モンゴル人力士“成功秘話”―すべては31年前の「集団脱走事件」から始まった
スポーツ 国際交流- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
白鵬引退でも止まぬ蒙古旋風
初場所後の1月28日、2021年秋場所を最後に引退したモンゴル出身、元横綱・白鵬の引退相撲が東京・両国国技館で開かれた。
優勝45回など数々の記録を塗り替えた白鵬。偉業を彩るように引退セレモニーも華やかで、オープニングでは歌舞伎役者の市川團十郎が演舞を披露。政財界や芸能界から著名人が多数駆け付け、親方としての新たな門出を祝った。
断髪式で力士の象徴である大銀杏を切り落とした元白鵬の宮城野親方は、「体の一部がなくなった寂しさがある」とポツリ。それは私も同感だ。白鵬の引退によって一つの時代が終焉した感は免れない。
モンゴル人力士が初めて優勝したのが、2002年九州場所の大関・朝青龍(のち横綱)。それから20年余りで優勝力士は8人を数え、通算優勝回数は96回。実に全場所の8割を占める。
朝青龍・白鵬の時代のようなモンゴル人力士の黄金時代が再び訪れるかどうかは分からないが、春場所の番付を見ると、幕内力士40人中、8人がモンゴル勢。三役には豊昇龍と霧馬山の大関候補が控えるなど、いまだに一大勢力を成している。
それにしても、と思う。モンゴルから初めて新弟子がやってきた時、このような時代が訪れることを誰が予測できただろうか。
31年前のあの時、彼らが相撲をあきらめて帰国してしまっていたら……相撲界は今とはまったく違ったものになっていたはずだ。
記憶は1992年3月にさかのぼる──。
モンゴル国民の期待を背負って来日
毎年3月、大阪で開催される春場所は「就職場所」とも言われる。中学や高校・大学を卒業した若者たちが、夢と希望を抱いて角界の門をたたく。
1992年の春場所では160人もの若者が新弟子検査に集まり、史上最多となる151人が合格した。その中にモンゴルからやってきた6人がいた。
その前の初場所では、貴花田(のち横綱・貴乃花)が史上最年少の19歳5カ月で初優勝。兄の若花田(のち横綱・若乃花)、小錦・曙・武蔵丸のハワイ勢と役者がそろい、平成の相撲人気は最高潮に達していた。
一方、当時のモンゴルは、ソ連・東欧情勢に触発されて反官僚主義・民主化運動が起き、90年に一党独裁を放棄。92年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へ改称する。日本社会党(現・社民党)の上田卓三衆院議員が、そうした動乱期の91年にモンゴルを訪れた際、モンゴル民族相撲連盟から「選手を日本の大相撲に送りたい」との要請を受けた。
騎馬民族であるモンゴルでは、「弓、馬、相撲」が「男の3つの競技」と呼ばれ、多くの男性がモンゴル相撲を経験している。
角界の活性化につながると判断した上田議員は、当時大島部屋の師匠だった大島親方(元大関・旭国)の後援者でもあったことから、さっそく同親方に連絡。話はトントン拍子に進み、大島親方は92年2月、有望な若者をスカウトするためモンゴルの首都ウランバートルを訪問する。
大島親方は現地でテレビ、ラジオ、新聞等のマスコミを通じ、力士志願者を一般公募。ただし、モンゴル相撲の実力者ではなく、将来性を重んじて18歳以下という条件を付けた。
集団脱走、帰国、そして再起
日本でひと旗上げたいという若者は多く、150人を超す応募があり、ふるいにかけるためトーナメント大会が行われた。その結果、旭鷲山、旭天鵬、旭天山(当時旭嵐山)、旭鷹、旭雪山、旭獅子の6人が選出され、来日して大島部屋に入門する。
筆者は入門直後の6人全員に取材していた。当然、彼らは日本語を全く話せないので、モンゴル人の通訳を介してのインタビューだった。ところが、その通訳は日本語らしきもの(?)を話してはいたが、私にはほとんど理解できず、かなりの憶測を交えて記事を書いた記憶がある。
