九大キャンパスで発見された100年前のニホンアシカの剥製 : 忘れ去られた悲劇の海獣を追う(前編)
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高層ビルの屋上で泳ぐアシカ
10年ほど前に訪れた都心の水族館で、屋上に設置されたドーナツ型の水槽の中をアシカが泳いでいるのを見た。大海原で悠然と泳ぐはずのアシカが、高層ビルと青空を背景にして狭い水槽で泳がされている。シュールな光景に違和感を覚えたことが、それまでは興味もなかったアシカについて調べるきっかけになった。
アシカは、同じ鰭脚(ききゃく)類のアザラシに比べて陸上での運動能力が高い。ヒレを四肢のように使って歩くだけでなく、拍手したり、逆立ちなど曲芸をしたりと、賢くてユーモラスな水族館の人気者だ。
かつて、日本近海のカムチャッカ半島、千島列島、樺太、朝鮮半島沿岸から日本列島の沿岸各地にまでニホンアシカが生息しており、明治の半ば頃までは、東京近辺では房総や三浦半島、伊豆諸島にもいたことを知り、とても驚いた。さらに、江戸時代の絵師・長谷川雪旦が描いた「海驢(アシカ)」の絵姿に、すっかり魅了された。
ニホンアシカは、明治以降の乱獲や、海洋環境汚染などにより、ほぼ絶滅に追いやられた。こんなに愛嬌のある姿の獣が、近年まで日本各地の海岸沿いに生息していたのに、今はもう、姿を見ることもかなわないとは、なんと残念なことだろう。
それ以来、かつて日本にアシカがいた痕跡を探し求めている。
あれこれインターネットで検索しているうちに、明治末期に福岡にあった水族館で飼育されていたアシカの剥製が、九州大学で見つかったという新聞記事にたどり着いた。どうやらニホンアシカらしいという。しかも、水族館の館長のひ孫にあたる人がホコリまみれだった剥製をクリーニングしたというエピソードにも心ひかれた。
今となっては、生きているニホンアシカを見ることはかなわないが、ニホンアシカと人々との間にどのような関わりがあったのかを少しでも知りたくて、いてもたってもいられず福岡に飛んだ。
キャンパス移転で発見された100年前の剥製
九州大学は施設の老朽化・キャンパスの分散立地等の課題を解決するために2005年から13年間をかけて、博多湾の東側にある箱崎地区から西側の伊都キャンパスへと移転した。
移転の最終段階にあたる18年の夏、キャンパスの近くのカフェ「箱崎水族館喫茶室」のオーナー・花田典子さんは、九大の関係者が「ホコリまみれの変な奴がいたんだよ」と言うのを耳にした。どうやら古い剥製らしい。「アシカだ!」とピンときたという。
花田さんの曾祖父・久保田知俊さんは、水産試験場に勤務した後、1910(明治43)年に開館した「箱崎水族館」の設立に関わり、2代目館長に就任。水族館の発展と教育に尽力し、1935(昭和10)年の閉館まで、館長を務めた。
「水族館」が実在した記録と記憶をとどめたい
花田さんが「箱崎水族館喫茶室」を開業したのは、2009年のこと。既に、九大のキャンパス移転は決定していたが、かつては福岡の代表的な海浜リゾートであり、九大と共に成長・発展した町の歴史を伝えたいという思いから、あえて、箱崎の地を選んだ。
店の名は、曾祖父が館長だった水族館にちなんだものにした。「水族館のことをもっと知りたいと思ってネットで検索すると“幻の水族館” “本当にあったのか?”と記録からも記憶からも消えてしまいそうな状態だった。最後の情報を持っているのは私かもしれない、ちゃんと発信しなきゃと思った」という。
名前のおかげもあり、情報は少しずつ集まってきた。
花田さんは、家族から水族館の人気者だった2頭のアシカの剥製を地元の小学校と九大に寄贈したと聞いていた。
