台湾における2度の「国葬」——安倍元首相の国葬から考える

政治・外交 歴史

米果 【Profile】

去る2022年9月27日、凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬が執り行われた。日本の政治家としては55年ぶりだ。厳かな雰囲気の中で読まれた菅義偉前首相らの感動的な弔辞を聞いたとき、台湾人の筆者の頭には、かつての台湾の「国葬」の光景がよみがえった。

2022年、依然として新型コロナウイルスへの警戒が続く中、私達は同時期に2つの国の国葬を目撃した。英国女王エリザベス2世と日本の安倍晋三元首相の葬儀だ。天寿を全うしたエリザベス女王の国葬がひたすら厳かな印象だったのに対し、安倍元首相の国葬は、地理的な関係と事件のショックもあって、台湾人にはより身近に感じられたと言えるだろう。

遺骨を抱いた喪服姿の昭恵夫人の姿は物悲しく、安倍元首相の友人代表として葬儀に出席した菅義偉前首相が盟友に向けて読んだ弔辞には胸打たれるものがあった。会場の外では一般献花のための長蛇の列ができ、台湾からもネット上で高い関心が寄せられた。日本国内では国葬の実施について賛否両論があったが、その形式と雰囲気は私達台湾人が1970年代と80年代に経験した2回の国葬を思い起こさせるものだった。

学生服に黒い布を縫い付け…蒋介石の国葬

1回目の国葬は1975年。先祖供養のための祝日「清明節」の深夜に蒋介石総統が死去した。あの夜は初春らしい雷雨で、政府は「世界的な偉人の逝去に風雨も哀悼の意を捧げている」と発表した。

当時は台湾の地上波テレビは3チャンネルしかなく、報道規制や国民党の検閲があった戒厳令の時代だ。よく覚えているのは教科書の内容。「小明」だったか「小華」だったか、とにかく同姓同名の2人の男の子がいる。1人は自由な台湾で育ち、楽しい毎日を送るのに対し、もう1人は中国共産党の鉄のカーテンの下で人民公社に住み、木の皮を食べるような極貧生活を送っているというものだ。教科書の挿絵で描かれた中国人はどれも骨と皮になるまで痩せ細っていた。小学校の音楽の教科書に至っては『反共抗俄歌(はんきょうこうがのうた)』という反共産主義、反ソ連の歌があり、歌詞には「ソ連の盗賊を打倒せよ、共産主義に反対せよ、朱徳と毛沢東を抹殺せよ、売国奴を殺せ」とまであった。賊と結託した売国奴は殺してもいいという政治的な空気の中で、小学校の教科書にまでこのような露骨な表現があったが、誰も何も言えなかった。

私が子どもの頃、蒋介石はすでに高齢で、健康上の理由からあまり公の場に姿を見せることがなかったと記憶している。過去の国慶節で見せた軍服姿の蒋介石と、旗袍(チャイナドレス)を着た宋美齢夫人が、そろって総統府の前のステージに登場することはほとんどなかった。逆によく覚えているのは、杖を片手に男性の中国服「長袍(チャンパオ)」を着ている姿だ。当時の学校では、国旗掲揚式の先生の話の中で「蒋介石」の3文字が出たら、生徒は素早く起立しなくてはならない。また、作文でも「蒋介石」の3文字を書くときには敬意を表するために1マス空けなければならなかった。

当時、蒋介石の長男・蒋経国はすでに行政院長(首相に相当)になっていたので、私達は蒋経国と区別するため蒋介石を「老蒋」もしくは「蒋公」と呼んでいた。学校では毎学期、蒋公をたたえる作文を書かされ、文章の最後は決まって「苦しんでいる同胞を救うために、大陸へ反攻せよ」と締めくくったものだ。第二次世界大戦を経験した親の世代は、小学生だった私以上に、蒋介石の死後に起こるかもしれない戦争を恐れていたと思う。

