日中国交回復50年:田中角栄に訪中を決断させた「極秘文書」

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田中角栄は、首相就任わずか85日で日中国交回復という偉業をなし遂げた。その裏に、田中に訪中を決断させた「極秘文書」の存在があったことは、一般にはあまり知られていない。日中国交正常化50年を機に、あらためて当時の外交交渉の舞台裏を振り返ってみたい。

束になった52枚のコピー

コクヨ製の27行の罫線の入った用紙に、びっしりと文字が書き込まれている。全部で52枚。1972年7月27日から29日にかけて、北京の人民大会堂で行われた周恩来首相(当時)と公明党の竹入義勝委員長(同)との会談記録だった。それは長い間、極秘文書として外務省に眠っていた。情報公開されたのは国交回復から30年後のことである。

今の習近平の中国は、世界第2位の経済力と強大な軍事力を背景に、外交交渉では強硬路線を貫き、互いに歩み寄ろうという姿勢はない。50年前はどうであったか。

1972年9月29日、北京を訪問した田中角栄首相(当時)は、日中共同声明に調印。中華人民共和国との間に国交正常化を実現させた。それまで、中国は台湾寄りの佐藤栄作政権を軍国主義と猛烈に批判していた。そもそも首相に就任して間もない田中に、国交回復の道筋は見えていたのだろうか。

私がその極秘文書を入手したのは、2002年のことである。私は束になったその文書のコピーを携えて、当時、神戸製鋼特別顧問だった橋本恕(ひろし)(1926~2014)を訪ねた。同氏は、東大法学部を卒業後、1953年外務省に入省。アジア局長、駐シンガポール大使を経て駐中国大使を最後に1993年に外務省を退官していた。

橋本は、佐藤栄作政権の末期から外務省アジア局中国課長を務め、田中政権になってからも都合、6年間その任にあった。当時の日中交渉の舞台裏を最も良く知る人物である。

橋本は、開口一番、こう語った。
「大臣室に呼ばれた私は、この文書を大平正芳外務大臣(当時)から『検討してみてくれ』と直接渡されました。分厚い資料で、なかなか達筆な字で書かれていた。一読して、私は、これなら国交回復はできると確信したのです」

厳格な人柄を思わせる橋本の話ぶりには、よどみがなかった。かつて心血を注いだ交渉時の記憶は鮮明だった。
「でも、当時は大平さんから『事務次官にも言うな』と秘密主義を徹底されていましたから、私はこの書類が何かの間違いで流出したり、その中身が記者に漏れでもしたら大変だと思い、すぐにキャビネットにしまい込み、厳重にカギをかけて保管したことを覚えています。それぐらい、この文書が持つ意味は大きかったということです」

当時の自民党の国会議員は、元首相の岸信介を代表に親台湾派が多数を占めていた。外務省の親玉、事務次官の法眼晋作も親台湾派だったのだから、大平外相も橋本に口止めするわけである。1972年7月、佐藤栄作の後継を福田赳夫と争った田中は、大平正芳、三木武夫と3派連合を形成し、総裁選を勝ち抜くが、3者で「日中国交回復を行う」という政策協定を結んでいたものの、まだその機は熟していなかった。

ところが急転直下、日中交渉が動き出す。結論から言えば、この極秘文書は、田中が訪中の決意を固める上で決定的な拠り所になったのである。では、この文書は、どうやって政府首脳にもたらされたのか。そして、田中や大平、橋本を唸らせたその内容とは、いかなるものだったのか。

「内閣なんか吹っ飛んじまうよ」

私がこの極秘文書の存在を知ったのは、当の竹入元委員長からであった。日中国交回復30年の節目にむけて、ある雑誌で特別読物を執筆するに際し、竹入に相談したところ、この文書のコピーを手渡されたのだ。それより以前から、私はたびたび氏の私邸を訪ね、懇意にしてもらっていた。竹入は、田中訪中に至る経緯を詳細に説明してくれた。

国交回復より2カ月前の7月23日夜、竹入は密かに目白の田中角栄邸を訪れた。ふたりは個人的にも親しい関係だった。少し解説しておけば、竹入は戦後、国鉄職員から東京都議を経て、公明党が国政に進出した1967年の衆議院総選挙で初当選。結党以来、党の要職を占め、代議士になると同時に委員長に就任した。叩き上げの苦労人であり、自説を曲げない武骨な政治家である。田中角栄の経歴は周知の通りだが、苦労人同士、互いに気脈の通じるところがあったのであろう。

その田中邸訪問の1週間ほど前、竹入は中国から北京訪問を打診されていた。前年6月にも訪中し、首相だった周恩来と会談していたが、「今度の訪中は、国交正常化交渉の話になるだろう」と竹入は踏んでいた。

