歌麿・写楽を世に送り出した男 : 江戸のヒットメーカー蔦屋重三郎

歴史 経済・ビジネス エンタメ 美術・アート

2025年のNHK大河ドラマ主人公として注目を浴びる蔦屋重三郎は、江戸後期にベストセラーを連発したカリスマ出版人だ。今なお“蔦重”の愛称で親しまれる男は、いったいどんな本を世に送り出したのか。功績を追ってみよう。

原点は吉原大門の貸本屋

蔦屋重三郎(蔦重 / つたじゅう)は、江戸の地本問屋を経営し、相次いでヒット作を刊行した編集・出版プロデューサーである。

地本問屋は寛文期(1661〜73年)頃に成立した今でいう出版社で、当時は版元と呼んだ。板株(いたかぶ / 本を刷る板木を所有し出版できる権利)を持ち、娯楽性の強い本の企画・制作・販売まで一括して行った。こうした出版業者たちが組合を組織し、元の本の出版権を侵害することを互いに禁止していた。そうしないと、海賊版の横行につながったためである。この組織を「本屋仲間」といった。

江戸で版元を商うには本屋仲間に加入しなければならなかったが、蔦重は当初、吉原の大門の手前にある五十軒道で貸本・小売を生業とする一介の本屋にすぎず、吉原の妓楼や遊女のガイドブック「吉原細見」(よしわらさいけん)を販売していた。

それが安永3(1774)年、細見の板株を手にし、版元の仲間入りを果たす。さらに天明3(1783)年からは、細見の出版を独占する。

蔦重の細見はそれまでにない内容だった。初の刊行物『一目千本』(ひとめせんぼん)は、遊女の評判を木蓮(もくれん)や山葵(わさび)などの挿し花にたとえて紹介した実用性のない擬細見(細見まがい)といった内容で、一般大衆には無用だったが、その豪華な作りは吉原の得意客や妓楼・遊女には好評だった。おそらく制作費も彼らが出資したと考えられる。

蔦重最初の出版物『一目千本』は、挿し花を遊女にたとえた斬新な1冊だった。安永3年。国文学研究資料館所蔵
蔦重最初の出版物『一目千本』は、挿し花を遊女にたとえた斬新な1冊だった。安永3年。国文学研究資料館所蔵

右に吉原大門、左に中之町に並ぶ妓楼を記した吉原細見『五葉松』。これ以降、蔦重は細見の出版を独占する。天明3年。国立国会図書館所蔵
右に吉原大門、左に中之町に並ぶ妓楼を記した吉原細見『五葉松』。これ以降、蔦重は細見の出版を独占する。天明3年。国立国会図書館所蔵

つまり、蔦重は吉原の「お抱え本屋」としてリスクの少ない事業からスタートしたのである。彼の優れたビジネスセンスを物語っているといえよう。

一方、数年後には、入れ替わりの激しい遊女の在籍情報を正確に把握し、実用的にも優れた『五葉松』(ごようのまつ)を刊行している。そもそも吉原の勤め人を父に持っていたため、人縁・地縁を元にした情報収集力に強みがあった。

蔦重は政治改革や武士を強烈に風刺する出版物を得意とした、反権力メディアの象徴のように語られるが、実は時代の空気を読み、商売上手で、かつ提供する情報が緻密だった。それこそが、彼の真骨頂だった。

娯楽本のジャンルで無類の人気

天明3年、蔦重は吉原から大手地本問屋が軒を連ねていた日本橋通油町(中央区日本橋大伝馬町)に移転し、耕書堂を開店。ここからさらなる快進撃が始まる。

葛飾北斎画『画本東都遊』(えほんあづまあそび)に、耕書堂が描かれている。これは1802(享和2)年の作品で、蔦重死後の模様と考えられる。国立国会図書館所蔵
葛飾北斎画『画本東都遊』(えほんあづまあそび)に、耕書堂が描かれている。これは1802(享和2)年の作品で、蔦重死後の模様と考えられる。国立国会図書館所蔵

江戸後期は庶民の識字率の高さもあって、本は人気の娯楽だった。当時のジャンルは、学者や研究者が読む儒学や地誌などの学術書(こうした本は書物問屋が扱い地本問屋とは区別された)の他、戯作(げさく / 通俗小説)、狂歌本(きょうかぼん)・草双紙(くさぞうし)・絵本・洒落本(しゃれぼん)など、娯楽本が多岐に渡っていた。
蔦重制作の本は、学術書以外の分野で無類の人気を誇った。

蔦重が得意としたのは、まず狂歌だ。滑稽をテーマとした五・七・五・七・七の短歌のことで戯れ歌(ざれうた)ともいい、天明期に爆発的なブームを巻き起こしていた。この狂歌に絵を合わせたのが狂歌本である。

狂歌本『吉原大通会』の中で、人気狂歌師が一堂に会したという設定の絵。狂歌師はみな変装しているが、蔦重(左下)だけは普通の着物姿/ 国立国会図書館所蔵
狂歌本『吉原大通会』の中で、人気狂歌師が一堂に会したという設定の絵。狂歌師はみな変装しているが、蔦重(左下)だけは普通の着物姿/ 国立国会図書館所蔵

