晩白柚(ばんぺいゆ)と台湾、そして島田弥市:一人の技師が結んだ台湾と熊本

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片倉 佳史 【Profile】

熊本県八代市の特産・晩白柚(ばんぺいゆ)は、人間の頭ほどもある巨大さが特徴。世界一大きい柑橘としてギネスにも登録されている。その歴史には台湾と深い関わりがあった。

熊本県特産の巨大な果実

晩白柚(ばんぺいゆ)はザボンの一種で、別名は白肉ザボン。台湾では「白柚」と呼ばれている。その特色はとにかく大きいことに尽きる。直径は約20センチ、重量は2キロ程度で、子どもや女性の頭よりも大きいほどだ。中には直径25センチまで巨大化するものもある。

ザボンと同様、果汁は少なめだが、果肉には程よい弾力がある。また、保存がきくことも特色で、収穫から1カ月近く置いておくことが可能だ。一般的に果物は採れたての新鮮なものが喜ばれるが、晩白柚は収穫から一定期間を置くことでおいしさが増す。香りが強く、食べ頃になるのを待つ間、部屋は甘酸っぱい芳香で満たされる。

熊本県が国内生産の96%を占め、中でも県南部の八代市の特産品として知られる。

熊本県の八代と鹿児島県の川内(せんだい)を結ぶ肥薩おれんじ鉄道の車両に描かれたロゴ。数ある柑橘類の中で最も大きいのが晩白柚である
熊本県の八代と鹿児島県の川内(せんだい)を結ぶ肥薩おれんじ鉄道の車両に描かれたロゴ。数ある柑橘類の中で最も大きいのが晩白柚である

島田弥市という農業技師の軌跡

晩白柚の収穫期は冬で、贈答品としても人気がある。その歴史をひもといていくと、台湾とのつながりが見えてくる。

この果物を語る上で、島田弥市という植物学者の存在は欠くことができない。島田は台湾総督府の農業技師で、台湾滞在は40年におよぶ。台湾で発見した植物は変種を含むと実に38種に上り、椪柑(ポンカン)を台湾北部に定着させたことや、台湾原生種の木麻黄(もくまおう)で沿岸防風林の整備をしたことでも知られている。台湾の農業史上、重要な人物の一人である。

島田は熊本県八代に生まれ、熊本県立農業学校に進んだ。卒業後は同校教諭であった川上瀧弥の植物病理学研究室に勤務。川上もまた、台湾で活躍した植物学者で、初代台湾総督府博物館の館長を務めた人物である。

1904(明治37)年3月1日、島田は台湾総督府農事試験場に雇われ、水稲や甘藷(かんしょ)の農場試作と気候観測の任務を与えられる。翌年からは台湾重要農作物調査の担当者となり、全島各地をくまなく歩いた。その後は台湾総督府殖産局農務課勤務となり、一般農務農業統計担当者となった。

1919(大正8)年1月31日、島田は農事視察のために英領マレー・ビルマ、シャム(タイ)、フランス領インドシナ(ベトナム)など東南アジアを訪問。船内の食事でこの果物と出会い、そのおいしさに心を奪われたという。その後の行動は早く、インドシナのサイゴン植物園を視察した際に種苗を分けてもらい、台湾に持ち帰った。

島田弥市は長きにわたり台湾の農業開発に携わった。椪柑(ポンカン)や桶柑(タンカン)の研究でも知られ「無類の果物好き」を公言していたと伝えられる。『新竹大観』より転載
島田弥市は長きにわたり台湾の農業開発に携わった。椪柑(ポンカン)や桶柑(タンカン)の研究でも知られ「無類の果物好き」を公言していたと伝えられる。『新竹大観』より転載

在来種のザボンとの競合

島田は台湾に戻ると、栽植地として台北郊外の士林園芸試験支所を選ぶ。ここで研究に研究を重ねたが、この時に大きな役割を果たしたのが台湾総督府中央研究所の桜井芳次郎技師だった。桜井は熱帯果樹の専門家で、台湾の果樹栽培に数々の功績を残している。島田が台湾に持ち込んだ苗木はわずか5本だったという。桜井はこれをもとに果実の特性を調査し、台湾の気候に則した栽培方法を探っていった。

当初は大きいために果実そのものの重さで幹が折れてしまったり、枝にトゲがあるため果実を傷つけてしまったりと、定着させるまでの道のりは困難の連続だったと桜井は回想している。特に台湾の場合、在来種がすでに南部に定着しており、新種の普及は容易ではなかった。

ザボンは結実するまでに長い時間を要し、通常は6~7年、本格的な収穫までは10年を要する。これは晩白柚についても同様だが、通常のザボンに比べ、やや遅れて熟する。そのため、出荷時期を重ねずに搬出できるメリットがあった。

晩白柚の収穫期は在来種の収穫が終わる12月から翌年春までである。これにちなんで、「晩生(おくて)白肉柚」と呼ばれるようになった。そして、1926(大正15)年には桜井技師によって「晩白柚」と命名された。

台湾総督府中央研究所士林園芸試験支所は現在、士林官邸公園となっている。1996年に一般開放され、市民の憩いの場となっている
台湾総督府中央研究所士林園芸試験支所は現在、士林官邸公園となっている。1996年に一般開放され、市民の憩いの場となっている

