ニッポンの異国料理を訪ねて:誰かが喜ぶなら、炊き出しでもフットサル大会でも―東京・新中野のチリ料理店「カサ・デ・エドゥアルド」

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熊崎 敬 【Profile】

日本の日常にすっかり溶け込んだ異国の料理店。だが、そもそも彼らはなぜ、極東の島国で商いをしているのか──。東京・中野区、地下鉄新中野駅近くに、日本語、スペイン語、英語が飛び交う、にぎやかなチリ料理専門店がある。オーナーシェフの“エド”さんが日本にやって来たのは40年前。初めは通訳として来日した彼が、日本と人々を愛し、ついにはレストランを開くに至った理由とは。

都内唯一のチリ・レストラン

東京メトロ、丸ノ内線「新中野駅」の4番出口を上がると、そこは赤提灯が揺れる懐かしい路地。その中に一風変わった“異国食堂”がある。『カサ・デ・エドゥアルド』、スペイン語で「エドゥアルドさんの家」という意味の、都内唯一のチリ・レストランだ。

この店の名物はアサードとエンパナーダ。

アサードというのは炭火で行うバーベキューのことで、南米の人々は週末になると家族や仲間が集って、一日中これをやりながらゆったりと過ごすのが習わし。基本的に男性が肉を焼き、女性は飲み物や付け合わせを準備するというように、役割分担が決まっているらしい。

「ぼくもね、子どもの頃に炭火の扱いを任されてね」と、慣れた手つきで火を起こすのはチリ人のオーナーシェフ、エドさんことエドゥアルドさん。網の上で焼かれるのは、香り高いハーブ、オレガノをまぶしたウルグアイ産ビーフ。絶妙な塩加減とオレガノの香りに食欲をそそられ、肉塊があっという間に胃袋に収まった。

もうひとつの名物、エンパナーダも試してほしい。この南米風ミートパイにはひき肉、オリーブ、ゆで卵などがぎっしり詰まっていて、サクサクした生地からジューシーな肉汁があふれ出す。この一品が好きで、店に通う人も少なくないという。

日本ではなかなか味わえないチリの家庭料理を楽しめる店は、お客さんの顔ぶれも多彩。和気あいあいとした店内では、今日も日本語、スペイン語、英語など、さまざまな言語が飛び交う。

「この店はレストランというより、ぼくの家みたいなもの。お客さんはみんな、友だちの家に遊びに来るような気分で足を運んでくれるんだ」

そう言いながら西日が照りつける中で炭火を巧みに操るエドさん。日本での暮らしは、来年で40年目を迎える。

店の名物・エンパナーダ。チリならではの調味料ペブレの酸味が肉汁に絶妙に絡んで食が進む 筆者撮影
店の名物・エンパナーダ。チリならではの調味料ペブレの酸味が肉汁に絶妙に絡んで食が進む 筆者撮影

エドさんがはるか遠い日本にやって来たのは、インターネットが影も形もなかった1983年のこと。なにか切羽詰まった事情でもあったのだろうか。

想像を膨らませる筆者に、エドさんは笑いながら言った。

「いやいや、日本に来たのはたまたま新聞で日本での求人を見つけたから。27歳とまだ若く、冒険がしたかったぼくは、“これは面白そうだ!”と思ってすぐに応募して試験を受けたんだ。大変な倍率だったけど運よく合格して、3週間後には日本で暮らし始めていたんだよね」

朝の連続テレビ小説『おしん』が話題となっていた当時の日本で、エドさんが従事したのは電子通信事業の翻訳作業。ネイティブのスペイン語と得意な英語を駆使して働き始めたが、思ったような成果は出せなかった。

「翻訳っていうのはかなり難しくて、しゃべりができればオッケーというわけじゃないんですよ。だからよくミスをしてね。大企業から依頼される仕事だから、ちょっとしたミスでも結構罰金を取られる。だから、3カ月が経って会社に“あなた使えないから、チリに帰ってください”と言われちゃって」

チリに帰れば彼女が待っていて、おそらくは前の仕事にも復帰できる。だが彼は、日本に残った。厳しい競争を勝ち抜いてつかんだ日本へのチケットを、すぐ手放すなんてもったいない。それになによりお払い箱のような形で祖国に帰るなんて、プライドが許さなかったからだ。

