世界記憶遺産の「引き揚げ」を考える:舞鶴と東京の資料館が都心で合同展示

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“引き揚げのまち”として知られる京都府舞鶴市の「舞鶴引揚記念館」と、シベリア抑留や引き揚げの資料を展示・所蔵している「平和祈念展示資料館」(東京・新宿区)の合同展示が、2月22日から12日間、東京・丸の内で開催される。戦争を知らない若い世代に、戦争後に起きた史実を伝えるためだ。世界記憶遺産になっている「日本人の引き揚げ」の歴史と課題を考える。

悲惨だったソ連軍支配下の在留邦人

1945年8月の敗戦時、海外に軍人・軍属と、民間人がほぼ半数ずつの計約660万の日本人が残された。ポツダム宣言の第9項に「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和的な生活ができる機会が与えられる」とされたため、軍人の復員は同年9月から徐々に始まった。引き揚げ者を迎える港には博多、佐世保、舞鶴、浦賀など18カ所が指定された。

一方、民間人の日本への引き揚げは法的根拠がなく、また最初期に日本政府が外地の日本人の現地定着を指示したことで、引き揚げ政策が大きく遅れてしまったため、一部の地域では大混乱となる。在外日本人は中国、ソ連、米国(南洋諸島、フィリピン、朝鮮南部など)、英国・オランダ(東南アジアなど)、豪州(ボルネオ島など)の5つの軍管区の軍隊の支配下に入った。しかし、各国の軍隊で日本人に対する扱いが大きく違った。

特に悲惨だったのは、ソ連軍管区となる旧満州(現中国東北部)や朝鮮北部、樺太、千島列島にいた在留日本人である。大戦末期に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したソ連は、開拓団を含め日本人約155万人が居住していた満州に侵攻した。

青壮年男子が関東軍に“根こそぎ召集”されていたので、女性、老人、子どもだけの避難行となった。現地民の襲撃を避けて原野をさまよい、やっと都市部にたどり着くとソ連兵の暴行、略奪が待っていた。現地で中国人に引き取られる子どもや、生きるために帰国をあきらめる女性もいた。

日本への引き揚げ船が出る港で「立ちつくす少年」の写真。少年は孤児で知人もおらず、身元を証明する書類がなかったので、引き揚げ船に乗れなかった。1946年、釜山で撮影されたらしい(平和祈念展示資料館提供)
日本への引き揚げ船が出る港で「立ちつくす少年」の写真。少年は孤児で知人もおらず、身元を証明する書類がなかったので、引き揚げ船に乗れなかった。1946年、釜山で撮影されたらしい(平和祈念展示資料館提供)

ソ連軍は満州などに取り残された日本人の送還について関心を見せず、ソ連軍が撤退した後の1946年5月、ようやく引き揚げが米軍の輸送船を使って始まった。引き揚げ船が出る満州南部の葫蘆(ころ)島まで、ソ満国境から2000キロを逃げてきた人もいたという。満州からの引き揚げの犠牲者は、日ソ戦の死亡者を含め約24万5000人。東京大空襲、広島原爆、沖縄戦よりも多い死者数となった。

ソ連軍は一方で、武装解除した日本兵ら約57万5000人をシベリアなどに連れていき、零下20~40度となる厳冬、乏しい食糧の中で、強制労働をさせた。このため、その1割の約5万5000人が亡くなった。「シベリア抑留」である。

伝染病のため本土目前で亡くなった人たち

外地からの引き揚げ船には2000~3000人が乗っており、伝染病対策として厳しい検疫が課せられた。1946年4月、中国・広東から浦賀に入港した船内でコレラが発生し、20隻が海上隔離のため沖合停泊となった。このため7万人近い引き揚げ者が本土の前で待機させられ、約400人が船内で死亡したという記録も残っている。

平和祈念展示資料館の山口隆行・学芸員の説明によると、引き揚げ者は帰国後も苦しい生活を強いられた。財産のほとんどは外地に残したままで、帰国しても日本に生活の基盤がなかった人が多く、さらにソ連軍管理地域からの引き揚げ者の場合、一家の働き手である青壮年の男性が抑留されて何年も帰って来なかったことが多かったため、戦後の混乱の中では生活の再建が厳しかった。

その貧しい生活実態がたびたび社会問題となった。政府は引揚者給付金制度を設けたり、特別交付金を支給したりしたが、“すずめの涙”ほどの額で、在外財産が戻ってくることはなかった。

最後の引き揚げ港・舞鶴

引き揚げは1958年まで続くが、50年以降では舞鶴だけとなる。舞鶴は日本海側で唯一の軍港として栄えた都市で、戦後13年間にわたり約66万人と遺骨1万6000余柱を受け入れる「引き揚げのまち」となった。シベリア抑留は最長で11年にも及んだが、最後の帰還者を出迎えたのもここである。

舞鶴市は88年に引揚記念館を開館した。そして、所蔵する関係資料をユネスコ世界記憶遺産に申請し、2015年、「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が国際登録された。