新渡戸稲造博士による農業開発論

日本統治時代における農業研究は積極的に進められていた。新領土である台湾は日本と異なる気候帯に属し、土壌なども異なる。当然ながら、台湾の地に則した農業が求められ、各方面から研究が進められた。

具体的には、農法の研究や新品種の導入、既存品種の改良、肥料の研究、害虫駆除など多岐にわたるが、軸となっていたのは生産の安定性を高めることと、収益性を向上させることの2点だった。これは農政学者・新渡戸稲造に始まるものである。

新渡戸は後藤新平民政長官に請われて台湾の農業開発について各種提言をしている。1901(明治34)年5月14日に台湾総督府殖産課の責任者となり、9月には『糖業改良意見書』を提出。その内容は製糖産業を戦略的産業として位置付け、政策的に発展させていくというものだった。

これは「農商工鼎立併進論」と呼ばれるもので、農業そのものを国家の産業政策に組み込み、公的資金による研究を積極的に行なった上で、農業の工業化を図る。その後はさらに商業化を進めて外貨の獲得に結び付けるというもの。主軸となったのはあくまでも製糖産業だったが、果物類もこれに準じる形で扱われた。

晩白柚についても、公費による研究成果を活かして生産の安定化を図り、集約的園芸農業が実施された。そして、将来を見据え、日本本土や諸外国への搬出・輸出も考慮されていた。つまり、晩白柚をはじめとする果物類もまた、新渡戸が描いた農商工鼎立併進論に沿って発展していったのである。

特に大正期以降は南洋方面への視察が盛んに行なわれ、これは主に果物が対象だった。島田の東南アジア視察も晩白柚のほか、マンゴーやパイナップル、オレンジなどが研究対象となっていた。これは半年以上にわたるもので、台湾総督府の期待の大きさがうかがえる。

台湾ではザボンを「柚仔」と呼ぶ。弱アルカリ性土壌を好み、酸味が弱くなる。台湾では台南市の麻豆が産地として知られている
台湾ではザボンを「柚仔」と呼ぶ。弱アルカリ性土壌を好み、酸味が弱くなる。台湾では台南市の麻豆が産地として知られている

熊本県南部の特産品に成長する

その後、晩白柚は順調に評価を高め、台湾南部の平地を中心に栽培が奨励されていった。注目されたのは樹が丈夫で、水害や干ばつに強かったことである。そして、単価が高く、結実する個数が多いことから収益率も高かった。1935(昭和10)年の日本学術協会報告(第10巻)によると、昭和8年の時点で、苗木の総数は20万本に達しており、台湾南部において重要な地位を占めていた。

さらに、味の良さだけでなく、保存性の高さが注目された。しかも、熟せば熟すほど、甘みと酸味が絡み合っていくので、好みに合わせて食べ頃を判断できるという長所があった。

島田や桜井らの尽力で台湾に定着した晩白柚は、1930(昭和5)年には日本本土に移出されることとなった。一般に柑橘類は乾燥地を嫌うが、ザボン類は比較的乾燥に強いことから、当初は鹿児島県の果樹試験場に株が持ち込まれた。しかし、火山灰の堆積によって形成されたシラス台地は酸性土壌で、甘みが弱かった。そのため、より適した栽培地として熊本県南部が選ばれた。1935(昭和10)年のことだった。

八代周辺ではザボンがすでに栽培されており、受け入れる土壌はあった。この時もやはり晩白柚の収益性の高さが注目されたという。果肉がはがれやすく、食べやすいことも評判となり、消費量は増えていった。

戦後を迎え、台湾との関係が切れてしまった後も品種改良は続けられた。そして、1960年頃には在来種と晩白柚の生産量は並ぶようになる。また、他の土地では栽培事例が少なかったこともあり、八代の特産品として知られるようになった。

余談ながら、台湾では果肉をそのまま食べるのが一般的だが、日本では皮のほろ苦さを生かした砂糖漬けやジャムなどの加工品も人気。また、八代市の日奈久(ひなぐ)温泉では巨大な晩白柚を浮かべる「晩白柚風呂」が冬の風物詩となっている。

2023年1月31日、この果実にまつわるニュースが流れて話題となった。八代産の晩白柚がギネス記録を更新したのである。重量は5550グラム。実は2021年、八代産の晩白柚は「世界一重い果物」としてギネス認定を受けていたが、その記録を塗り替えたことになる。

その晩白柚は八代市東陽町地区で収穫されたものだった。奇しくも、東陽町は島田技師の生まれ故郷。島田は晩白柚のほかにも、さまざまな農作物と関わりを持ったが、人生で最も長く付き合ったのは晩白柚だったと言えるだろう。島田が東南アジアから持ち込んだ晩白柚は、今も台湾と八代に根付き、特産品として親しまれている。

知られざる台湾と日本の交流秘話である。

台湾の街角で見かけるフルーツ専門店。日本統治時代、多岐にわたる農業開発が進められた。外来種の導入も盛んだった
台湾の街角で見かけるフルーツ専門店。日本統治時代、多岐にわたる農業開発が進められた。外来種の導入も盛んだった

写真は全て筆者撮影・提供

バナー写真=熊本県南部・八代市の特産品晩白柚(手前)。大きさと重さに圧倒される

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    台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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