小学校の校舎が改修になると知り、アシカの剥製をひと目見たいと思ったが、その時点で、すでに処分されてしまっていた。花田さんは、「九大にある剥製は、絶対に廃棄させるわけにはいかない!」と思い、アシカに関する情報を収集しながら、巡り合う機会を待ち続けていたのだ。だからこそ、「剥製が見つかった」という九大関係者の一言が耳に飛び込んできた。
早速、花田さんは、古びた剥製のクリーニング作業のボランティアに名乗りを上げた。ほこりや汚れを落としていくと、思っていたほどひどい状態ではなかった。「毛並みもちゃんとしていたし、なでたら気持ちいい。水族館で大切に飼育されていたという感じがした」と言う。「剥製の存在を知ってから、ずっと気になっていたし、ひ孫として責任も感じていたので、ほっとした」と愛おしそうにアシカを眺める。
箱崎水族館が開館した翌日の1910年3月25日付の福岡日日新聞は大水槽で飼育されていた2頭のアシカのことを報じている。「1頭は朝鮮産で体重約48キロ、よく人に慣れていて簡単な芸もする。もう1頭は樺太産で、捕獲されたばかりで気が荒く、蓋(ふた)の鉄棒に噛みつき、人が近づくとほえ、体重は約100キロ」とある。
九大で見つかった剥製が、水族館でいつ頃飼われていたアシカなのかという資料は残っていない。しかし、花田さんが収集した水族館の絵葉書には、姿形がこの剥製とそっくりなアシカの写真が使われていた。
全国に10体ほどしかない貴重な標本
アシカの剥製は、旧九州帝国大学工学部本館内に設置されている九州大学総合研究博物館に収蔵されている。現在は常設展示室など一部のエリアのみ公開中だが、年に1回程度の博物館公開日には一般の見学者もアシカの剥製を見ることができる。
九州大学総合研究博物館の丸山宗利准教授は、「100%の確信ではないものの、状況証拠や年代的にみてニホンアシカでまず間違いない」とみる。
現在、ニホンアシカと確認された剥製は国内に10体ほどしかない。「ニホンアシカだとすれば、きわめて貴重なもの。有志の方と協力しながら、今後、DNA解析やX線撮影などの詳しい調査を検討したい」と話す。
花田さんは「箱崎水族館喫茶室」で演奏会を開くピアニストの河合拓始さんに、アシカをテーマにした曲作りを依頼。歌詞の2番は自ら作詞し、「箱崎の自慢の博物館 アシカさんは今もいる わたし達みんなの宝物」と想いを込めた。4~5年後にリニューアルオープンする九大総合研究博物館が、歴史と未来をつなげる空間になってほしいと願っている。
福岡での取材後、改めて資料を探していると、箱崎水族館開館の1週間後の1910年3月31日付の福岡日日新聞は樺太産のアシカが30日に出産したことを伝えていた。さらに、「日本哺乳動物学会」の設立者の一人である黒田長禮著『日本獣類圖説』(1953)には、箱崎水族館で竹島産のアシカを飼育していたとの記述があった。
箱崎水族館が存在した25年の間に、何頭のアシカがいたのか、それぞれどういった経緯で水族館にやってきたのか今となっては確かめるのは難しい。九大総合研究博物館のメスのアシカの剥製が、朝鮮産か、樺太産か、それとも竹島産の個体だったのか。今後のDNA解析とニホンアシカの研究の進展に期待したい。
これまでに私が見た数体のニホンアシカの剥製の中でも、この個体は、とりわけ、優しく穏やかな表情をしているように感じた。しかし、撮影のために様々な角度から観察してみると、剥製の縫合の傷跡がとても痛々しく、泣いているようにも見えて切ない想いを抱いた。
絶滅に追いやられた悲劇の海獣
ニホンアシカは、生態や形態などが研究される前に絶滅に追いやられてしまった悲劇の海獣とも言われている。長く忘れ去られていた剥製が、キャンパスの移転をきっかけに発見され、ゆかりある花田さんの手できれいに“生き返った”のは奇跡だ。
今後はきちんと保存され、由来の調査や学術的な研究を尽くし、私たちがこの剥製の存在を介して絶滅危惧種や生物多様性について学べるように、広く一般に公開されることを願っている。
後編は こちら
バナー写真 : 箱崎水族館で飼育されていたメスのニホンアシカの剥製