日本に残ったエドさんはモデルをしながら生活費を稼ぎ、やがてJICA(独立行政法人国際協力機構)の仕事を見つける。長野県駒ケ根市に移り住み、海外に派遣される協力隊の人々にスペイン語を教える仕事を始めた。

この間エドさんは、貪欲に副業として翻訳業も始めたため、寝る間もないほど忙しくなってしまった。「これじゃあ倒れてしまう」と思った彼は早々にJICAを退職。東京に戻って自分の会社を立ち上げ、翻訳業に専念することにした。かつての失敗を糧にした彼は優秀な翻訳家として引く手あまたとなり、会社はすぐに軌道に乗る。

エドさんが、いたずらっぽく笑いながら言う。

「一番のクライアントはね、3カ月でぼくをクビにした会社。“もう一度帰ってきてくれない?”なんてお願いされたけど、戻らなかったね。だってぼくは、ひとりで好きなように働きたかったから」

ちょっとした思いつきで、日本にやって来たエドさん。一度はお払い箱にされながら異国で道を切り拓くことができたのは、尽きることのない行動力があったからだ。

店頭のバーベキューグリルでアサードを焼き上げるエドさん 筆者撮影
店頭のバーベキューグリルでアサードを焼き上げるエドさん 筆者撮影

中南米出身者の評判を変えたい

翻訳業に打ち込みながら、プライベートでもやりたいことを思う存分やった。そのひとつが、Jリーグ開幕前年の1992年に立ち上げたフットサル大会。その名も「コパ・チレ(チリ杯)」。

「あの頃の日本はバブル期で労働力が足りなくて、中南米から多くの日系人を受け入れた。でも彼らは“不良だ”とか“ルールを守らない”なんて評判が悪くて、ぼくは南米人のひとりとして、そういうのを変えたいと思った。そこで彼らが得意なサッカー大会をすることにしたんだ」

思い立ったら、迷わず突き進むのがエド流。友人のツテを頼って都内の大学のグラウンドを確保し、日にちを決めてチーム集めをしたところ、なんと17カ国32チームが集まった。“ホスト国”日本勢が16チーム、加えてチリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、コロンビアといった南米勢に、ヨーロッパのイングランド、アイルランド、イタリアなど、海外16カ国のチームが名乗りを上げたのだ。

これで勢いづいたエドさんは、全チームの集合写真を掲載したオールカラーのパンフを製作。各国大使館や大学関係者、友人のラモス瑠偉さん(ブラジル出身の元サッカー日本代表選手)などをゲストに招き、さらにはイースター島の民族舞踊などチリの文化を披露する場を設けるなど、できる準備をすべてやって当日を迎えた。

土日の2日間で優勝を決めるトーナメントは、国別対抗ということもあって白熱。優勝候補ブラジルが劣勢になると、「これはまずい!」とラモスさんが緊急参戦してプロの技を見せつけるなど、大会は大いに盛り上がった。しかも大会後には渋谷のシアターを借りて、表彰式を兼ねたパーティを開催。コパ・チレは第1回大会から大成功のうちに幕を閉じた。ただひとつの誤算を除いては。

「そう。やりたいことを全部やったおかげで、終わってみたら借金が残ってね。50万円も。“やっちゃったなー!”と思ったけど、みんなが喜ぶから翌年もやったら、また借金。さすがに2年で足を洗おうと思ったら、みんなに止められたよ。“楽しみにしてる人がいっぱいいるから、やめちゃダメだ”って。だから3年目からは仲間たちと大会を運営することにして、みんなで借金を分かち合ったんだ」

フットサルを通じた国際交流の場、コパ・チレは多くの人たちに愛され、実に25年も続いた。

「コパ・チレ」には主催者として関わるエドさんだが、フットサル、フルコート問わず自身もプレーするのが大好きだという エドゥアルド氏提供
「コパ・チレ」には主催者として関わるエドさんだが、フットサル、フルコート問わず自身もプレーするのが大好きだという エドゥアルド氏提供

