「サッカーをするのが後ろめたかった」: 元ミャンマー代表GKが亡命後に歩んだ苦難の道
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ミャンマー人チームが憩いの場
秋空の東京・新宿の摩天楼を見上げる小さなグラウンドで、「こっちだ、こっち!」とミャンマー語が飛び交っていた。ピエリアンアウンさんがシュートを叩き落としたかと思うと、瞬時にパスを出し、カウンター攻撃が始まる。周りのミャンマー人選手の動きも悪くはないが、1人だけ明らかに違う動きをしていた。
このチームは在日ミャンマー人選手でつくるミャンマー・フットボール・クラブ(MFC)東京。1988年以降の民主化運動で日本への逃亡を余儀なくされた、元プロサッカー選手のハンセインさんが作った。
毎週日曜日に練習を行い、終了後に公園や飲食店で食事する。この日は新宿区の公園にミャンマー人20人以上が集まり、サポーターの在日ミャンマー人女性ら手作りの鶏肉スープやめん料理が振舞われた。ピエリアンアウンさんは仲間と話をしながら料理を口に運ぶ。日本で苦労して暮らしている仲間たちとの週末のひととき、サッカーはやらないが、食事会だけ参加するという人も少なくない。
難民認定されてからは、長らく横浜市で暮らし、荷物運びなどのアルバイトをこなしながら練習を続ける日々を送った。日本に留まると決めた当初は「3~4カ月で政権が引っくり返り、帰国できると思っていた」と振り返る。その思いとは裏腹に、現地の内戦が激化し、帰国の見通しは立たない。10月下旬、それまで住んでいた横浜から、ミャンマー人の多い高田馬場(新宿区)近くに引っ越した。「東京で定職に就きたい」と次の目標を定めている。
チャリティー大会の盛り上げ役
10月16日には、在日ミャンマー人らが母国への寄付金集めのために開催したフットサル大会「フェデラルカップ」に出場。キーパーなのにロングシュートを決め、観衆を沸かせた。
こうしたチャリティー大会は、2021年2月のクーデター後に急激に増えた。政変前は数チームしか参加していなかったが、今回は男女45チームが参加。参加者やスポンサーから100万円以上の資金を集めたという。ハンセインさんは「この盛り上がりにピエリアンアウンさんの存在があることは間違いない」と話す。
ピエリアンアウンさんのフェイスブックは、ミャンマーのニュースであふれる。1日に何回も国軍の凄惨(せいさん)な弾圧の様子のビデオなどをシェアする。空爆の犠牲者らの生々しい写真も珍しくない。「ミャンマーの状況はますます悪化している。先日も学校がヘリコプターの攻撃を受けて多数の子供が犠牲になったばかり。日本人にもこうした事実を知ってほしい」。マスコミの取材や講演会に呼ばれれば静かに思いを語る。在日ミャンマー人が行う抗議デモにも参加して声を張り上げる。
「自由にサッカーをすることが後ろめたい」
ピエリアンアウンさんは日本残留後、日本でプロ選手として活躍することを目指していた。ただ、帰国を拒否した時には、日本でサッカーができるとは思っておらず、何の予定もなかった。活動の場を提供したのは、支援者のノンフィクション作家、木村元彦氏らだった。木村氏は「サッカーができる場を作る」と約束。自らの人脈をたどって、サッカーによる世界平和を掲げるJ3のYSCC横浜に行きついた。
YSCCは彼をまず練習生として採用した。「Jリーガーになり、ミャンマー人を元気づけたい」という思いでの挑戦だったが、3部とはいえJの壁は恐ろしく高かった。練習に参加した彼は、「ミャンマー代表がYSCCと対戦すれば、たぶん負ける」とこぼしている。その後、チームと相談し、フットサルのFリーグの選手としてプロ契約した。
ただ、そのチームでも控えのキーパー。実力で正キーパーの座を勝ち取らなくてはならない。初戦ではベンチ入りさえできなかった。何しろ彼は、クーデターによる混乱によって数カ月間、まともな練習ができていない。サッカーとは似て非なるフットサルの試合運びに慣れることも必要だった。
壁は競技のレベルだけではなかった。ミャンマー情勢は悪化し、国軍の弾圧の犠牲になる市民が増え続けた。練習後のインタビューで母国の状況を聞かれ涙したこともある。生活も過酷だった。早朝4時に起きて朝練に向かい、その後工場で働き、帰ってから食事と日本語の勉強をして寝るのは深夜という生活をしていた。睡眠時間は4時間余り。これでは、パフォーマンスが上がるはずもなかった。