シベリア抑留の過酷な日々の中で、日本に帰れることを信じて収容所(ラーゲリ)に希望の灯をともした主人公と、再会を願う家族との愛を描いた映画『ラーゲリより愛を込めて』が、2022年12月から上映中だ。また、ロシアの侵攻によるウクライナ戦争が続いている。戦争をこれまで以上に身近なものとして感じるようになった日本人が増える中で、戦争の記憶を次世代につなぎ、平和の願いを発信するイベントが開催される。

世界遺産の資料など90点と、中高校生らの「学生語り部」

舞鶴引揚記念館と平和祈念展示資料館の資料90点を合同展示する「ラーゲリからのメッセージ シベリア抑留の記憶をつなぐ」と題した初めてのイベントで、2月22日から3月5日まで。会場は東京駅丸の内南口前のKITTE(東京中央郵便局)だ。入場無料。

舞鶴から出品されるのは、世界記憶遺産登録資料として、シベリア抑留者が現地で紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷の想いを和歌に書き記した「白樺日誌」。出征兵士となった一人息子の帰国を信じ、引き揚げ船の入港に合わせて何度も舞鶴に通い、「岸壁の母」の歌のモデルとなった端野(はしの)いせさんの資料。舞鶴の湾内に造られ、引き揚げ者を迎えた「平(たいら)桟橋」の模型などだ。

今回の合同展示に出品される、世界記憶遺産の登録資料「白樺日誌」。シベリア抑留者が紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷への想いを約200首の和歌にして書き記した。(舞鶴引揚記念館提供)
今回の合同展示に出品される、世界記憶遺産の登録資料「白樺日誌」。シベリア抑留者が紙の代わりに白樺の皮を使い、日本の家族や故郷への想いを約200首の和歌にして書き記した。(舞鶴引揚記念館提供)

終戦後、舞鶴の平(たいら)湾に造られ、多くの引き揚げ者を迎えた「平引揚桟橋」。現在の桟橋は復元したもの。この付近に舞鶴引揚記念館がある(舞鶴引揚記念館提供)
終戦後、舞鶴の平(たいら)湾に造られ、多くの引き揚げ者を迎えた「平引揚桟橋」。現在の桟橋は復元したもの。この付近に舞鶴引揚記念館がある(舞鶴引揚記念館提供)

同館の長嶺睦・学芸員は、「これまで全国の引き揚げ港を巡回して、引き揚げやシベリア抑留の史実と、平和の尊さを発信してきた。戦後80年(2025年)を目前にして今一度、全国の皆さんに平和について考えていただく機会となるよう、首都東京での合同展示を行う」と企画の意図を話す。

今回のイベントの特徴は、舞鶴から若い「学生語り部」が登場することだ。これまで体験者が語っていたものを、21世紀生まれの若い世代が伝える。同館では、次世代への継承は、「次世代による継承」にシフトしており、中学生15名、高校生13名、大学生と専門学校生各1名の学生語り部が、「同世代に伝えたい」と活動している。

舞鶴引揚記念館で同年代の見学者に展示の解説をする中学生の学生語り部(左)(舞鶴引揚記念館提供)
舞鶴引揚記念館で同年代の見学者に展示の解説をする中学生の学生語り部(左)(舞鶴引揚記念館提供)

消えつつある貴重な資料

引き揚げの問題で現在、深刻なのは体験者が高齢となり、次々に亡くなって、関係者が所持、保管していた資料が散逸、廃棄されていることだ。世界遺産登録に尽力した長嶺学芸員は、「630万人が引き揚げで生還した壮大な出来事が日本の歴史から消えようとしている」と訴える。

平和祈念展示資料館によると、体験者や、その子世代の人が終活の一環として、既に亡くなっている親が持っていた引き揚げ当時の物を持ち込んだり、寄贈について相談したりするケースが増えているという。しかし今後、孫の世代になると祖父らが大事にしていた物にはあまり興味がなく、処分されてしまうことが予想される。

「1月から4月まで館内で開かれている企画展『収容所と日本を結んだ葉書』は、シベリア抑留の最終引き揚げ船で帰ってきた10年以上の長期抑留者が、家族や友人と交わした葉書を集めたものです。関係者から昨年8月に寄贈されたばかりの資料58枚のうち、19枚が展示されている。このように時々だが、貴重な資料が持ち込まれることもある。こうした資料は散逸すると、もう戻らないものなので、処分する前に公的な資料館などに相談してほしい」(同館の山口学芸員)。

在留邦人の引き揚げは世界的にも極めて広範囲で大規模だったが、その記憶と重要な史料が消えないよう、国民的理解を増すためにも、今回の合同展が期待されている。

バナー写真:ソ連軍支配下の朝鮮北部から脱出し、釜山から引き揚げ船に乗り込む日本人たち。1946年8月撮影(平和祈念展示資料館提供)

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