田中邸の応接室に通された竹入は、早々に要件を切り出した。
「今度、北京へ行くことになった。ついては、竹入という男を私も信用している旨、一筆書いてくれないか」
竹入にしてみれば、国交回復の話をする以上、特使的な意味合いで、総理のお墨付きがほしかった。だが、田中は即座に断った。

「行くなら、行ってこい。だけど紹介状は書けないよ」
竹入は憮然(ぶぜん)として言った。
「お前さん、本気で中国をやる気があるのか?」
「中国をやる気は全然ないよ。おれは総理になったばかりだ。今、中国なんかやってみろ。内閣なんか吹っ飛んじまうよ。紹介状なんかとんでもない」
密談は決裂した。

3回にわたる周恩来・竹入会談

その2日後の7月25日、竹入と大久保直彦副書記長、正木良明政審会長ら公明党代表団は北京に飛び立った。このとき田中角栄は54歳の史上最年少総理。竹入も46歳の若さであった。

今回の訪中に際して、竹入らは国交回復の条件として10数項目の要望を中国側に伝えるつもりで草案を用意していた。竹入にしてみれば、正式な特使ではないから相手が蹴るのであればそれもよし。とりあえず日本政府が主張するであろう条件を先方に伝えさえすればよいというほどの腹積りであった。日本がどうしても譲れないのは、日米安保条約は破棄できない、台湾との関係はいきなり断交するわけにはいかない、の2点だった。

27日午後4時から、第1回目の周恩来・竹入会談が開かれた。
いきなりの周恩来の発言に、一行は驚かされた。
「毛沢東主席は、賠償請求権を放棄すると言っています」
日本側は息を呑んでその言葉に聞きいった。竹入らが事前に用意していた草案では、賠償請求については触れなかった。当然、中国側は戦時賠償を要求してくると思い込んでいたのである。

「中国は、相当日本に譲歩してくるぞ」それが竹入の抱いた感触だった。初日、2日目の会談で、中国側の反応は日本の要望を聞き入れようとするものだった。中国が一番こだわっていたのは、「中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府」と日本が認めることだった。最終日となった29日、晩餐会後の午後7時半から始まった会談冒頭で、周恩来はこう話し始めた。
「これから話す中国の考え方は、毛沢東主席の批准を受けたものです」
続けて周恩来は、田中に9月中の訪中を促し、8項目にわたる日中共同声明の草案を示した。それは、竹入らが考えていた草案をほぼ受け入れた内容だった。周恩来は、日中共同声明では日米安保条約や日華平和条約には触れないと明言したのである。

日本側は一字一句、間違いのないように中国側の通訳に確認を取りながら周恩来の言葉を書き留めた。これが後に、日中共同声明の原案となる有名な「竹入メモ」である。最後に周恩来はこう言って、竹入との会談を締めくくった。
「なお、3回にわたる会談の内容は、すべて重要でありますので、田中首相、大平外相以外は、完全に秘密を守ってください。私たちの方も秘密を守ります。すべて竹入先生を信頼して申し上げたことです」

竹入らは帰りに立ち寄った香港のホテルで、2日間かけて周恩来との会談記録と草案メモを清書した。達筆な文字で筆を取ったのは政審会長の正木良明だったという。周恩来は竹入にメッセージを託した。田中と竹入の個人的な信頼関係に目をつけてのことであっただろう。

「おれは北京に行くぞ!」

竹入は、帰国した翌日の8月4日に首相官邸を訪れ、田中と大平に会談記録と共同声明の草案メモを手渡した。5日午後、ホテルニューオータニの一室で、田中と竹入は2人きりで向き合った。そのときの様子はこうだ。

訪中から帰国した公明党の竹入義勝委員長(右)と会談する田中角栄首相(中央)。左端は大平正芳外相(東京・首相官邸、1972年8月4日)=時事
訪中から帰国した公明党の竹入義勝委員長(右)と会談する田中角栄首相(中央)。左端は大平正芳外相(東京・首相官邸、1972年8月4日)=時事

「あれ、これから読ませてもらうよ」
田中は52枚におよぶ会談記録を取り出すと、ゆっくりページをめくり始めた。田中は2度読んだ。そして開口一番にこう言った。
「おまえ、日本人だな?」
竹入が中国に騙されていないか疑ったのである。
「何ふざけたこと言ってんだ」
「ここに書いてあることは間違いないか」
草案を記した「竹入メモ」を示して再度念を押す。
「中国側とも一字一句確認した。絶対に間違いない」
田中はしばらく考え込んだ後、こう言った。
「おれは北京へ行くぞ!」
まさに、田中が訪中の決意を固めた瞬間だった。

