115年の歴史を誇るNYのジャパン・ソサエティー:運営を支えるのは、北海道育ちの若き米国人
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歴代最年少の38歳で理事長に就任
NYミッドタウン東47丁目。イーストリバー沿いの国際連合本部から目と鼻の先に、在留邦人や日系人はもとより、日本に関心のある現地の人なら誰もが知っている場所がある。創設から115年の歴史を誇る、日米交流を促進する民間非営利団体「ジャパン・ソサエティー」だ。
重厚なガラスドアを開くと、レセプションスペースが広がり、奥の階段にはこぢんまりとした日本庭園も見える。まるで都会に作られたオアシスのようだ。地下を含む6フロアにまたがる館内には、劇場やギャラリースペースがあり、日米間の相互理解を深めるための政治、経済、芸術、教育などの各種プログラムが催され、地元の人々に親しまれている。
ここで理事長を務めているのがジョシュア・ W. ウォーカーさん。2022年で41歳になった彼は3年前、同館で最年少の理事長に就任した。ウォーカーさんは1歳の時に宣教師をしている両親に連れられ日本に移住し、18歳まで札幌市で育ったという。
「私は日本ではいつも“ガイジン”だった」
多様性という言葉が喧伝される昨今、日本では多くの外国出身者が活躍している。また、スポーツ界では混血の選手の活躍も目覚ましい。しかし、ウォーカーさんが育った1980年代の日本では、外国にルーツを持つ人の活躍は今ほど目にすることはなかった。
「東京と違って札幌に住む外国人は多くなかった。私たちはどこへ行くにも外国人として見られましたし、私の周りの人たちも自分がアメリカ人か否かを疑う人は1人もいませんでした。私の(高い)身長、目や髪の色、話し方はご覧の通り典型的なアメリカ人ですから」
どうみても日本人には見えない。この実感は常に意識せざるを得なかったという。
「日本は自分に合わないし、属する場所ではないと思っていました。今思うと随分と恵まれた環境だったのですが、当時はそれに気付かず、ワクワクする刺激を求め、何かに挑戦したくなり、ここではないどこかに行く必要性を感じていました」
大学入学のために向かった先はバージニア州リッチモンド市。自国に戻り、自分はやはり米国人だと認識したのかと思いきや、実はそうでもなかったと言う。
「人々と接し文化に触れ、アメリカ流になじもうとしたのですが、違和感がありました。周りの意見に同調できず、テレビを見てもピンとこない。あれ? 自分は100%アメリカ人というわけでもないな、と感じました」
自分が何者なのか発見したい思いで、旅に出た。米政府による国際交換プログラム、フルブライト奨学金プログラムに応募し、その行き先は──。
「日本と親和性があるトルコです。家で靴を脱ぎ、茶を嗜(たしな)む習慣があり、目上の人に敬意を払います。“me me me”(自分中心)で、年齢に関係なく対等な関係を重視する西洋文化とは異なります。トルコでは日本語で考え、トルコ語で話し、日本で培った日本人らしさで振る舞ってみたところ、コミュニケーションがうまくいきました」
その経験が後の国際情勢や政治分野への関心、9.11米同時多発テロ後に興味を持ったムスリムの世界へと彼を導いた。
始めは日米2国間の狭間でもがき、自分が何者か分からなかったが、アイデンティティーの探求先で思わぬ発見があった。「半分半分の文化背景を持つ自分は、アメリカ人でも日本人でもなく、グローバル人(Global Citizen=地球人)だ」と。
米国で気付いた日本の恩恵
「Heartland(心の国、日本)とHomeland(自分の国、米国)」。両国をそのように思うウォーカーさんだが、日本を離れてしばらくすると日本が恋しくなり、感謝の気持ちが芽生えてきたという。日本人が海外に出て日本はいい国だと気付くのと同じなのかもしれない。健康であることや平穏な結婚生活がいかに幸運か、病気になったり伴侶を失って初めて気付いたりもする。当事者として渦中にいるとき、人は自分が置かれている立場を客観的に判断できないものだ。
また、日本では「安全・安心」が当たり前と思っていた気持ちを大きく変えた出来事は、2011年3月11日の東日本大震災だった。
「日本に心から感謝した最初の出来事でした」