蒋介石が亡くなる前、学校でちょうど花壇のコンテストがあった。まだつぼみだった赤いバラは、コンテストの前夜に満開になった。絶対に表彰されるだろうと期待していたが、蒋介石の訃報を受け、学校側の指示で花壇の美しい花は全て抜いてしまった。白や黄色の菊は花輪になり、翌朝の国旗掲揚で全校生徒の黙とうの後、遺影に捧げられた。最後には司会の先生と共に「三民主義の実践、大陸国土の奪還、民俗文化の復興、民主陣営の堅守」のスローガンを叫んだ。

国中が喪に服すと、黒い布は一気に品薄になった。学生は黒い布を制服の左胸のポケットに縫い付けなければならず、大人は、確か腕に巻き付けていたと記憶している。

台湾南部に住んでいたので、台北の国父記念館に行って直接「蒋公総統」に哀悼の意を捧げることはできなかった。しかし、家のテレビはカラーからモノクロになり、映画などの娯楽は全て中止になった。難しい言葉で書かれた蒋介石の遺書を暗唱したものの、小学生では意味は全く分からなかった。文語体の歌詞が300文字を超える「蒋公記念歌」は、音楽教師泣かせだった。その後に作られた改訂版「蒋公記念歌」の歌詞は100文字程度になり、メロディーも簡略化。私が小学校を卒業するまで校内合唱コンクールの指定曲だった。

数年後、高校の卒業旅行は、まだ戒厳令の撤廃前だったため「公民教育訓練」という名のもとに制服で故宮博物院、国父記念館と中正記念堂、軍事学校などを見学した。メインイベントは桃園市の慈湖に眠る蒋介石の陵墓への参拝だ。旅行でリラックスできたのは、台北の西門町へ出掛けたときだけだった。

過去に向き合わぬまま行われた蒋経国の国葬

「老蒋」こと蒋介石が歴史的にも、そして台湾南部から見ると地理的にも遠い存在であったのに対し、「小蒋」こと蒋経国は総統になる前は無地のジャケットを着て市井にいるような親しみ深さを持っていた。およそ高い地位の人とは思えないような人だった。

私と弟が鄭成功を祀(まつ)っている台南の延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)で写生をしていた時、視察中の「小蒋」に会ったことがある。「小蒋」は弟の絵筆を取るや、さっと画用紙に色を塗った。その瞬間をカメラマンが捉え、テレビのニュースに流れた。私はドアの外に飛び出し、近所の人と雑談していた母に「弟弟的圖(弟の絵)」と叫んだ。中国語で「圖(絵)」と嘔吐(おうと)の「吐」は同音である。母は弟がもどしたと勘違いし、私達親子は大急ぎで路地を走って帰った。あれが後の総統「小蒋」に最も近づいた瞬間だった。

蒋介石・蒋経国の時代の総統選挙は、現在のような直接選挙ではなく、台北にある陽明山の中山楼で行われる国民大会で選出されるものだった。蒋介石の死後、国防部・政治作戦部でいくつもの愛国反共ドラマが制作され、地上波テレビで放送された。主題歌の『寒流』はメロディーを聴いただけで子どもが震え上がると言われ、ドラマを編集して作られた映画『香花與毒草』は香港でも上映された。作品の中で極めて否定的に描かれた悪役・中国共産党は、当時の国民党政府が宣伝していた「中国の領土を略奪した賊」というイメージに非常に合致していた。

私が経験した2回目の国葬は蒋経国が亡くなった1988年で、私は大学を卒業したばかりだった。「小蒋総統」の訃報を知った日の夜は、兵役で金門島に派遣されていた先輩が、珍しく休暇が取れて帰省し、台北の永康街の四川料理店で会っていた。先輩は服喪期間にかかるので、休暇の期間も娯楽の類は一切禁止だと話していた。当時はすでに戒厳令が解除され、台湾と中国大陸間での親族訪問が解禁となっていた。私の職場が入っていたビルは国民党との関係が深く、ロビーには「小蒋総統」の祭壇が設置されていたが、職場には国民党を支持していない人も少なくなかった。「小蒋総統」の服喪期間の印象は、「蒋公総統」の時ほど強くはない。

