『大吉原展』から考える―「江戸文化の集積地」吉原遊郭の歴史をいかに伝えるか

文化 社会 歴史

東京芸術大学美術館で開催される「大吉原展」(3月26日~5月19日)は、遊女たちの過酷な実情を無視した“エンタメ”に終始するのではないか。一部でそんな批判がある。本展の企画意図と見どころを、田中優子法政大学名誉教授と芸大美術館の古田亮教授に聞いた。

江戸吉原の二面性

「遊郭は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」

江戸文化の研究者・田中優子法政大学名誉教授は、そう明言する(『遊郭と日本人』、2021年)。ジェンダーの視点から見れば、遊郭は家族の借金のかたとして女性が遊女として働き、病や暴力の危険に常にさらされていた性的搾取の場以外の何ものでもない。

一方で、幕府公認の吉原遊郭は、江戸時代の文化の基盤であり、日本文化の集積地でもあった。その歴史はしっかりと伝えていくべきだとも田中氏は指摘する。

吉原ガイド本の出版で知られるようになった蔦屋重三郎(蔦重)のプロデュースにより喜多川歌麿などの浮世絵、洒落(しゃれ)本、狂歌など出版文化が花開き、書、和歌俳諧、茶の湯から三味線と唄や舞踊といった芸能、着物や諸道具の工芸、年中行事など伝統文化を継承して洗練させ、遊びとして楽しんだ空間だった。

この二面性が、今日、吉原文化を伝える上で、大きなジレンマとなる。田中氏が学術顧問を務め、3月26日から東京芸術大学美術館で開催される「大吉原展」は、遊郭の負の側面を無視してエンタメ的な見せ方をするのではないかと、ネット上で開催前から批判を呼んでいる。

そもそも同展の企画にはどんな背景や意図があるのだろうか。

「演出空間」としての吉原

「これまで、喜多川歌麿から鳥文斎栄之(ちょうぶんさい・えいし)まで、浮世絵師をテーマにした展覧会は度々開催されています」と田中氏は言う。「でも、非常に長い間存続し、今では失われた吉原の“空間”をテーマにすることはありませんでした」

吉原遊郭(現在の台東区千束)は、約10万平方メートルの敷地に250年にわたり「贅沢(ぜいたく)に非日常が演出された虚構の世界」を創り上げた。人気マンガ『鬼滅の刃』などの舞台となり、その歴史は台東区の観光資源としても注目されているが、江戸当時の痕跡はほとんど失われている。

「今回の展覧会は、吉原という空間のありように焦点を当てています。江戸時代の吉原は、畑の中に碁盤の目状に道を配して人工的に作り出した空間です。当時としては見事な建築物が作られ、中央を貫く大通りには桜や季節の花が植えられました。女性を買うための男性ばかりでなく、花見に訪れる女性や子ども、地方からの観光客も多かったのです。街全体が“しつらえ”(空間演出)の下で文化の集積地になっている場所は、恐らく世界でも類がありません。展示もそうした空間の雰囲気を伝える工夫をしています」

花魁の「品格」

「出品される絵の多くがにぎわいの空間を描き、見ているだけでさまざまな声や音が聞こえてくるようです。おしゃべりをしている様子や、三味線と唄に舞、宴会の場面などが細かく描き込まれています」と田中氏は解説する。

「着物の柄、着重ね方、かんざしと髪型のつりあいなどを丁寧に描き、女性のセンスの良さを表現しました。また、遊女の豪華な装いを見ると、当時の職人がその技を最大限に発揮して作っていることが分かります」

浮世絵師が描こうとしたのは、遊女の似顔絵や裸体ではない。「絵師たちが遊女の“品格”を描いていることをぜひ感じ取ってほしい。江戸時代初期、俳人・浮世草紙作者の井原西鶴が大坂(※1)の遊郭を舞台に、毅然とした遊女たちの姿を文章で描きました。後期になると、江戸の浮世絵師たちが、遊女の品格を絵にすることで自らの美意識を表現したのです」