地震直後、当時東北エリアに住んでいた両親と携帯電話がつながらず、安否が不明で不安な思いをした。一方で、災害時の日本人の行動を見て、日本を見る世界の目が変わったという実感もあった。
「それまで日本が戦時中に世界で行ったことを聞いてきた人々も、日本人の助け合いの精神や混乱時でもきちんと列を成す協調性を見て、食や文化以外にもある日本の素晴らしさが世界に知れ渡ったのです」
日本では控えめで奥ゆかしさが美徳とされるので、経験談や美談を世界に発信するのは得意ではない。だからこそ、自分は日本語が話せ、日本の良さを世界に知らせることができるのだから、それを生かさない手はないと思うようになった。
そんなある日、前職者の定年退職に伴い、ジャパン・ソサエティーが次の理事長を探し始め、ウォーカーさんにも「適任者を知らないか」と相談が舞い込んだ。当時、彼はワシントンD.C.でユーラシア・グループ(世界最大の政治リスク専門コンサルティング会社)に勤務し、グローバル戦略ならびに「日本イニシアティブ」部門の責任者を務めていた。ジャパン・ソサエティーの取締役会は、日本で育ち、米国で日本のために働くウォーカーさんの経験こそ必要と判断し、次の理事長としてウォーカーさんに白羽の矢が立った。
日米文化交流の現況、日本のプレゼンス
「日米政府は強固につながっているが、市民レベルではそうとも言えない」とウォーカーさん。日本の一般市民は日米同盟が日本に安全保障面で恩恵を与えていることは知っていても、日常生活レベルで具体的に何をもたらしているかまで深く理解しているとは言い難い。逆もまた然り。
「かけがえのない国同士とお互いが気付き、感謝の念を持つように、自分の経験を生かしたいと思いました。米国人から、日本人からと一方向からの視点ではなく、グローバル市民の視点から相互理解が進められるように努めています」
また、日本人は米国のことを映画などを通じて知っているが、米国人は日本のことをそれほどよくは知らない。よって米国人に日本の素晴らしさをもっと知ってほしいと願っている。
「NYの人はユニクロの服、トヨタの車、任天堂のビデオゲーム、セイコーの時計、伊藤園のお茶は好きでしょう。他にも禅の哲学、武士道、アニメも人気。でも次のレベルに移行する時期です。日本はものを売るのはうまい。でも売りたいという視点ではなく、アメリカのためにいいことだからという視点で、この国の人にもっと日本をアピールしていかなければ」
日本の良さとこれから世界にアピールすべきこと
「日本は非常に安定している国です。言い方を変えると『心地良さ』であり、少し『退屈』とも言えます。日本の政治も以前の私にはつまらなく感じていましたが、今は感謝の気持ちがあります。なぜなら退屈というのはつまり安全・安心の裏返しですから」
コロナ禍で以前のように日本出張ができなくなった。何が一番恋しいか尋ねると「日本の食べ物」と即答した。また、それ以上に「日本の人々」とも。
「一般的に日本人は他人の気持ちを考え、敬意を示し、調和を重んじます。おもてなしの心や気遣いは素晴らしい。アメリカ人は自分が良いと思うものを提供するだけ。ゲストが気に入れば『よし』、気に入らなければ『そうか(残念)』という感じ。一方の国は個人主義的で未来志向。また、一方は集団志向で伝統志向。日米は非常に異なる分、互いが合わせ鏡のように組み合わさると1+1=3に等しいほどの価値になり得るのです」
ジャパン・ソサエティーの使命
「われわれには素晴らしい日本の価値を紹介していく使命があり、日々、文化や芸術に触れ学ぶ機会を提供しています。日米にはわれわれの祖父の代が敵同士となり、悲惨な歴史がありますが、努力をして現在のような友好国になったわけです。この友好関係は当たり前ではなく、今後も努力して守っていかねばなりません」
2020年、世界中が新型コロナウイルスのパンデミックになると、ジャパン・ソサエティーは日本がこれまでどのように、3.11東日本大震災のような大規模災害に対処してきたかといったことも米国に紹介している。日本が世界にアピールすることはまだたくさんあると言う。
「NYは世界中のものが集まるグローバルステージですから、当地でアピールできたら世界へアピールしたも同然です。アメリカ人にとって、あそこに行けば日本とつながる何かがある、日米の絆が感じられる、そのような場所であってほしい。われわれはそう願っています」
バナー写真:ジャパン・ソサエティーのオフィスにて。理事長のジョシュア・W・ウォーカーさん ©Kasumi Abe