「この世は私のもの」と詠んだ権力者・藤原道長の実は気弱で小心な素顔
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兄たちの死で突如開けた出世街道
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
1018(寛仁2)年10月、道長53歳のときに詠(よ)んだ歌である。
「この世は私のものだ。満月(望月)のように欠けたところがないくらい満ち足りている」―権力をほしいままにした者のおごりを象徴するかのような言葉。なんて傲慢でイヤな奴なのだろう…と感じる人も多いのではないか。
藤原氏は平安時代、天皇の外戚として摂政関白・内覧(ないらん / 天皇に奏上、あるいは天皇が宣下する文書を確認する関白に準じる職)といった要職を独占する摂関政治体制を築いた。その全盛期に君臨していたのが道長だった。
しかし、この歌のせいで道長のイメージがひとり歩きしている。
国際日本文化研究センター教授の倉本一宏氏は、「道長は多面性を持った複雑な人物であり、『望月の歌』のみをもって語ることはできません」という。
そもそも道長とは、どういう男だったのか?
藤原氏は、中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに古代の政権を掌握した、中臣鎌足を祖とする一族だ。鎌足は669(天智8)年、天智天皇から「藤原姓」を賜り、その子・不比等(ふひと)の息子たちが4つの家を創設した。これが藤原四家の北家・南家・式家・京家である。なかでも、最も栄えたのが北家だ。
道長は、北家につらなる藤原氏九条流の兼家の子として、966(康保3)年に生まれた。きょうだいは7人。
同母の兄である道隆・道兼、異母の兄、道綱・道義。同母姉に詮子(せんし)・超子(ちょうし)、異母妹に綏子(すいし)がいた。男5人の中では末っ子で、幼少〜青春期は、兄たちに隠れた目立たない存在だった。
実際、父の後継者は同母兄の道隆、道兼だった。ところが995(長徳元)年、その兄2人が相次いで死去する。異母兄2人は庶流だったことから、突然、出世の道が開け、内覧宣旨を経て、右大臣となった。道長30歳だった。また、翌年には左大臣就任と、矢継ぎ早に昇進した。
さらに道長と政権を争っていた長兄道隆の子・伊周(これちか)と隆家は、時の花山上皇(第65代)を襲撃する事件を起こし、揃って配流となった。
一方、姉の詮子は、第64代円融天皇の後宮(※1)に入り、第66代一条天皇を産んでいた。道長と詮子は非常に親しかったという。「道長の出世には、詮子の推挙もあったと考えられます」(倉本氏)
こうして、道長の快進撃が始まった。
前代未聞の「一家三后」
官職にはさほど執着せず、藤原家の女性たちと天皇とのつながりを、ことさら重視した。詮子に加え、姉の超子は第63代冷泉天皇の女御(※2)となり、生まれた子がのちの第67代三条天皇で、三条天皇の妃となったのが、道長の妹・綏子という具合である。
道長の娘たちは、彰子(しょうし)が一条天皇の中宮(※3)となり、第68代後一条天皇と、第69代後朱雀天皇を産む。のち皇太后(※4)、太皇太后(※5)となった。妍子(けんし)は三条天皇に入内し、のちに中宮→皇太后。威子(いし)は後一条天皇の中宮となった。
彰子・妍子・威子の3人の娘たちによって、「一家に三后が立つ」という前代未聞の事態となった。その中心に、道長は常にいた。冒頭の「望月の歌」は、この頃に詠んだものだった。
よく泣き、よく怒り、ときに小心
道長のキャラクターは、どんなものだったのだろう?
道長が備忘録的に記していた『御堂関白記』は、世界最古の自筆日記として、世界記憶遺産に登録されている。
倉本氏はその内容にこそ、人間・道長を知る秘密が隠されているという。
「感情表現が豊かで、よく泣き、よく怒り、ときには気弱で、愚痴や自虐も吐きます。怒りっぽいのは権力者によくある特徴と思いますが、自分はそもそも愚者であるとつづるなど、率直な人物像をうかがわせ、こうした面が人をひきつけたのではないでしょうか」
例えば、娘の彰子に関しては、よく泣く。悲しいからではない。道長の次世代にまで権勢が維持できるよう、天皇に奉仕し皇子を産む姿に、娘よ、ありがとうとばかりに、感動して涙する。
「為政者には演技して涙を流す人もいるでしょうが、道長は感極まり、自然に泣いていたと思いますね」
自画自賛も多い。突然、酒宴を開催すると言い出し、人を集めて自慢話に花を咲かせる。しかも、話した相手が楽しんでいると、心底思い込んで有頂天になっている様子さえある。
一方、「道長の側近に藤原行成(ゆきなり)という人がいましたが、この人に対しては、かなり怒りをぶつけています。面と向かって怒鳴るのです。周囲を振り回すタイプだったかもしれません」
気弱で小心な面もある。寺院の字額を書いてほしいと頼まれて揮毫(きごう)すると、「無理といったのに…」と、出来に自信がないかのような心情を吐露する。
「道長は病弱でした。体調のすぐれない日もあったようで、そうしたときには気弱な一面が顔をのぞかせたのでしょう」
だが、ここぞというときは、強引だ。一家の女性たちの立后、つまり娘が皇后や皇太后になる、または娘が産んだ孫が立太子、つまり皇太子に立てられる場面では、剛腕だった。政権を維持していくにはここがポイントと知っていた。要所を決して見逃さない。ゆえに勝負強い。だからこそ、人心掌握にも長けていた。
「小心と大胆、繊細な半面、度量が広く、ときに寛容で、ときに怒りを爆発させる。人間・道長への興味は尽きません」(倉本氏)
冒頭の「望月の歌」も、自己を包み隠さない人間ゆえの感情の発露だろう。剛腕だが人間くさい。今の日本に、こんな政治家がいるだろうか。
[参考文献]
- 『藤原道長の日常生活』倉本一宏 / 講談社現代新書
- 『紫式部と藤原道長』倉本一宏 / 講談社現代新書
バナー写真:『紫式部日記絵巻断簡』。(左から)道長の妻・倫子(りんし)、倫子の腕に抱かれているのは道長の娘・彰子が産んだ敦成親王(のちの後一条天皇)、道長(下の方の人物)、彰子、そして紫式部(右下) 出典 : ColBase