台湾と中国、いわゆる両岸の交流は90年代末期から本格化した。私は仕事の関係でシンガポールの学会に参加したが、パーティーでは上海の研究者と同じテーブルだった。その日、宴もたけなわとなったところで、戒厳令期の国語の教科書の話になった。私達は、前述の教科書の内容を話すと、上海の研究者は大変驚いて、彼らも子どもの頃に似た内容の文を読んだことがあるが、木の皮を食べる暮らしをしていたのは台湾の男の子の方だったそうだ。台湾政府は子ども達に中国共産党を匪賊にたとえて「共匪」、毛沢東を「毛匪」と教え込んでいたが、中国では蒋介石親子を「蒋匪」と教えていたのだ。

また、こんなこともあった。さっぱりとした性格の上司と食事会の後にカラオケに行ったときのことだ。帰り道に倒れ込んだ上司は酔いもあって、胸にしまっていたある出来事を話してくれた。彼は兵役期間中に外国の友人に宛てた手紙の中で、英語で「蒋介石の国葬はまるで猿芝居だ」と書いたそうだ。すると手紙は軍の検閲に引っかかり、思想的に問題がある人物という判を押され、上司は大学院の試験や公務員試験を受けることができなくなったという。上司の顔には悲しみの色が浮かび、目からは涙が流れていた。あの夜の台北は、すでに戒厳令が解除され白色テロの恐怖は過去のことになっていたが、人権侵害に向き合い解決を探る「移行期正義」への道はまだ始まっていなかった。

蒋介石で思い出したことが一つある。中学校の独唱コンクールで難しい方の「蒋公記念歌」を歌って優勝したクラスメートのことだ。大人になってからコンクールの話になったとき、そのクラスメートは台湾独立主義者になっていて、もうこの思い出話はすべきではないなと感じた。

道路にひざまずき総統の遺体を見送った中高年の記憶

13年の時を隔てて行われた2つの国葬。2022年10月現在、蒋介石親子の遺体は未だ正式に埋葬されておらず、それぞれ桃園市の慈湖と頭寮に仮安置されている。2人が亡くなったばかりの頃、蒋家の遺族は中国から国土を取り戻した後に、遺体を中華民国の首都である南京に埋葬したいと望んでいたはずだ。民進党の陳水扁政権だった2005年、台北市内湖区の五指山軍人公墓に蒋親子の墓が建設されたが、埋葬には至らず墓は放置されたままである。ちなみに今、五指山軍人公墓で眠っているのは蒋親子の間に短期政権を担った江蘇省籍の厳家淦(げん・かかん)と蒋経国に指名された台湾人の李登輝である。

国葬を経験していない台湾の若い世代には、国を挙げての服喪や娯楽禁止がどのようなものかを想像するのは難しいだろう。国葬当日、学生やさまざまな機関の人達が、霊きゅう車が通過する道路の両側にひざまずいた。台湾の中高年の共通の記憶である。現在、中国と台湾の両岸にある空気は「苦しんでいる同胞を救うために、大陸へ反攻せよ」と言っていた時代とは違い、毎日中国の戦闘機による領空侵犯に直面している。蒋親子の遺体の南京への埋葬が実現する可能性はほとんどないだろう。そして当時、声高に中国大陸の奪還と同胞の解放を叫んでいた国民党は、中国共産党にどんどん近づいている。この光景を見て、2人の蒋総統は何を思うのだろうか?

バナー写真=蒋経国総統の死去で弔問に訪れた人々、1988年1月15日、台北市(AFP=時事)

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    コラムニスト。台湾台南出身。かつて日本で過ごした経験があり、現在は多くの雑誌で連載を持つ人気コラムニストとして活躍中。日本の小説やドラマ、映画の大ファンでもある。

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