明石市立文化博物館を柴田氏と供に訪れた。同館の許可をもらい、間近に見ることができた。柴田氏によると、真ちゅうでできたフランス製で4段式、全部伸ばすと約90センチになる。持たせてもらうとずしりと重い。同種の望遠鏡を鑑定した結果では倍率は約25倍、最適条件で83キロ離れたところに立てた1メートル間隔の2本の柱を見分けられる分解能だという。小さい望遠鏡は位置の確認用。大望遠鏡をのぞかせてもらったが、レンズが劣化していて光を感じることができるだけであった。

柴田氏は約20年前、望遠鏡を寄贈した明石市の「旗振り師」の子孫の男性らに聞き取りをしている。寄贈者の祖父と父が、決められた時間に相場山に行き、赤い毛氈(もうせん)を敷いた場所で受信と送信の役割を分担していたという。父の代まで4代にわたって旗振り通信の仕事をしていて、額は不明だが、日当制で給金をもらっていたという。

寄贈者夫妻(故人)の子どもや親族にさらに話が聞けないか、ほかに使われたものが残っていないかなど尋ねたかったが、博物館でも寄贈者の縁者の連絡先は分からないという。柴田氏は「実際に旗振り通信をしていた人を知っていたり、話を聞いたりしたことがある人がどんどん少なくなっています。旗振り通信の発掘は時間との勝負になっているのが現状です」と焦燥感を募らせた。

望遠鏡を手にする、『旗振り山』著者の柴田昭彦氏
望遠鏡を手にする、『旗振り山』著者の柴田昭彦氏

山頂の岩に矢印刻んで旗振らせてたコメ屋の女将

冒頭の写真は、滋賀県近江八幡市と東近江市の境にある岩戸山(326メートル)の頂上だ。ここは聖徳太子が山の巨大な岩に13体の仏像を刻んだと伝わることから「十三仏山」とも呼ばれ、登山道に様々な石仏が並ぶ信仰の山である。

滋賀県内の旗振り通信を研究し、柴田氏にも情報を提供してきた東近江市の野々宮神社宮司、中島伸男氏によると、ここで旗振り通信が行われていたことは分かっていたが、頂上の岩に刻まれた矢印の意味が不明だったという。矢印が指す方向の山には旗振り場の形跡がなかったからだ。

柴田氏は改めて地元の伝承を調べ、「近江八幡 ふるさとの昔ばなし」(近江八幡市教育委員会)に、「米相場師お蝶」という話があるのを見つけた。それによると、長田村(現近江八幡市長田町)にあった米屋の女将・お蝶は、慶應元(1865)年に大阪・堂島で旗振り通信が始まると、相場情報をいち早く得るため、人を雇って米相場を自分の店まで知らせるルートをつくった。

相場情報は半日とたたないうちに近くの山に伝えられ、お蝶の夫が毎日、店の裏の田んぼから山を見て情報を確認。店は大もうけしたという。柴田氏がこの矢印の先にお蝶の店があった長田町があることを確認し、謎が解けた。

1865年は、前編で述べた通り、「黒船発見」の功で旗振りによる相場速報が晴れて禁を解かれた年。やり手のお蝶はすかさず導入したというわけだ。ただ、お蝶は地元にも利益を還元した。長田天満宮神社にはみこし蔵を寄進。その蔵は今も保存されていて、地元の自治会報にも紹介されている。

山頂にはもう一つ矢印が刻まれた岩がある。そちらの矢印は、隣の野洲(やす)にある相場振(そばふり)山(283メートル)の方向を指している。岩戸山はさらに長浜まで続くルートの中継点でもあり、相場情報はさらに次の旗振り場である荒神山(彦根市、284メートル)に送信された。こうした送受信の方向を示す矢印が明確に残っている旗振り山はほかになく、珍しいそうだ。

木曾三川をまたぐ名古屋へのルート

堂島を発した情報の流れの一つは生駒山地と鈴鹿山地を超えて伊勢湾岸へと向かった。三重県桑名市の多度山(403メートル)は、そこから名古屋、桑名へと情報を伝達するポイントで、江戸ルートにもつながる結節点だった。旗振りは多度山頂の「三本杉」で行われていた。山頂三角点横には「三本杉の『相場振り』」という案内板があり、ここから桑名、名古屋などと通信していたことが紹介されている。すぐ前の展望台からは木曽三川(きそさんせん / 木曽川、長良川、揖斐川)の向こうに名古屋市街が遠望できる。その名古屋のビルまで情報を送ったという。

説明板
説明板

多度山から名古屋方面
多度山から名古屋方面

直線距離で約23キロ。下の写真は名古屋駅周辺のビル群をズームレンズで撮ったものだ。この距離で信号のやりとりをするには相当な熟練技が必要だったことは想像に難くない。

名古屋駅ビル群
名古屋駅ビル群

確認できた最東端の静岡・三ケ日の中山峠「旗振り山」

2010年4月、柴田氏はインターネットで「旗振り山、平尾山」という投稿があるのを見つけた。平尾山は静岡県と愛知県境にあり、旗振り山は静岡県側にあるという。本当なら知られている最東端の旗振り山になる。すぐに、山のある浜松市北区の三ヶ日地区センターに問い合わせた。その結果、「郷土史ひなぶ」(平山小学校区地域学習推進協議会)に「徳川時代に四日市でたったお米の相場を江戸に知らせた山」などと書かれていることが分かった。柴田氏は同月のうちに現地を訪れ、「旗振り山」(393メートル)が浜松市北区三ヶ日町本坂に存在したことを確認した。

私も訪ねた。豊橋市側から中山自然歩道を1.6キロ上がり、1時間余りで中山峠にたどり着いた。峠の少し先が旗振り山だというが、悔しいながら木々や草やぶで判然としない。「旗振り山」を案内する標識などはなく、ほとんどのハイカーは意識することなく通り過ぎるだろうと思った。

2019年に再訪して同じ光景を見た柴田氏が「こうしてここが旗振り山であったことが忘れられていくのは残念です。何らかの形で山名を語り継がないといけませんね」と話していたことが頭によみがえった。電信・電話に取って代わられる大正7(1918)年までには消滅してしまった旗振り通信。未解明の三ケ日から江戸までの「旗振り山」のつながりは、ミッシングリンクのまま埋もれてしまうのだろうか。

中山峠では、かつて旗振り山であった形跡は見つけることができなかった
中山峠では、かつて旗振り山であった形跡は見つけることができなかった

バナー写真:岩戸山山頂の岩に刻まれた旗振りの方向を示す矢印。近江八幡市長田町を指している(筆者撮影)

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