江戸時代のトレーダーが構築した情報ネットワーク : 世界に先駆ける先物取引を支えた「旗振り通信」(前編)

経済・ビジネス 歴史

江戸時代、商人たちは誰よりももうけてやろうと必死になって知恵を巡らせたのだなとつくづく思う。なにしろ300年近くも前に、世界中のトレーダーがしのぎを削る先物取引の原型を生み、相場情報を速報する「暗号通信ネットワーク」までも編み出したのだから。「電信」の発達と共に廃れ、忘れられつつある「旗振り通信」網を、先人への敬意を込めつつ、前編・後編で掘り起こしてみたい。

「先物取引」の原型を形づくった「堂島米市場」

大阪駅から南に歩いて十数分、堂島川の北岸、阪神高速の直下の堂島米市場跡地(大阪市北区)には、白い米粒形のモニュメントが鎮座している。

堂島米市場跡地のモニュメント(筆者撮影)
堂島米市場跡地のモニュメント(筆者撮影)

歌川広重の浮世絵が添えられた説明板には、日英併記で「享保15(1730)年、江戸幕府は堂島で行われる正米(しょうまい)商い(米切手を売買する現物市場)と帳合米(ちょうあいまい)商い(米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場と呼ばれる公的市場が成立する」と書かれている。さらに、「世界における組織的な先物取引の先駆けとして広く知られている」と続く。

1848 年設立の由緒ある取引所であり、世界の先物市場の中心的存在として知られるシカゴ商品取引所(CBOT)の見学ツアーでは、「CBOTは堂島米市場のシステムを手本にしてつくられた」と説明しているという。その他、様々な論文などでも堂島が今日の世界市場の先物取引システムを先導したことを紹介しているが、一方で、先物市場に欠かせない相場の動向を伝える手段でも抜きん出ていたことは、残念ながらあまり知られていない。

18世紀前半には普及、大もうけの速報手段「旗振り通信」

生き馬の目を抜く相場の世界。同業者より早く情報を入手できるかが成否を左右する。堂島の相場は当初、「米飛脚」と呼ばれる専門の韋駄天(いだてん)が各地の商人に知らせていたが、なにせ人の足。京都や奈良に情報が届くまでは何時間もかかった。もっと早い手はないかと思案して行き着いたのが、1600年代の初頭に日本へともたらされた「遠眼鏡(望遠鏡)」を使う「目視」だ。

1932(昭和7)年に発行の『明治大正大阪市史紀要第47号』に収録されている「大阪の旗振り通信」(近藤文二)によると、1745年ごろ、大和の国平群(へぐり)郡若井村(現奈良県生駒郡平群町)の源助なる人物が、最初は煙、次に大傘、提灯(ちょうちん)、手ぬぐいの振り方などで堂島から2キロメートルほど離れた本庄の森(現大阪市北区本庄)から情報を発信させ、大阪の街を一望できる十三峠から遠眼鏡で確認していた。後にこれを大旗による信号に発展させたのが、旗振り通信の初期の記録として残っているという。

堂島コメ市場説明版(筆者撮影)
堂島コメ市場説明版(筆者撮影)

当然、まねする商人が出てくる。単に遠眼鏡で見て情報を得るだけでなく、中継点を設けて人を配置し、独自の通信ルートで情報をリレーしていくなど高度化しながら、旗振り通信は盛んになっていった。

ところが1775年、幕府は旗振りなどで相場を知らせることを禁ずるお触れを出した。有力な御用商人になっていた米飛脚業者からの苦情があったためとも、幕府が相場情報を米飛脚一本に統制したかったためともいわれている。裏を返せば、すでにそれだけ様々なグループが旗振り通信で相場情報を伝えていたということである。

もっとも、禁止の対象となっていたのが摂津、河内、播磨の三国(現在の大阪府から兵庫県にかけての地域)だったため、商人たちは堂島から飛脚を国境まで走らせ、禁止区域を出た地点から旗振り通信をしていた。さらに、禁制をかいくぐって三国内から旗振り通信をする者も後を絶たず、幕府はその後もたびたび禁止のお触れを出している。禁止区域から分かるように、通信ルートは堂島を起点に京都・大津方面、奈良方面、和歌山方面、兵庫方面などへ放射状に広がっていた。

堂島から和歌山へは3分、広島までは40分で平均時速720キロ

禁じ手だった旗振り通信に転機が訪れたのは幕末の1865年9月。前述の「大阪の旗振り通信」によれば、イギリス、フランス、オランダの公使らが条約勅許を迫るため軍艦で兵庫港に来た際、たまたま尼崎か六甲山上(兵庫県南東部)にいた旗振り通信手がこれを発見し、時の所司代に急報した。このことを機に京都米会所の会頭が功績に免じて禁令を解くよう願い出て、幕府も有用性を認め、ついに禁を解いた。ここから旗振り通信は、堂島から文字通り大手を振って相場を伝えられるようになった。

下の絵は堂島米市場から旗を振って相場を伝える様子。絵の上部には、建物の屋根に旗振り場が設置されていることも分かる。

堂島米市場から旗を振って相場を伝える様子。絵の上部には、建物の屋根に旗振り場が設置されている図も描かれている(風俗画法第276号「浪花風俗百圖圖解(其二十八)堂島の信號」、国立国会図書館蔵)。
堂島米市場から旗を振って相場を伝える様子。絵の上部には、建物の屋根に旗振り場が設置されている図も描かれている(風俗画法第276号「浪花風俗百圖圖解(其二十八)堂島の信號」、国立国会図書館蔵)。