左:鳥文斎栄之《畧六花撰 喜撰法師》(寛政8-10年(1796-98)頃/大英博物館 ©The Trustees of the British Museum)  右:渓斎英泉《新吉原全盛七軒人 松葉屋内粧ひ にほひ とめき》(文政(1818-30)後期 /山口県立萩美術館・浦上記念館)
左:鳥文斎栄之《畧六花撰 喜撰法師》(寛政8-10年(1796-98)頃/大英博物館 ©The Trustees of the British Museum)  右:渓斎英泉《新吉原全盛七軒人 松葉屋内粧ひ にほひ とめき》(文政(1818-30)後期 /山口県立萩美術館・浦上記念館)

遊女の最高ランクである花魁(おいらん)は、美貌やセンスの良さはもちろん、三味線など楽器を弾きこなし、お茶、お花もできて、教養があり、大名や豪商を完ぺきにもてなせる女性という理想化されたイメージだ。「実際の遊女たちも、その理想像に近付こうと意識していたかもしれません」

喜多川歌麿《納涼美人図》(寛政6-7年(1794-95)頃/千葉市美術館)
喜多川歌麿《納涼美人図》(寛政6-7年(1794-95)頃/千葉市美術館)

出版文化を育んだ場所

幕府公認の遊郭は、京都や大坂などにもあり、「好色一代男」など、西鶴の著述の舞台にもなっている。だが、18~19世紀を通じてもっとも文芸と深く関わったのは江戸吉原だった。

「まさに、文学が生まれた場所でした。遊郭に出入りしている人たちの中には、戯作者の山東京伝や浮世絵師がいましたし、蔦重の出版社などを通じて、ジャンルを超えたネットワークも生まれました」(田中氏)

「例えば、浮世絵師と文学者が知り合い、お互いに協力して作品を生み出しました。彫り師と摺(すり)師など、印刷職人とも、出版社を通じてつながります。吉原大門の手前にあった蔦屋の店先がそういうネットワークづくりに使われただろうということは容易に想像できます」

歌川国貞《青楼遊廓娼家之図(青楼二階之図)》(文化10年(1813)/大英博物館 ©The Trustees of the British Museum)
歌川国貞《青楼遊廓娼家之図(青楼二階之図)》(文化10年(1813)/大英博物館 ©The Trustees of the British Museum)

江戸絵画が描いた吉原の世界観

吉原では、年中行事の演出にも工夫が凝らされた。例えば旧暦7月(新暦8月)のお盆の時期には、茶屋(客に遊女を斡旋する店)に有名な画家や書家の手による灯籠がつるされ、町全体が美術館になる。

旧暦8月(新暦9月)に開催される「俄(にわか)」の祭は、1カ月続き、毎日「踊り屋台」が現れて、男芸者、女芸者衆の踊りと唄を楽しめた。

「仲之町通り(吉原のメイン通り)に沿って山車を出すので、吉原芸者たちの優れた芸を、誰でも見ることができました」(田中氏)

中でも一番華やかなのは、桜の季節だ。仲之町通りの中央にある植え込みに、開花前の根付きの桜を用意して整然と移植し、散ると撤去する。江戸の植木職人の活躍があってこそ可能な仕掛けだった。

米ワズワース・アテネウム美術館から里帰りした『吉原の花』は、歌麿の肉筆画でも最大級の作品だ。桜を愛でながら宴会を楽しむ総勢52人の女性たちが描かれる。

喜多川歌麿《吉原の花》(寛政5年(1793)頃/ワズワース・アテネウム美術館)
喜多川歌麿《吉原の花》(寛政5年(1793)頃/ワズワース・アテネウム美術館)

だが、「特別な一点ではなく、作品をどう並べているか、その流れを見てほしい」と言うのは、東京芸術大学美術館の古田亮教授だ。「さまざまなイベントに彩られた吉原の春夏秋冬を感じ取ることができるはずです」

古田教授自身が興味を引かれたのは、吉原の桜並木を巡る変化だ。「ある時期まで、茶屋の前に無作為に植えられていたのに、いつ頃からか仲之町通りの中央に整然と並ぶようになりました。文献には記されていない変化です」

「今回集めてきた絵の制作年代から判断すると、寛政5年前後、ちょうど『吉原の花』が描かれたころにシステムが生まれているようです。自治が機能していて、街全体で合意に達したのでしょう。その結果として、寛政年間、蔦重や歌麿が活躍したころに、華やかな桜並木が登場するようになったのだと思われます」

