ニッポン週刊誌史 : 週刊朝日101年で休刊―「知る権利」のコスト誰が負担?
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ザラ紙、スクープが命、派手な中づり広告…週刊誌の特徴
雑誌記者と新聞記者の相違は、前者が浅くとも何でも知っているのに対し、後者はせまいけれども知識の専門家であることである。更に「雑誌記者は自分のつくっているもののソロバンを知っているのに、新聞記者は金勘定を知らなくても、新聞がつくれる」ことである。
「文藝春秋」編集長を務め、文藝春秋の第3代社長になった池島信平氏が、自著『雑誌記者』(1958年、中央公論社)で述べたものだ。65年も前の見解だが、現代の週刊誌記者にもおおむね当てはまるように思える。
日本の総合週刊誌は、その紙質から「ザラ紙週刊誌」とも呼ばれる。今回休刊を決めた朝日新聞社が発行する週刊朝日(後に朝日新聞出版)と毎日新聞社のサンデー毎日(後に毎日新聞出版)が最も古く、1922(大正11)年に創刊し、今年で101年。「総合」の名の通り、政治・経済はもとより、犯罪、文化、芸能、スポーツなんでも扱う。
週刊誌は、いわゆる正規軍である新聞社やテレビ局が加盟する“記者クラブ”制度の外側にいる。それゆえに、記者クラブへの “出入り禁止” を恐れる必要がない。検察や警察、行政当局、政治家たちに忖度(そんたく)することなく記事を書き、常に、スクープを狙う。引きが強いネタがあれば、販売部数が増え、収益が上がるからだ。
週刊誌のもう一つの真骨頂が、カラーの派手な見出しが躍る電車内の中づり広告だ。今ではたいていの雑誌が経費削減のためにやめてしまったが、新聞広告で同様のものがモノクロで掲載されている。記事に少しでも興味を持ってもらおうと、毎週必死で作る編集者たちの知恵の賜物でもある。
1950年代から出版社系が次々創刊…「疑惑の銃弾」にヘアヌード
総合週刊誌の原形を作ったのは、1951~58年に週刊朝日編集長を務めた扇谷正造氏だといわれている。“週刊誌の鬼”とあだ名された扇谷氏は、戦後間もない47年に副編集長に就任すると、48年には作家・太宰治氏と共に入水自殺した山崎富栄氏の日記を入手し、掲載。雑誌は4時間ほどでたちまち完売した。スクープだけでなく、吉川英治氏の「新・平家物語」や徳川夢声氏の「問答有用」などの連載を開始、10万部ほどだった週刊朝日が54年には100万部を突破し、58年新年号では150万部を記録。まさに、黄金時代を築いた人物だ。
週刊朝日の成功を目の当たりにし、56年に“脱週刊朝日”を掲げ出版社系週刊誌として初めて創刊されたのが、週刊新潮(新潮社)だ。同じ年に週刊アサヒ芸能(徳間書店)、57年に週刊女性(河出書房、主婦と生活社)、58年に女性自身(光文社)、59年は週刊現代(講談社)、週刊文春(文藝春秋)と続いた。59年4月には当時皇太子だった上皇さまのご成婚もあり、「ミッチー(上皇后美智子さま)ブーム」で各誌の部数が急増。それから遅れて女性セブン(63年、小学館)、週刊ポスト(69年、同)が刊行された。
やがて、週刊朝日などの新聞社系週刊誌に対し、出版社系週刊誌の勢いが目立つようになっていく。週刊文春は、ロサンゼルスで起きた「三浦和義事件」を追った「疑惑の銃弾」(84年)で注目され、80年代後半からはスクープ路線にシフトしていった。
90年代は、週刊現代、週刊ポストがグラビアページにヘアヌード写真を掲載し、100万部を大きく超えた。しかし、オウム真理教による一連の事件や阪神・淡路大震災が起きた95年ごろが、総合週刊誌の部数はピークで、その後は減少傾向が続いている。
新聞も後追いする週刊誌の存在意義
95年には黄金期から部数を大きく減らし、50万部を切っていた週刊朝日は、すでに出版社系週刊誌に大きく水をあけられていた。その理由を朝日新聞OBがこう解説する。
「1950、60年代は地方に行くと、朝日新聞より週刊朝日の知名度のほうが高かった。新聞記者のボーナスは、週刊朝日など出版の利益から出ていたといわれた時代もあった。でも、朝日新聞社が発行している以上、週刊朝日は一定の品位を保たなければならなかった。どぎついスキャンダルやゴシップ、エログロは書けないし、ヘアヌードの掲載なんてとんでもなかった。あの手この手を繰り出してくる出版社系の週刊誌には部数では勝てなかった」
