「目指せ甲子園」──都立青鳥特別支援学校で野球に打ち込む知的障がい児たちの挑戦
スポーツ 教育 社会- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
ようやくたどり着いた戦いの舞台
2023年9月2日、東京・八王子市の球場で高校野球の試合が行われていた。秋季東京都大会の1次予選だ。
三塁側ベンチに陣取るのは連合チーム。メンバー不足のため単独ではチームを組めない松蔭大松蔭高校、深沢高校、そして青鳥(せいちょう)特別支援学校(以下、青鳥特支)の3校がタッグを組んだ。
八王子実践高校との一戦はワンサイドゲームに。連合チームは失点を重ね、0−22で5回コールド負けを喫した。
試合後、青鳥特支ベースボール部監督の久保田浩司さんは、苦笑交じりにこう話していた。
「実力校との対戦となると、どうしてもね。まあ、こんなもんですよ」
その表情には、負けた悔しさ以上に清々しさがにじむ。それもそのはず。教え子たちを高校野球の試合に出場させること自体が、30年以上の歳月をかけて成し得た特別なことだったからだ。
久保田さんが教職に就いたのは1988年の春。野球部の監督になり、高校球児の憧れの舞台である甲子園を目指す──そんな夢を思い描いていた。
ところが、大学卒業後の久保田さんが採用されたのは、知的障がいや身体障がいのある生徒たちが通う府中養護学校。「もう野球はできない」と考え、悶々(もんもん)としながら日々を過ごしたが、教師生活が3年目に入った頃に転機が訪れた。「野球クラブ」の顧問を任されたのだ。
「野球クラブ」とは名ばかりで、実際にはソフトボールが行われていた。当初は指導する気などなく、ろくにキャッチボールもできない生徒たちの姿をただ漫然と眺めていた。
そんな久保田さんのもとにダウン症の生徒が歩み寄り、こう言った。
「なあ先生、俺に投げ方教えてくれよ」
幼い頃から大学時代まで野球に熱中してきた久保田さん。ボールの握り方、ステップの仕方、腕の振り方を一つひとつ教え始めた。自然と指導に熱が入り、気がつけば1時間以上も経っていた。
その生徒がボールを投げられる距離はみるみる伸びた。「やったぞ!」。満面の笑みを浮かべ、小躍りして喜ぶ生徒の姿に久保田さんの心は大きく動く。
「この子たちだって、やればできる」
その後の久保田さんは、ソフトボールの指導に情熱を注ぐことになる。基本的なルールさえ理解していなかった生徒たちと粘り強く向き合い、個々の力を少しずつ伸ばした。指導を始めて2年目には、東京都の養護学校ソフトボール大会で優勝。翌年以降も連覇を重ねた。
ただ、久保田さんは満足しなかった。
「この子たちをもっと高いレベルに引き上げたい。よし、健常者のチームと勝負しよう」
最初は女子高校生のチームと試合を行い、0−21で完敗。内野安打1本で完全試合を免れはしたものの、力の差をまざまざと見せつけられた。その後も、さまざまな健常者チームに挑んでは大敗し続けたが、2006年についに悲願の初勝利を手にする。多摩地区の大会で、社会人チームに7−6で競り勝ったのだ。久保田さんがソフトボールの指導を始めてから17年目の快挙だった。
グラウンドの外にあった障壁
この経験を通して痛感させられたのは“壁”の存在だ。当時を振り返り、久保田さんは言う。
「一般の大会に出ることに対して、『この子たちが勝てるわけない』『何か(事故が)あったらどうするのか』という反応を示す学校関係者が多かった。それ以前に、健常者のチームと試合をしようと発想する人自体がいなかったですね。特別支援学校という世界の内側だけで全てが完結してしまっていた」
特別支援学校、あるいは障がい者を取り囲む“壁”。それは、外側にある社会が築いたというよりも、内側を管理する大人たちによって築き上げられていた。
ただ、勝利に貪欲で熱血漢の久保田さんにはそんな“壁”の存在など関係なかった。知的障がいのある生徒たちを引き連れて外に飛び出し、そこでまた学びを得た。
「対戦相手がね、障がい者だからって力を抜かずに真剣勝負してくれました。もちろんこっちはボロ負けです。でも、それが良かった。例えばピッチャー。特別支援学校同士の試合ではストレートだけ投げていれば抑えられたのに、健常者チームには打ち込まれる。相手チームのピッチャーが変化球を投げる様子も目にしますよね。すると試合が終わってから『自分も変化球を覚えたい』って考えるようになったんです」
バッターはバントを上達させる必要性を痛感し、チームとして勝つための作戦を練るようにもなった。ぐんぐん上手くなるわけではないけれど、少しずつ、着実に力をつけた。その努力の積み重ねが、社会人チームからの勝利に結びついたのだ。