古田教授によれば、250年の歴史の中で吉原のシステムは変遷しているが、系統だって検証できる文献史料はない。「だからこそ、今となっては二度と見られない世界を、美術作品を通じて再発見したかったのです」

花魁の実像

実在した花魁は、どんな人たちだったのか。

「実像が分かる資料はありません。例えば『遊女評判記』は、この人は才能があって美しい字を書くなどと記していますが、性格までは分からない。浮世絵は、絵師の個性、歌麿なら歌麿ならではのスタイルで遊女を描くので、そこにリアルな個人は見いだせない。だからこそ妓楼と花魁の名前を記したのです。西洋だったら、リアリズムを重視して、もっと誰だか分かる絵にしてくれと言われるのではないでしょうか」(古田)

浮世絵と対照的なのが、明治時代初期に高橋由一が描いた『花魁』だ。

高橋由一《花魁》(明治5年(1872)/東京藝術大学)。右は同人物を描いた落合芳幾《よし原十二ヶ月のうち 文月 稲本楼小稲》(明治2年(1869)/山口県立萩美術館・浦上記念館)
高橋由一《花魁》(明治5年(1872)/東京藝術大学)。右は同人物を描いた落合芳幾《よし原十二ヶ月のうち 文月 稲本楼小稲》(明治2年(1869)/山口県立萩美術館・浦上記念館)

「初めて油絵で遊女を描いた作品で、稲本楼の花魁、4代目小稲(こいな)の肖像画です。当時の『東京日日新聞』によれば、ある人が変わりゆく遊女の姿を油絵にとどめたいと、由一に依頼したそうです」と古田教授は解説する。

「髪型は、廃れつつあった下げ髪をわざわざ結わせたのでしょう。しかも、やや乱れた感じで描かれている。由一という人は、ちょっと崩れたところを描きたがる傾向があり、それが彼のリアリズムでした」

花魁の表情は硬く、疲れたようにすら見える。由一の弟子によると、完成品を見た小稲は、「わちきはこんな顔ではありんせん!」と泣いて怒ったそうだ。

江戸と現代をつなぐ問題意識

由一の「花魁」が描かれてから半年後の1872年10月、明治政府は娼妓解放令を発布する。西洋諸国から遊女の人身売買を批判されたことが背景にある。かといって、遊女が消えたわけではなく「自由意思」で営業していた。しかし、西洋化に伴う価値観の強烈な変化によって、江戸の吉原文化は急速に失われていった。

「遊郭には遊女たちのつらい現実があったことを忘れるべきではありません。今日の価値観では絶対に許されない制度です。それを踏まえた上で、吉原の江戸文化の発信地としての歴史は伝えていきたい」と古田教授は言う。「独特な虚構の世界が250年続いた背景には、それを可能にしたさまざまな人たちの膨大な創造的エネルギーが凝縮されていたのです。そのことを知ってほしい」

一方、田中氏は、吉原文化を伝える際には、必ず「二つの事実」を併記するべきだと言う。

「吉原は、ありとあらゆる演出を駆使した演劇的空間であり、それを外の社会に伝えることを通じて、出版文化が花咲きました。世界に誇れる芸術である浮世絵がそこから生まれたことは事実です」

「それと同時に、借金に縛られた遊女たちがいなければ、遊郭は成り立たなかったことも事実です。幕府公認の遊郭で、幕府は“秩序の乱れ”は取り締まっても、遊女の人権は守りませんでした。明治時代になるまで、人権の概念は存在しなかったのです。人権思想がなかった時代の文化を、そのまま肯定的に受け入れることはできません」

「翻って、現代日本の格差社会で女性たちの人権は十分に守られているのでしょうか。『大吉原展』を機に、私自身、女性の人権について発信していきたい。本展が、日本文化の基盤となった稀有な空間について学ぶ機会になると同時に、問題意識を新たにするきっかけになればいいと願っています」

バナー:喜多川歌麿《吉原の花》(部分) 寛政5年(1793)頃/ワズワース・アテネウム美術館(Wadsworth Atheneum Museum of Art, Hartford. The Ella Gallup Sumner and Mary Catlin Sumner Collection Fund)

(※1) ^ 本文中では江戸時代の「大坂」を使用

浮世絵 江戸時代 吉原 遊郭 蔦屋重三郎 歌麿