「大丈夫だろうか」―通訳と私のかみ合わない会話をキョトンとした表情で見守る彼らの姿に、一抹の不安を覚えた。
その不安は現実となった。初土俵から半年も経たない1992年8月、旭天山を除く5人が夜遅く、部屋から逃げ出して東京・渋谷のモンゴル大使館に駆け込むと、帰国を訴えたのだ。
大島親方がおかみさんと共に大使館に急行し、5人を説得。旭鷲山と旭鷹は部屋に戻ったものの、旭天鵬、旭獅子、旭雪山の3人はそのままモンゴルへ帰国する。
大島親方はモンゴルに飛んで再度説得に努め、その結果、旭天鵬だけが日本に戻った。その後、旭鷹はどうしても相撲部屋の生活に慣れず、翌93年には休場続きとなり、9月に廃業して帰国。紆余曲折を経て、旭鷲山、旭天鵬、旭天山の3人が相撲界で頑張ることになった。
それまでも集団で廃業したトンガ力士(1976年)をはじめ、外国人力士が一つの部屋に多数集まることでトラブルは起きていた。事態を重くみた日本相撲協会は、外国人力士の入門自粛を決定。1998年九州場所でようやく解禁されたが、1部屋1人の規制が設けられ、それは現在も続いている。
自販機に話しかけた旭鷲山
来日当初はお互いほとんどコミュニケーションが取れなかったが、やがて旭鷲山と旭天鵬が関取に昇進すると、あの時、どんなことを感じていたのかを知りたくなり、いろいろと質問したことがある。当時の取材帳をもとに再現してみよう。
旭鷲山 子どもの頃はモンゴルが社会主義だったので、ソ連や北朝鮮はいい国で、日本、韓国やアメリカは悪い国だと教えられていた。それに日本には忍者や侍がいるって学校で教わったな(笑)。
旭天鵬 日本に行く直前になると、モンゴルにも資本主義が導入されていて、日本を紹介するテレビ番組もやっていた。夜のネオン街がすごくきれいで、日本ってすごいなあと憧れていた。それで(相撲部屋のある)両国に来てみたら「どこにネオン街があるちゅうの!だまされた」と思ったよ(笑)。それから新宿や渋谷に行って、やっと納得したけど。
旭鷲山 最初に来た時、日本は車も多いし、高層ビルもいっぱいあって、「やっぱり進歩した国だなあ」って感心していたんだ。そしたら次の日いきなり稽古(けいこ)場に出されて、見たらみんなチョンマゲで体中砂だらけ…。日本のイメージが完全に狂っちゃったよ。
旭鷲山と旭天鵬はモンゴル人力士のパイオニアだけに、食べ物を含めさまざまなカルチャーショックがあったようだ。
旭天鵬 モンゴルでは、ご飯はチャーハンとか雑炊みたいに必ず手を加え、何かと混ぜるから、最初に白いご飯を出された時は、気持ち悪くて吐きそうになったよ。
旭鷲山 割り箸(ばし)は日本に来て初めて見た。新弟子の頃、(親方が)和食のお店にモンゴルの6人を連れて行ってくれたことがあったんだ。旭天山が割り箸を勢いよく割ったから、『壊しちゃダメだよ。怒られるぞ』って言ったんだよ。自分は割り箸の先を両手でちょっと開いて、そこに物をはさんで食べていた(笑)。それからモンゴルでは魚は神様と言われていたから、最初は食べられなかったなあ。
旭天鵬 俺は新弟子の頃、コーラをものすごく好きになった。モンゴルにはなかったからね。部屋のそばの自動販売機で毎日買って飲んでいた。そこの自動販売機はかなりもうかったはずだよ(笑)。
旭鷲山 「いらっしゃいませ」って声が出る自動販売機があるでしょう。日本にはロボットが多いと聞いていたので、これがロボットかと思って「ジュースをくれ」って話しかけたら、全然返事が返ってこなくて恥ずかしい思いをしたよ(笑)。
旭天鵬 あれにはびっくりした。自動販売機の後ろに回って、誰かいるのか確認したくらいだもん(笑)。
相撲界には独特のしきたりがある。「無理へんにげんこつと書いて兄弟子と読む」「番付が一枚違えば家来も同然、一段違えば虫けら同然」―相撲社会の厳しい上下関係を言い表した“格言”だ。
数々のカルチャーショックに加え、毎朝5時に起きて厳しい稽古、意味の分からないことで兄弟子たちに怒られる毎日。さらに、角界入門に対する認識の違いもあった。