竹入は周恩来との間で、ある合図を決めていた。田中が訪中を承諾した場合には、「秋に予定されている廖承志(中日友好協会会長)の大型訪日団は延期になった」と公表すること。国会の記者クラブに駆け込んだ竹入は、その通りに記者発表したのだった。

周恩来からの密使

中国課長の橋本は、大平から「竹入メモ」と会談記録を受け取った。それより先、橋本には日中交渉が進む予感があった。周恩来は密使を日本に送り込んでいたのだ。田中内閣発足の3日後、孫平化(当時中日友好協会副秘書長)を団長とする上海舞劇団が来日した。その数日後、橋本は情報源の一人から、「孫を大平外相に会わせてほしい。打ち合わせしたいことがある」と打診されたという。

孫の意向を確かめる必要がある。橋本は、中国側が指定したホテルニューオータニの一室を密かに訪ねた。待ち受けていたのは孫ではなく、舞劇団にまぎれて中国共産党から派遣された唐家璇(のちの外相)ら2名だった。唐は言った。

「周総理の極秘のメッセージを持ってきています。是非とも大平外相にお伝えしたい。その段取りをつけていただけないか」

橋本から伝え聞いた大平は了承した。問題は密会場所である。大臣スケジュールは事前に記者クラブに張り出すことになっていた。記者の目をごまかすために、大平行きつけのホテルニューオータニにある床屋に行く予定を入れた。当日、大平と橋本は怪しまれないようにひとまず床屋に入った。周囲の様子をうかがい、別々にエレベーターに乗り込むと、目指すスイートルームへと急いだ。

部屋には孫平化が一人で待っていた。日本語が堪能な孫は、周恩来のメッセージを口頭で伝えた。
「周総理は、田中角栄氏が首相になられたこと、田中内閣の成立を心から喜んでおります。また、田中総理の日中国交正常化の姿勢も評価しており、よき隣人として、善隣友好関係を築き上げるために、できるだけ早く中国をご訪問くださいと申しております」

橋本は、中国が国交正常化に前向きである感触はつかんだ。しかしなお、中国は国交回復の前提としてどんな難題を突き付けてくるのかはわからなかった。そうした懸念を一掃したのが、「竹入メモ」と52枚の会談記録だったのである。

橋本はこう語った。
「この文章の最大のポイントは、『日米安保条約を認める』『中国は賠償を求めない』と中国側が言明していることです。はっきり言って予想外でした。中国が建国されてから当時まで23年間、周恩来をはじめ要人には会ったことがなく、中国に行くという大方針は変わらないものの、行ったところでどうなるか全く未知数でした。しかし、このメモを見た時に、安心感を持つと同時に、これなら話し合いができる、ひょっとするとうまくいくかもしれないという気持ちになったのです」

「2人が日中双方のトップにいたという偶然も・・・」

田中角栄はどうして国交回復を成し遂げることができたのか。それは当時の国際情勢の後押しがあったからである。中国は1969年中ソ国境でソ連と軍事衝突し、中ソ対立は抜き差しならない危機的状況になっていた。国内に目を向ければ、中国共産党は権力闘争に明け暮れ、その影響で経済は破綻していた。

他方、アメリカはベトナム戦争の泥濘に足を取られている。いまや中国にとって最大の脅威はソ連となった。ここに米中接近の余地があった。1971年7月、キッシンジャー大統領補佐官の極秘訪中によって、ニクソン大統領の訪中が発表された。世にいう「ニクソンショック」である。

アメリカが中国と接近するならば、対米追随の日本も国交回復が可能である。中国にとっても、国内経済を再建するためには日本の経済力は魅力であった。事実、国交回復後、日本は積極的に経済支援を行った。しかし、このときの首相が田中角栄であったからこそ、国交回復が早期に実現したのであろう。

当時、外務省から出向し、田中の総理秘書官として訪中に同行した木内昭胤(元駐フランス特命全権大使)はこう語っていた。
「田中さん本人は、中国そのものをよく知っていたわけではありません。向こうに乗り込んで、周恩来と会って、そこで初めて『この人となら、うまくやれる』という感触を抱いたのだと思います。周恩来と田中さんは、すっかり意気投合しました。これは30年経った今だから言えることですが、この2人が日中双方のトップにいたという偶然も日本にとって幸いしたのです」

いまや米中は再び激しく対立する関係になっている。そして日本も米国に追随する。日中国交正常化から50年。当時の蜜月関係と比べて、習近平と日本の政治指導者との距離はあまりにも遠くなってしまったといえるだろう。(文中敬称略)

バナー写真:1972年9月29日、北京の人民大会堂で日中共同声明に調印、中国首相の周恩来(右)と文書を交換する首相田中角栄(共同)

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