11月、バルドラール浦安戦で突然の出場が命じられる。後半残り10分で4点ビハインドからの出番だったが、交代直後に脇を抜かれ失点。ショックから立ち直れないまま、さらに1点を失った。それ以降、彼が試合に出場するチャンスはなかった。
そうした中、彼はとうとう練習に行くことができなくなった。
「年末ごろから気持ちがサッカーから離れているのが分かった。友人たちが地下に潜って抵抗している時に、サッカーをしながら自由に生活をしていることに後ろめたい気持ちをぬぐえなかった」
リーグの日程が終了した2月のある日、フェイスブックにYSCCの仲間への感謝をつづる言葉を書き込んだ。翌シーズンの契約をせず、引退を決めたのだった。
3本指は「市民の代表」の印
筆者はピエリアンアウンさんと若干の縁がある。彼が日本戦で抗議した後、在日ミャンマー人らが「救出作戦」を展開する中で取材していたのだ。
彼は21年5月28日の日本戦で3本指を掲げた。当時、クーデター下の国家代表としてプレーすることに、ミャンマー国民から反発の声が上がっていた。この日の会場にも、在日ミャンマー人らの抗議デモが待ち構えていた。その中で彼は「国軍の代表ではなく、市民の代表であることを示したかった」と考え、危険を承知で抗議の意思を示した。
ただ、W杯予選という大舞台での抗議は、彼の予想をはるかに上回る反響を呼ぶ結果となった。在日ミャンマー人らは彼の行動に驚愕(きょうがく)し、敬意を払うとともに、身を案じた。そして、ひそかに彼と連絡を取り、帰国しないように説得。日本滞在中にチームから離脱させる手はずを整え始めた。
一方でミャンマー・サッカー協会の幹部らからは「大丈夫だから、帰ってこい」と説得が始まった。恩人らの引き留め工作に、彼の心は揺れ動いた。それでも「帰れば命が危ない。民主化したら戻ればいい」という友人の声が決め手になり、日本に留まることを決意した。
最後のチャンスで求めた助け
6月15日に大阪でタジキスタンとの対戦を終え全日程が終了すると、救出工作が本格化した。その日のうちに、大阪のミャンマー人アウンミャッウィンさんらが車を用意し、周囲が気づかぬ隙に抜け出す算段を整えた。しかし、この日は厳しい監視に阻まれ失敗。その夜に駆けつけた空野佳弘弁護士は、実質的に監禁されていると判断し、大阪府警に告発状を提出した。
このころからマスコミがホテルに集まり出した。筆者もこの日から大阪入りして現場に待機。記者の間では、本人の身の安全を考慮し、目立つような取材は避け、事態が解決するまで報道は差し控えることなどが話し合われていた。
翌16日、大阪府警が動かないまま時間が過ぎていく。本人と携帯電話で連絡を取りながら、関西国際空港へ出発する直前まで脱出を模索していた。しかし、ミャンマー側の警戒も厳しく、警備も強化され、結局、ホテルから抜け出すことができなかった。心が折れたピエリアンアウンさんは空港行きのバスに乗り込む。そして「ごめんなさい、私は帰ります」と複数の支援者に連絡を始めた。
それでも支援者は諦めなかった。あらゆる人脈を駆使してピエリアンアウンさんの友人を探し出し、メールや電話などで本人を励まし続けた。関西国際空港で手荷物検査場に入る彼に、筆者は「ネバーギブアップ」と声をかけた。彼は両手を合わせるようなしぐさをして、ゲートをくぐった。
彼の姿が手荷物検査場の奥に消え、駆けつけた支援者らの間にも、もうだめかもしれないというムードが漂った。しばらくして、支援者の携帯に電話が入る。入管職員が彼を保護するために別室に連れ出したというのだ。出国審査の窓口で、「帰りたくない」と意思表示したのだという。ピエリアンアウンさんは「もう逃げられないと思い諦めていた。しかし、最後のチャンスだと思って頑張った」と後に語っている。
それから1年半が経とうとしている。ミャンマーの状況は深刻なまま。帰国の道筋は見えず、異国での生活も苦しい。しかし、母国に民主主義が戻り、帰国できるようにするために、自分にできることがあるとも思っている。10月のチャリティー大会で優勝を飾ったピエリアンアウンさんは表彰式のあと、チームメイトと並んで写真に収まった。仲間と一緒に、また3本指を掲げていた。
バナー写真:練習でチームメイトに指示を出すピエリアンアウンさん(2022年9月、東京)撮影:北角裕樹