蔦重は手柄岡持(てがらの・おかもち)、恋川春町(こいかわ・はるまち)の2人の人気狂歌師を起用した本をヒットさせた。手柄岡持は秋田藩江戸藩邸の留守居役、恋川春町は駿河小島藩の江戸詰だった。つまり2人は武士である。身分にこだわらない交流が、蔦重の特徴だった。蔦重本人も「蔦唐丸」(つたのからまる)という狂歌師であり、互いを認め合うことができた。

絵本には、葛飾北斎(かつしか・ほくさい)や喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)の起用が光る。名所絵に長けた北斎、写実的な画技を持った歌麿は、蔦重の出版物に雅な雰囲気を加味した。

『絵本 潮干のつと』は、写実的な歌麿の絵を挿絵とした豪華な1冊だ。天明8年。国立国会図書館所蔵
『絵本 潮干のつと』は、写実的な歌麿の絵を挿絵とした豪華な1冊だ。天明8年。国立国会図書館所蔵

そして、蔦重といえば草双紙の黄表紙(きびょうし)である。草双紙には主に子ども向けの赤表紙、浄瑠璃や歌舞伎をテーマとした黒・青表紙、大人向けの読み物で知的な笑いにあふれた黄表紙があり、蔦重は黄表紙に定評があった。

実に痛快な風刺を利かせていた。

代表作は寛政元(1789)年刊、恋川春町・作、北尾政美(まさよし)・画の『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)だろう。

時は老中首座・松平定信が主導する寛政の改革期(1787〜93年)。倹約・秩序を掲げて社会を厳しく統制し、出版も軽薄に時事問題を取り上げることを禁止していた。武士には武道への精進を厳命した。その真っ只中、なんと武士の馬術とは「女性に乗ること」と揶揄(やゆ)し、倹約など無視して遊びほうける武士がいるではないか——と、皮肉ったのである。

この著作を理由に、恋川春町は幕府から出頭を命じられるが、直後に死亡。自殺したとの説もある。

『鸚鵡返文武二道』は強烈な風刺と皮肉に満ちている。寛政元年。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『鸚鵡返文武二道』は強烈な風刺と皮肉に満ちている。寛政元年。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

寛政3(1791)年には、洒落本が取り締まりの標的となった。洒落本とは遊女と客の遊び方などを小説風に描いたもので、山東京伝(さんとう・きょうでん)の作品が風紀を乱すと摘発の対象となった。京伝は手鎖50日の刑罰、蔦重も財産の一部を没収された。

だが、蔦重はその後も画期的な作品を世に問う。

歌麿と写楽、2つの個性

財産一部没収の後、蔦重が大々的に売り出したのが喜多川歌麿の女性画である。
『婦女人相十品』『婦人相学十躰』は、市井の女性の上半身をクローズアップし、歌麿が観相家となって流行の人相占いをする斬新な試みだった。胸をはだけたエロティックな姿の女性もいて、これによって歌麿は一躍時代の寵児となる。

歌麿画『婦女人相十品』の1つ、「ポッピンを吹く女」。町娘の豊かな表情に魅かれる。寛政4〜5年頃。出典:colbase
歌麿画『婦女人相十品』の1つ、「ポッピンを吹く女」。町娘の豊かな表情に魅かれる。寛政4〜5年頃。出典:colbase

次は東洲斎写楽だ。

寛政6(1794)年、正体不明の絵師として登場した写楽は、10カ月間に約140点の役者絵や肖像画を描いた。役者絵とは当時のブロマイドだが、写楽は「大首絵」といって、目力に焦点を当てたところに特徴があった。それまでの絵と一線を画し、迫力満点だった。作品はすべて蔦重のプロデュース。つまり独占契約だった。

写楽画『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』。首絵の代表作。江戸兵衛は歌舞伎の強盗の役で、にらみつけるような凶悪な眼差しが迫力満点。寛政6年。出典:colbase
写楽画『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』。首絵の代表作。江戸兵衛は歌舞伎の強盗の役で、にらみつけるような凶悪な眼差しが迫力満点。寛政6年。出典:colbase

写楽は寛政7(1795)年正月、忽然と姿を消した。以降の作品は確認できていない。
正体は徳島藩蜂須賀家のお抱え能役者だった斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろべえ)との説が有力だが、江戸最大の謎としていまだにはっきりしない。

一方の幕府は、松平定信が失脚した寛政5(1793)年以降も規制を緩めなかった。相次ぐ圧力に加え、写楽の絵の出版が途絶えては、さすがの蔦重も創作意欲が失ったのか、寛政8(1796)年、ついに病に倒れる。翌年5月6日死去。死因は脚気だったと伝わる。享年48歳。

版元として初の本を刊行して23年、疾風のように駆け抜けた生涯だった。浅草の正法寺に墓所跡の碑が残る。

〔参考文献〕

  • 別冊太陽『蔦屋重三郎の仕事』 / 平凡社
  • 『新版 蔦屋重三郎』鈴木俊幸 / 平凡社
  • 『図説江戸5 江戸庶民の娯楽』監修:竹内誠 / 学研

バナー画像 : 山東京伝著の黄表紙『箱入娘面屋人魚』の巻頭に登場し、口上を述べる蔦重 / 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

浮世絵 吉原 北斎 蔦屋重三郎 写楽 歌麿