
台湾伝説のバンカー、鄭世松が語る日台経済史の100年:前編
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日本と台湾は、外交関係を越えた間柄が過去から続いている。その過去をきちんと知れば、現状が理解できる。そこで、皆さんと一緒に過去を振り返ってみたい。なおタイトルは「100年」だが、実際には日本が台湾を領有した1895年から現在に至るまでのおよそ130年を指している。
前編では戦前の日本と台湾がどのような経済関係にあったのか、後編では今の日本と台湾の経済的な差は、戦後どのようにしてできたかを中心に伝えていく。
日本の国際収支の黒字化に貢献した台湾の砂糖
1868年の明治維新以後、日本の国際収支は大きな赤字状態にあった。それが黒字に変わったのは1910年代半ば、大正の初めのことだ。 台湾を経営して、砂糖やコメを作り、茶や樟脳(しょうのう)を輸出して、ようやく日本の国際収支が黒字に転換したのである。
その黒字転換の前後、1895年から1945年まで台湾は日本の統治下にあった。つまり台湾経済は日本経済の一部だった。当時の日本は、台湾を一つの国として発展させることは考えておらず、あくまで日本の一部として、日本経済を補助するコマとして台湾を統治した。 補助とは、日本ではできないが台湾ならできることをやった、という意味だ。それが戦前の形態だった。
台湾ならできたものとは何か。主にサトウキビ(砂糖)、コメ、茶、樟脳といった農産物である。戦前台湾における主要な輸出品目であり、これらが台湾経済の基礎を築いた。
第一は砂糖である。グローバルに取引される「世界商品」とも呼ばれ、17世紀以降に世界で大量に取引された。1894年、つまり台湾領有の前年、日本国内の「砂糖消費量は400万担に対し生産高は80万担」 (1担は60キロ)に過ぎず、残りは外国からの輸入に頼る状態にあった。
そこで台湾領有直後の1898年に砂糖に手を付けた。児玉源太郎が第4代台湾総督として赴任し、児玉の下で殖産興業への舵(かじ)をきったのが民政長官の後藤新平だ。その後藤のたっての依頼を受けて、台湾全島を見て回り、「糖業改良意見書」という台湾糖業政策の計画を立てたのが新渡戸稲造である。この意見書を元に糖業を組み立てるべく、日本からの資本投下で工場を建設、サトウキビの品種改良が重ねられた。
東アジアの砂糖生産の中核だったジャワ(インドネシア)と比べて台湾は生産費が高く価格競争力がなかった。そのため統治下の台湾で砂糖を生産しても日本市場ではジャワ糖が幅をきかせていた。
台湾総督府の働きかけで1899年に砂糖の関税が引き上げられると、ようやく台湾はジャワに対抗できるようになった。日本にとってもそれまで輸入頼みだった砂糖を領有する台湾で生産することで外貨の流出をくい止めることができるようになった。つまり、当時の国際収支の黒字化に台湾糖業は大いに貢献したのである。
コメの品種改良で台湾が食糧供給地に
次に、戦前台湾の経済基盤を築く大きな役割を果たしたのがコメである。
日本人が食べているコメはジャポニカ米といって丸みのある粒のコメだが、日本統治時代前の台湾では細長いタイプのインディカ米を食べていた。台湾内の食料はもちろん、対岸の中国へ輸出されていたものの、統治後はそれが日本へと向かうことになる。
最初は、台湾産のコメは「品質粗悪」 とされて、日本産のコメより随分と安かった。コメの生産量が飛躍的に伸びたのは1920年代以降。それまでも台湾各地の農業試験場で研究が重ねられていたが、この頃にインディカ米とジャポニカ米の交配に成功し、新しい品種として「蓬莱(ほうらい)米」が生まれた。この品種改良に加え、肥料の増加、灌漑(かんがい)設備の整備など、台湾農業における技術向上と開発投資によってコメの生産性が向上した。そして、増産分は、そのまま輸出あるいは日本への移出分となった。つまり、台湾は日本への食糧供給地と位置付けられていたのである。
