史上初の2階級4団体統一へ—日本ボクシング界の最高傑作・井上尚弥が切り開く新たな世界とは
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「バンタム級でやり残したことはない」
世界バンタム級4団体統一を果たしたばかりの井上尚弥が、キャリアの新たな局面を迎えようとしている。横浜市内のホテルで開かれた記者会見で、井上は次のように切り出した。
「4団体のベルトを本日をもちまして返上することをご報告申し上げます。2023年は一つ階級を上げてスーパーバンタム級に挑戦していきたい。バンタム級でやり残したことはなく、戦いたい相手もいないので、スーパーバンタム級への挑戦を決意しました」
この記者会見が開かれたのは1月13日で、昨年12月13日のバンタム級4団体統一からまだ1カ月しか経っていない。階級アップは規定路線だったとはいえ、4団体統一はアジア人初、バンタム級史上初、さらに世界で9人目という快挙である。最初にWBAバンタム級王座を獲得してから4年8カ月を要して目標を達成したという意味でも、そう急がず、もう少し余韻に浸ってもいいのではないだろうか。
そんな記者の問いかけに、井上はサラッと答えてみせた。
「この4本のベルトを持って次を戦うことはないので、返上の時期は別にいつでもよかった。ベルトは宝物ですけど執着することはない。(大橋秀行)会長と相談してこの時期に返上ということになりました」
4団体統一という偉業も“モンスター”井上にとっては通過点に過ぎないということだろう。とはいえ22年は、その輝かしいキャリアの中でも特別な1年だったことは間違いない。井上がまた一つステージを上げた1年をここで振り返ってみたい。
まずは6月のバンタム級3団体統一戦である。対戦相手は4階級制覇の実力者、WBC王者のノニト・ドネア(フィリピン)だった。井上は1年7カ月前にフルラウンドの死闘(判定勝ち)を演じた相手をまったく寄せ付けず、2回TKO勝ち。日本選手初の3団体統一を成し遂げた。
そしてこの結果を受け、米国の老舗ボクシング雑誌「リング」が独自に選定するパウンド・フォー・パウンド(PFP)ランキングで、井上を1位にランクしたことも大きなニュースとなった。
PFPランキングとは、階級の垣根を取り払って全階級の選手をランク付けしたもの。「リング」誌はPFPランキングの草分け的存在であり、そのランキングは最も権威があるとされている。その権威が初めて日本人選手を世界ナンバーワンのボクサーに認定したのだから確かに大きなニュースだった。
普段はクールな井上も、このときはさすがに「一つひとつ積み上げてきたことがこうして評価されたことはボクサーとして光栄。この栄誉に恥じないためにも、また一つモチベーションが上がった」と喜びのコメントを発した。
22年の掉尾(ちょうび)を飾ったのが12月の4団体統一だった。
ボクシングにはメジャーと言われる統括団体がWBA、WBC、IBF、WBOと4つある。井上は4つのベルトをまとめ上げて“真のチャンピオン”になることを長らく目標にしていた。「強さを証明するのに4団体統一が一番分かりやすい」。理由はいたってシンプルだった。
井上はWBO王者のポール・バトラー(英国)を終始圧倒して11回TKO勝ちを収めた。こうして歴史に新たな1ページが刻まれたのである。
「好きなスポーツ選手」の上位にランクイン
ここでもう一つ、井上の実力を証明したと言えるデータを紹介したい。
昨年10月に発表された各世代の「好きなスポーツ選手」を調査した結果である(笹川スポーツ財団調べ)。
18歳から70代までを対象にした調査で井上は、大谷翔平、羽生結弦、イチローに続く総合4位に。1992年にスタートした調査で、ボクシング選手がこれだけ上位にランクされたのは初めてのことだ。井上尚弥という存在がボクシングという枠を超え、ひいては日本におけるボクシング競技の地位を大いに高めたという意味で、この結果は特筆に値すると言えるだろう。
さて、冒頭に記したように井上は2023年、競技人生の大きなターニングポイントを迎えようとしている。バンタム級(リミット53.5kg)からスーパーバンタム級(同55.3kg)に戦いの場を移すのだ。わずか1.8㎏の差がこれからの戦いにどのような影響を及ぼすのか。大いに注目されるところである。