2000年前後から、総合週刊誌に逆風が吹き始める。名誉毀損(きそん)などで高額の賠償金を求められる訴訟が増えたのも一因だ。ガセネタや飛ばし記事など、週刊誌側の脇の甘さを突かれ、慎重にならざるを得なくなった。
そして、インターネットの台頭だ。ネットニュースが出てきたことで、「情報はタダ」という感覚が広がり、新聞同様、雑誌はどんどん売れなくなる。ほとんどの週刊誌が独自のサイトを立ち上げ、紙(雑誌)とネットの両輪で、収益を何とか確保しようとしている。だが、その多くは紙が売れていたころには及ばない。
それでも、週刊文春のようにスクープを出し続け、社会に大きな存在感を示している雑誌もある。政治家や権力者をターゲットとした “文春砲” は新聞やテレビがこぞって後追いし、何人もの政治家が大臣や党の要職を失ってきた。忖度しない週刊誌だからこそ、果たせる役割がまだあることが分かる。
ネットニュース台頭で「知る権利」のコストは誰が負担するのか
だが、ある総合週刊誌の元編集長は、メディアの現況をこう分析する。
「部数減にあえぐ雑誌業界では、今後も、休刊が出てきてもおかしくない。結局は、ネットニュースの記事の大半は、新聞や雑誌などが取材した記事の転載や流用、さらには、その記事を基にした論評などだ。とりわけ、新聞が書かない、書けないネタを扱う雑誌には意味がある。ネットニュース隆盛の中で見落とされているのは、雑誌に代わる新しいメディアが育っていないことだ」
確かに、ネット上には情報が氾濫しているようにみえる。しかし、当事者にウラを取らないガセネタ、取材すらせずに臆測だけのフェイクニュースも多く紛れ込んでいる。昨今のまともな総合週刊誌であれば、ウラを取るのは当たり前だ。もちろん、各雑誌やそれぞれの記事の評価は分かれるかもしれないが、雑誌が一つなくなれば、それだけ多くの情報を失うことを意味する。先の元編集長は、根本的な問題も投げかける。
「最も大事なことは、誰が『知る権利』のコストを負担するのかということ。インターネットが普及して、情報は無料だと思っている人が多いが、ネットニュースに情報を提供している新聞や雑誌などは多大なコストをかけて取材している。だから今後、新聞や雑誌の経営が悪化して休刊になったり、取材が弱体化したりすれば、本来知らされるべき情報が減ってしまう可能性もある。結果的には、国民が不利益を被ることになる」
「情報=無料」は取材力を低下させ、我々は知らないうちに“情報過疎”の事態に陥ってしまうという警告だ。そして、民主主義社会を支える基盤となる「知る権利」にとって大きな痛手ともなるということだ。
週刊朝日はなぜ休刊に追い込まれたのか
雑誌業界での「休刊」とは、事実上の廃刊だ。最近では週刊朝日の実売部数は5万部を切り、業界内では「休刊はさもありなん」という見方が大勢だった。
紙媒体が直面する構造問題は他の週刊誌も同じだが、週刊朝日には特殊な事情もあった。休刊の原因について、関係者の多くが挙げるのが、2012年10月に橋下徹大阪市長(当時)の出自をめぐる差別的な記事を掲載したことだった。人権感覚の欠如が大きな問題となり、当時の編集長は更迭され、朝日新聞出版の社長も引責辞任する事態にまで発展した。
「それまでは自由で積極的な編集部だったが、あの一件の後は、『とにかく問題を起こすな』という空気に支配され、骨抜きになってしまった。週刊誌らしいことはほとんど何もできないまま、休刊に追い込まれたという感じだ」(週刊朝日関係者)
実は、同じ頃、朝日新聞出版では水面下で“ある構想”が検討されていたというのだ。当時の幹部が明かす。
「朝日新聞社の100%子会社からの脱却です。新たな出資者を探し、将来的には新聞社の影響力をなくすことも考えていた。もともと、朝日新聞から下に見られ、記事の内容について干渉を受けることも多く、“独立” は悲願だった。もし実現していたら、出版社系週刊誌のように積極的な誌面づくりができていたかもしれない」
しかし、橋下氏に関する記事によって、構想はついえ、朝日新聞という呪縛は解かれることはなかった。もし週刊朝日が“独立”していたなら、どんな雑誌になっていたのだろうか。
取材・文 : 藤崎諒吾
バナー写真 : 共同イメージズ