輸出品の代表格は茶と樟脳
コメと砂糖が主に日本向けだったのに対し、日本以外の外国に向けて輸出された代表格が、茶と樟脳である。
領台当初はウーロン茶とジャスミン茶などの生産が主流だったが、1930年代になるとそれが紅茶へと移行した。 生産量の85%は輸出され、輸出先の大半は英国もしくは英国領だった。
樟脳といっても、知らない人も多いだろう。石油系のプラスチックが世界中で使われるようになったのは、第二次世界大戦より後のこと。それより前はセルロイドが用いられていた。このセルロイドの材料が、クスノキから取れる樟脳である。クスノキはもともと台湾に自生していて、それをまず精製して精錬し、樟脳として世界に売った。これが大変売れた。
こうした砂糖やコメ、茶や樟脳といった農産物を中心とした基本的な経済基盤は、日本が台湾を領土にしてから約25年で築かれたものだ。それから終戦までの25年で、その基盤がさらに強固なものとなった。
1939年に台湾は戦前期最高のGDPに
経済基盤が強固になれば、それに伴って所得も増加する。日本統治が始まったばかりの時期に、およそ600元だった台湾人1人当たりのGDPは、1939年には戦前期としては最高の1278元となっていた。
この前後の国際情勢はといえば、1931年に満州事変が起き、翌年に日本は満洲国の建国を宣言したが、それを受けて国際連盟総会では、1933年に満州からの撤退勧告案を可決した。そして日本は連盟を脱退。 こうした中、日本政府は農業経済が中心だった台湾でも工業の建設が必要だと考えた。そして製紙、織物その他の加工業を含む、軽工業を奨励するようになっていった。
なお、統治前から第二次大戦開始まで、日本と台湾の経済実績については、こんな数字がある。
日本とその旧植民地の経済実績比較(実質GDP年平均複利成長率)
1820-1870 | 1870-1913 | 1913-1941 | |
---|---|---|---|
日本 | 0.4 | 2.4 | 4.0 |
台湾 | 0.3 | 1.6 | 4.5 |
出典:アンガス・マディソン『世界経済史概観——紀元1年-2030年』岩波書店
1941年からは日本が第二次世界大戦に突き進んでいったため、台湾経済も停滞せざるを得なかった。
戦前日本による台湾の経営は、まず近代糖業に始まり、1920年代のコメの品種改良の成功で、それ以降はコメとサトウキビ(砂糖)の2大作物による経済基盤ができた。砂糖とコメは主に日本向けで、茶や樟脳といった特別な農産物は、海外に輸出された。このようにして台湾経済の実態は、半自給自足の閉鎖的な経済から、農業を通じた輸出を主体とする経済へと変わっていったのである。
兄弟のような関係
私は、日本と台湾は兄弟のような関係にあると考えている。1895年に兄弟の関係が始まり、近代化とともに台湾は日本化していった。両者をつなぐ大きな役割を担ったのが砂糖であり、コメである。台湾の農産物が日本の食を支え、国際収支の改善に大きく寄与した。その意味で、1945年までは兄弟関係が強化された時期ともいえる。
戦前の経済基盤は、戦後にも大きな影響を及ぼした。台湾は1949年から1960年までの急激な人口増加と厳しいインフレに見舞われるが、それを乗り越えられたのは、日本が台湾を経営してできた経済基盤があったからだ。そのあたりの話は次回、ご紹介しよう。(続く)
【参考文献】
- 鄭世松「百年来の台湾経済発展の軌跡」『交流』2014年11月号
- 隅谷三喜男他『台湾の経済』(東京大学出版会)
- 川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書(岩波書店)
- 矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店)
取材・構成=田中美帆
バナー写真=台湾のクスノキ。樹木から精製した樟脳を海外に輸出した(PIXTA)