井上自身は階級アップのメリット、デメリットを次のように述べている。
「1.8㎏アップに関してはプラスになると思う。バンタム級でも減量はきつくなっていた。正直、バトラー戦は足に100%の安定感を持って戦えていたかと言われたら、そうではなかった。スーパーバンタム級では安定感のあるボクシングができると思う。一方で、相手のフレーム(体格)は大きくなり、耐久性は上がる。そこは自分がしっかり仕上げていけばプラスマイナスゼロで戦えると思う」
井上はバトラー戦で太ももがつりそうになり、思い描いていた攻撃ができなかったと明かしている。「足に100%の安定感がなかった」とはそのことだ。階級を上げて減量苦が緩和されることでコンディションが良くなり、安定感のある動きができる。これが井上の読みだ。
逆に、相手の体が大きくなることは不安材料と言える。
背の高い相手と対戦すれば、自分と相手との距離は微妙に遠くなる。それがわずか1、2cmの差だとしても、その分パンチの入りが甘くなり、今までなら倒せていたパンチで倒せなかったり、強いダメージを与えていたパンチで思ったほどのダメージを与えられなかったり、という可能性が出てくる。守る側に立っても、相手の体重が増えればパンチは強くなるから、より注意が必要だ。
「戦い方は変わってくると思う」とも井上は言う。今までと同じようなスタイルでバッタバッタと倒すことはできないと予測しているのだ。
スーパーバンタム級で最初の標的
井上はライトフライ級を皮切りに、2つ上のスーパーフライ級、そしてバンタム級とクラスを上げてきた。「自分の適性階級はバンタム級だと思う」と話すモンスターにとって、1.8㎏の差は甘いものではない。そう自覚する井上は、1年前に階級アップに向けた準備に着手している。
肝となるのが21年11月に始めた元3階級制覇王者、八重樫東(やえがし・あきら)トレーナーとのフィジカルトレーニングだろう。井上はその狙いを「バンタム級で戦うためじゃなく、スーパーバンタム級で戦うため」とはっきり口にした。
まだバンタム級で戦っているのにスーパーバンタム級の体作りを始めるのは早いようにも思えるが、井上の考えはそうではない。すでに1年以上の準備を経た現時点でも、「スーパーバンタム級の体にフィットするまでには、もう少し時間がかかると思う」と話している。体作りはそれだけ大事だし、一朝一夕にできるものではないということである。
こうして井上が満を持して飛び込んだスーパーバンタム級は、現在2人のチャンピオンが4団体のうち2団体ずつベルトを保持している。米国のスティーブン・フルトンがWBCとWBOの、ウズベキスタンのムロジョン・アフマダリエフがWBAとIBFのチャンピオンだ。
井上はスーパーバンタム級でも4団体制覇を目標に掲げている。もし2階級で4団体統一を達成すれば史上初。まさに偉業である。
その第一歩となる試合が5月、日本で開催されるプランが明らかになった。まだ最終決定ではないものの、井上陣営はフルトンをターゲットに交渉を進めている。フルトンは21戦全勝8KOの28歳。4月に30歳になる井上は24戦全勝21KOだからパンチ力は井上に分がありそうだが、階級の違いがどう出るのかが興味深い。フルトンがテクニックに長けた選手であることも予想を難しくさせる。
井上はかねて35歳を引退の年齢に設定しており、「スーパーバンタム級が最後の階級になるかもしれない」とも話している。果たして新たな階級でも「モンスター」と評されるパフォーマンスを披露することができるのか。スーパースターの新たな挑戦は国内外で注目されることになるだろう。
井上尚弥(いのうえ・なおや)プロフィール
1993年4月10日生まれ。神奈川県出身。相模原青陵高校(現・相模原弥栄高校)在学時に高校生初のアマチュア7冠を達成。2012年7月にプロ転向し、当時国内最速の6戦目でWBCライトフライ級のタイトルを獲得。14年12月にはWBOスーパーフライ級王座を獲得し、当時史上最速で2階級制覇。18年5月にはWBAバンタム級王座を獲得して3階級制覇。22年12月にWBOバンタム級王座を獲得して4団体統一王者となったが、1カ月後にベルトを返上して、スーパーバンタム級への転向を表明した。
バナー写真:バンタム級世界4団体王座統一戦でポール・バトラー(英国)を攻める井上尚弥(2022年12月13日、東京・有明アリーナ) 時事