「最初は日本の相撲学校で3年間勉強して帰るつもりだった。まさかプロの世界に入るとは思ってなかった」と、旭鷲山はあくまでも留学気分だったことを強調。
旭天鵬は「100kgを大きく超える立派な体の力士でもなかなか関取にはなれない。85kgしかなかった自分には無理だと思った。それに日本に来て、大阪(春場所)から始まって東京(夏場所)、名古屋場所と日本の3つの大都市を回れた。親方が息抜きにとディズニーランドにも連れて行ってくれたし、『もう、みんなで国に帰ろう』となって、集団逃亡してしまった」と、半分観光気分で来日したことを吐露した。
汚名返上に燃えた2人
それにしても、あの時、旭鷲山と旭天鵬が廃業を思いとどまったことが、大相撲の歴史を大きく変えることになる。
のちに旭天鵬は「モンゴル相撲の経験のない僕は、ウランバートルでの選考会で初戦で負けてしまった。それなのに親方は『もう1回』と言って僕を呼び戻してくれた。脱走して帰国した際も、3人の中で僕だけ『お前は絶対に強くなるから帰って来い』と迎えに来てくれた。そんな親方を信じようと思った」と振り返っている。
一方、大島親方は「(旭天鵬は)若き日の大鵬(第48代横綱)に似ている感じがした」と語っている。
相撲界には「スカす」という隠語がある。それは自分が所属する相撲部屋から脱走することを意味する。一度逃げた者に対して、周囲の目は冷たく厳しい。だが、旭鷲山と旭天鵬は、心を入れ替えて精進を重ね、皆の信頼を取り戻しながら出世街道を突き進んだ。旭天山は関取まであと一歩の幕下上位で終わったが、旭鷲山と旭天鵬は幕内の人気力士に成長する。
旭鷲山はモンゴル初の関取、幕内、三役昇進を果たした。上手投げ、掛け投げ、外無双、内無双、かいなひねり、ちょん掛けなど多彩な技を繰り出し、当時「技のデパート」と言われた舞の海になぞらえ、「技のデパート・モンゴル支店」の異名を取った。稽古量も近年の力士としては出色で、巡業地では1日に50番以上もの稽古をこなすこともあった。
「ぶつかり稽古でいくらしごいても、ケロッとしている」と兄弟子が舌を巻くほどスタミナも抜群だった。しかし、その素質から考えると最高位が小結というのは物足りない。「旭鷲山はただ体を動かしているだけ。あれだけ足腰がいいのだから、前に出る相撲を心掛けていれば、少なくとも大関にはなっていた」と指摘する親方もいた。
早稲田大学人間科学部の通信教育課程に入学するなど向学心にも富んでいた旭鷲山。引退後はモンゴルに帰り、実業家として建設や貿易などさまざまな事業を手掛け、一時は、モンゴルの国会議員にも選出されるなど八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をしている。
一方、旭天鵬は旭鷲山に後れを取ったものの関脇まで昇進し、番付では旭鷲山を凌駕。持久力も素晴らしく、前頭7枚目で臨んだ2012年夏場所では37歳8カ月の史上最年長(当時)で初優勝。40歳まで現役を務めた。日本国籍を取得し、引退後は友綱親方として後進の指導にあたっている。
ジャパニーズドリームに憧れ後輩たちが続々と
モンゴル国内の物価は日本の約10分の1。旭鷲山が幕下時代に、実家に数万円を送ったところ、両親に「こんな大金どうしたんだ」と不審がられたという。幕内に昇進すると、すぐにサッカー場並みの広さの土地をモンゴルで購入した。
旭鷲山と旭天鵬が幕内で活躍するようになると、テレビで大相撲中継が大人気となり、モンゴルのマスコミでも大きく報道されるようになる。
大相撲で成功することが「ジャパニーズドリーム」と認識され、朝青龍や白鵬のように、素質ある若者が次々と角界の門をたたいた。ちょうど日本人の新弟子が減少している時期とも重なり、モンゴル人力士たちが土俵の覇権を独占する時代が幕を開けた。
異国、しかも、その中でも特殊な世界に何も知らずに身を投じ、悪戦苦闘しながらもサクセスロードを示した旭鷲山と旭天鵬。2人の功績はとてつもなく大きい。
バナー写真:1992年春場所、モンゴル出身で初めて新弟子検査を受ける6人。左から旭天鵬と旭鷲山 共同