レストラン開業のきっかけは東日本大震災

思いついたら動き出す、そんなスタイルで人生たくましく切り拓いてきたエドさん。飲食業を始めたのにも、そんな彼らしいストーリーがあった。

来日28年目となった2011年、日本は東日本大震災に見舞われる。大地震の直後、祖国チリのテレビ局からエドさんのもとに一本の電話がかかってきた。

「すぐにリポーターを日本に派遣するから、彼らを被災地に案内してほしい」

エドさんは二つ返事で引き受け、リポーターたちと空港で落ち合うと、レンタカーでひたすら北へ向かった。

「福島原発の近くに行って撮影したら、その翌日に爆発したんです。で、福島を抜けて仙台にたどり着いて、港の撮影をしたところで終わりかなと思ったら、テレビ局から“もっと北に行ってほしい”と言われて、状況が分からないまま車を走らせました。封鎖された道や浸水なんかで寸断された道もあったけど、従軍記者の経験もあるリポーターたちと強引に山を越えたりして、結局南三陸まで行くことができたんです」

撮影を終えた一行はガソリンの給油待ちをしながら、仙台から山形へ、山形から新潟を経由して帰京。リポーターたちはチリへ帰り、エドさんは無事にミッションを完了した。だが彼が底力を見せるのは、ここから。東京で束の間の休息を取ったエドさんは、仲間たちに声を掛けてゴルフに出掛けた。チャリティーコンペを開催してお金を集め、肉や野菜を大量に買い込んで仲間たちと東北に向かったのだ。

「南三陸町にもう一度行って、今度は炊き出しをしました。肉を焼いてアサードをしたり、スペイン料理のパエージャを作ったり。避難所の人はもちろん、自衛隊のみなさんも行列に並んで、おいしいおいしいと言って食べてくれたよ」

2011年の震災直後には、南三陸町を何度も訪れ、得意料理のパエージャを振る舞った エドゥアルド氏提供
2011年の震災直後には、南三陸町を何度も訪れ、得意料理のパエージャを振る舞った エドゥアルド氏提供

コパ・チレがそうだったように、お金は二の次。やりたいことは迷わずやる。喜んでくれる人がいればなおさらやる。この年、エドさんは気心知れた仲間たちと7回も南三陸に出掛け、炊き出しを行なった。そしてこの時の経験が、飲食店のオープンへとつながる。

「自分の作った料理を、みんなが心から喜んで食べてくれる。こんなに幸せなことってないなあ、そう思って2012年にスペイン人の友だちと一緒に、赤坂に店を出したんです。1年後には友だちが忙しくなって離れたので、14年にひとりで新中野に移りました。翻訳業はいまもやっていますよ。店は忙しいですが、やりくりがつくので仕込みの合間にテラスでやったりしてね」

人懐こいエドさんのキャラもあって、店は新中野の名物となった。「江戸の店」と背中に書かれたシャツを着て炭火を起こすエドさんに、通りがかりの住民や近隣の店の人たちから次々と声が掛かる。

「来日した時は40歳になったらチリに帰ろうと思ったけど、気がついたら60代になっちゃった。いまはコロナで大変だけど、長く日本で人生をつくってきたから、75歳まではこの国でがんばろうと思っているよ。中野の人は親切だし、たくさんの人がお店に来てくれるからね」

たまたまやって来た日本で人生を謳歌(おうか)するエドさん。思い立ったら動いてみる人生のその先には、今後も思いもよらない展開が待っているかもしれない。

チリ料理『カサ・デ・エドゥアルド』 筆者撮影   東京都中野区中央4-1-8 電話:090-6508-4649 営業時間:11時〜24時(ランチは要予約) 年中無休 地下鉄新中野駅から徒歩1分
チリ料理『カサ・デ・エドゥアルド』 筆者撮影
東京都中野区中央4-1-8 電話:090-6508-4649 営業時間:11時〜24時(ランチは要予約) 年中無休 地下鉄新中野駅から徒歩1分

バナー写真:人懐っこい表情で笑うエドさん。日本での暮らしが長いこともあり、日本語はペラペラだ 筆者撮影

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    東日本大震災 南三陸町 中野区 ニッポンの異国料理を訪ねて

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    フリーライター。1971年1月生まれ、岐阜県出身。明治大学を卒業後、サッカー専門誌の編集者となり、2000年フリーランスに。サッカーを中心に、野球、ラグビー、麻雀、エスニック料理など幅広いジャンルを取材・執筆。『サッカーことばランド』(共著・ころから)ほか著書多数。

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