「高い目標を掲げれば、障がいのある子どもたちだって成長していく。だから、指導者はちゃんと挑戦させる機会を与えなきゃいけないと思います」
障がい者も健常者も教育の本質は同じ。勝負に挑む権利は平等にある──。
そんな確信を得た久保田さんは、さらなる一歩を踏み出す。自分自身の夢でもあった高校野球への挑戦だ。
硬式球を使う野球は、ソフトボールよりもけがなどの危険性は高くなる。また、公式戦に出場するには各都道府県の高野連に加盟する必要があり、過去に高校野球の公式戦に出場した経験がある特別支援学校は、鹿児島特別支援学校の1校しかなかった。久保田さんがためらうことはなかったが、乗り越えるべき“壁”がこれまで以上に高いのも事実だった。
そこで久保田さんが考え出したのが、同じ夢を共有する人たちを巻き込むことだった。知的障がいのある生徒たちの甲子園挑戦を支援する団体「甲子園夢プロジェクト」を立ち上げ、2021年3月、記者会見を開いた。
「一緒に野球をやろうぜ! 甲子園大会の予選に出場しようぜ!」
記者会見の様子を伝える記事が出るなり、久保田さんの携帯電話に問い合わせの連絡が次々に入る。野球に興味を持ちながらもプレーする機会を得られずにいる子どもたちが大勢いた。
まずは彼らに野球ができる環境を提供することが第一の目的。合同練習会を月1回ほどのペースで開催してきた。同じ境遇の者同士で白球を追いかけられるだけでも彼らにとっては貴重な体験となっているが、中には練習会にとどまらず公式戦への出場意欲を明確に示す参加者も。
22年には、愛知県からプロジェクトに参加していた林龍之介君が連合チームの一員として夏の愛知県大会に出場。プロジェクトの仲間たちに背中を押される形で、「大会に出たい!」という夢をかなえたのだ。
甲子園予選出場への道のり
プロジェクトが発足した直後の2021年4月、久保田さんは東京都世田谷区にある青鳥特支に赴任した。6月には同校にベースボール部を創部し、野球がやりたい子どもたちを校内から集めて指導を開始。プロジェクトの活動と並行する形で練習を続けてきた。
22年12月には、青鳥特支として東京都高野連に加盟の承認を申請した。23年度には、創部当初1年生だった部員が3年生になる。最後の夏、甲子園予選に出るためには、このタイミングで承認を得るしかない。
特別支援学校の都高野連への加盟は前例がなく、調整には長い時間を要した。最終回答が出たのは、申請から半年ほども経過した2023年5月。青鳥特支の加盟を認める、というものだった。
ただし、喜ぶにはまだ早い。部員は全員を合わせても、軽度の知的障がいがある7人。大会に出場するには他校と連合チームを組む必要があった。
大会まで時間的猶予もなく途方に暮れた久保田さんは知人に相談。そこで深沢高校の野球部監督、宇野秀和さんを紹介された。深沢高校はもともと松蔭大松蔭高校との2校連合で大会に参加予定だったが、登録メンバーの上限20人まではまだ空きがあったのだ。
宇野さんからの返事は前向きだった。宇野さんにも特別支援学校での勤務経験があり、障がい者に対する理解があった。両校の部員たちからも、青鳥特支と共同でチームを組むことに異論は出なかったという。
こうして、青鳥特支の生徒が高校野球の公式戦に出場できる環境が整った。
青鳥特支にとっての初陣となったのが、夏の西東京大会2回戦。松原高校との試合は思いもよらぬ大熱戦になった。連合チームは2回裏に10点を失うも、直後の3回表に10点を奪い返す。激しい点の取り合いの末、最終スコア19−23で惜しくも敗れた。
青鳥特支からは、2年生の首藤理仁君が7番・右翼でスタメン出場。同じく2年生の白子悠樹君はベースコーチを務め、3年生の山口大河君は代打として出場した。
同じ3校で連合チームを組んで臨んだ秋季大会は、八王子実践高校に22点差の大敗。まだまだ課題は山積みだが、悲壮感とは無縁だ。
なぜなら、あの時と似ているから。
ソフトボールで初めて健常者に挑んだ時、女子高校生チームにこてんぱんにされた。その経験が起点となって初勝利にたどり着いた──。
障がいを持つ子どもたちにとって、今はまだ、甲子園は遥か遠くにある。その場所に立てる日が来るまで何年かかるのか、想像もつかない。
ただひとつ確かなことは、高校球児の聖地へと続く長い長い道の出発点に、彼らはもう立っているということだ。
バナー写真:秋季大会で0−22の敗戦を喫した後、記念写真に収まる青鳥特別支援学校のメンバーと久保田監督(右端) 写真:日比野恭三