こうして堂島からの旗振り通信は隆盛を極めていく。ネットワークは西に岡山、広島、博多へ、東は京都、名古屋、静岡、江戸へと広がったという。旗振り通信を調査・研究し、『旗振り山』『旗振り山と航空灯台』(いずれもナカニシヤ出版)の著書のある柴田昭彦氏によると、ネットワークの「中継点」は見通しのいい山や峠が多く、今も各地に「旗振山」「相場振(そばふり)山」「相場取(そばとり)山」「旗山」「畑山」などの名前や通称で残っているという。これら中継点の間隔は4~22キロ程度だった。

柴田氏は各種の記録や、再現実験をした人たちから聞き取りした内容から、通信速度を割り出している。それによると、堂島から和歌山へは3分、京都まで4分、神戸まで7分、桑名(三重県北部)まで10分、岡山まで15分、広島まで40分足らずだったという。1分で平均12キロメートル先に伝わると考えれば平均時速720キロメートル、ジェット旅客機に迫るスピードである。

ちなみに、江戸までは8時間かかった。これは、三島-小田原間は飛脚による箱根越えに頼らざるを得なかったため。それでも、早飛脚で3~5日かかっていたのと比べれば格段にスピードアップした。

下に主な旗振り通信のルートを柴田氏の著書「旗振り山」から転載する。これらはいわば「幹線」で、これに様々な「支線」が付随していた。

旗振り通信ルートの概略図
旗振り通信ルートの概略図

数字と文字、念押し信号、暗号キーを含む通信システム

単に旗を振るだけでは意味をなさない。いったい、どのようにして相場情報を伝えたのだろうか。「大阪の旗振り通信」には、基本となる旗の振り方、いわば「標準語」が紹介されている。

以下、それによって主なポイントを説明していこう。

[旗の素材]細めの単糸で密に織られた平織りのしなやかな金巾(かなきん)生地

[大旗の寸法]91センチ×167センチあるいは97センチ×152センチ(曇天時用)

[小旗の寸法]61センチ×106センチ(晴天時用)

[旗の色]黒(山上用)、白(背景に樹木などがある主に低地用)

[信号の開始]旗を中央直線に振り下す

[数字の位表現](旗振り人の)右に振れば十の位、左に振れば一の位。例えば、右に2回、左に4回振れば「24」を表す

[念押し信号]1~100の数字にあらかじめ照合用の数字=「合い印」を割り振り、送信した数字の後に合い印を送り、誤送信が発生しないようにする。たとえば、送信者は右に1回、左に4回振って「14」を送信した後、14の合い印の「5」を送ることで、受信者は受け取った数字に間違いがないことを確認できる。より重要な情報は、追加料金を支払って、念押し信号と合わせて送るなどした

[文字信号]イロハニホヘト…計47文字にそれぞれにあらかじめ数字を割り当て、文字情報も送信できる。濁点は右側で2回上下に振る

[訂正信号]受信者の誤りを指摘する場合、旗を強く上下に振り、次に左右水平に振る。いくつもの中継点を経て情報を伝えていく途中で、伝え違いが生じないよう、チェックする仕組み

ほかにも様々な決まり事があるが、「標準語」は他者に情報を読み取られてしまう可能性がある。そこで、旗振り通信の実施者は日ごと、場合によっては取引ごとに実際の数字にわざとある数を足したり引いたりするよう決めていた。これは「台付」と呼ばれ、ネットワークに携わる人たちにあらかじめ秘密裏に送っておき、それを使って受信した数字を正しいものに解読したという。これはインターネット通信でも使われる「共通鍵暗号」方式そのものである。

フランス発祥の「腕木通信」は日本には定着せず

電信以前に広く利用された通信手段としては、フランスの技術者クロード・シャップが1793年に発明した「腕木通信(telegraphあるいはsemaphore)」がよく知られている。

通信基地の屋上に支柱を建て、その先に取り付けた3本の「腕木」をワイヤーで操作してさまざまな形をつくり、その形に応じて決められたアルファベットを表示することで情報を伝えた。軍事上の有用性が認められてフランス革命期からナポレオン時代にかけ国内で総延長600キロメートルの通信網が整備された。例えば、パリ-ブレスト間551キロメートルを8分で結んだという。最盛期にヨーロッパを中心に世界で総延長1万4000キロの通信網があった。

ヨーロッパで使われていた腕木通信(getty images)
ヨーロッパで使われていた腕木通信(getty images)

腕木通信は幕末から明治維新にかけて日本に紹介された。しかし、日本ではすでに旗振り通信のネットワークが張り巡らされていたため、あえて腕木通信を導入する必要がなかった。

数字や文字を信号化し、目視のリレーで伝えていく点は、旗振り通信と腕木通信は共通している。ただ、腕木通信が軍事的利用をバネに発展したのに対し、旗振り通信は徹頭徹尾「商売繁盛」がエネルギー源だった。先に触れた解禁につながる兵庫港沖での黒船発見が、多少、軍事のにおいがする程度である。

後編では、旗振り通信の中継点であった旗振り山を訪ねる。

バナー写真 : 旗振り通信の様子(風俗画報第172号「風俗奇談圖大津追分其二相場旗振り並に官林巡邏の圖」、国立国会図書館蔵)

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