日本人の霊魂観―幽霊と「モノノケ」の系譜をたどる

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「幽霊」と聞くと、足がなく、「恨めしや~」という怨念のこもった言葉と共に現れるイメージが思い浮かぶ。だが、幽霊が恐れられるようになるのは、近世に入ってからだ。現世の人間と霊の「交流」が盛んだった古代・中世の日本では、幽霊は主に死者の魂を指し、祟る(たたる)ことはなく、姿を現さなかった。宗教史学者の小山聡子氏に、日本人が死と霊魂をどのように認識してきたかについて聞いた。

小山 聡子 KOYAMA Satoko

二松学舎大学文学部教授。1976年生まれ。専門は日本宗教史。2003年、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科修了。博士(学術)。主な著書に『往生際の日本史―人はいかに死を迎えてきたのか』(春秋社、2019年)、『もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書、2020年)。共編著に『幽霊の歴史文化学』(思文閣出版、2019年)

「幽霊」という言葉は、いつ史料に登場したのだろうか。通説では、室町時代前期、世阿弥(1363~1443)が「幽霊」という「新語」を能に導入したとされているが、小山氏は異を唱える。「幽霊を目に見える形で表象したのが世阿弥の独創性です。ただ、言葉としての史料上の初見は、747年、奈良時代の僧、玄昉(げんぼう)の成仏を願う弟子が書いた願文(がんもん­=神仏への願意を述べた文書)です」

玄昉は学問僧として入唐した経験を持つ。聖武天皇からの信任が厚かったが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の台頭によって失脚。745年九州の筑前国に左遷され、翌年死去した。在唐中の玄昉に教えを受け、その帰国に随従した唐僧の善意は、師の一周忌に大般若経六百巻を写経した。その願文に玄昉の霊魂を指して「幽霊」という言葉を使っている。

古代・中世を通じて、幽霊は死者の霊魂、時には故人を指すこともあり、人間に祟る性質は持たず、追善供養の文脈で使われることが多かった。悪さをするのは、怨霊や悪霊、「モノノケ」として区別されていたのだ。

さまよう霊魂と怨霊

小山氏によれば、古代の日本では、中国と同様に、人間は肉体と魂(霊)から成っていると考えられていた。霊魂は体からしばしば抜け出ては帰ってくるもので、霊魂が体に戻れない状態になると死とみなされる。

「魂が浮遊している状態が人魂(ひとだま)で、オタマジャクシのように丸くてしっぽがある形状でイメージされていました。魂を体に戻して死を避けようと、陰陽師が呪術で魂を戻す招魂祭を行ったりしました。また、古代の霊は人間にはないパワーを持ち、に近いものとして捉えられていました。実際、先祖霊は子孫を守護するとも考えられていたのです」

『和漢三才図会』巻五八「火類」から(国立国会図書館デジタルコレクション)
『和漢三才図会』巻五八「火類」から(国立国会図書館デジタルコレクション)

霊魂が去った後の「カラ」である遺体、もしくは遺骨は特に重視されなかった。

「庶民の遺体は風葬で、貴族や僧侶は火葬が多いです。貴族には一族の墓所がありましたが、墓参りには行きません。例えば、時の権力者、藤原道長(966~1027)でも、名前を記した墓はありませんでした。藤原一族の墓だからといって、きちんと整備はされなかったわけです。先祖を大事にする一方で、骨への関心は現代と比較すると希薄でした」

「体に戻れない霊魂は、うまくすれば浄土へ行きますが、妄念、執着などを持ったまま死んだ場合には、この世をさまよい、悪さをします。特に疫病や天災など、社会的に大きな災いをもたらすと考えられた霊魂は『怨霊』として恐れられ、鎮魂の対象とされました。代表的なのが、非業の死を遂げた菅原道真や平将門です」

病の原因「モノノケ」を調伏する

「10世紀半ばから、『モノノケ』という言葉が登場しました。当時は『物気』と書き、正体が定かではない死霊の気配、または死霊を意味しました」(小山)

往生できないと、モノノケとして生前に怨念を抱いた人間に近寄り、病気にさせ、時に死をもたらす。怨霊が社会に大きな影響を及ぼすのに対し、被害は個人やその近親者に限定される傾向がある。

10世紀の貴族社会では、病気を治療する際、陰陽師、医師、僧が協力して治療に当たった。まず陰陽師の占いで病気の原因が分かると、治療法が決まる。

「原因がモノノケの場合、僧侶の加持(印契=いんげい=や真言などを用い、超自然的な力で変化を引き起こす)などによって『ヨリマシ』(霊媒)に憑依(ひょうい)させます。霊が『成仏させてください』とヨリマシの言葉を通じて訴え、その言葉を信頼して、供養することもありました。ただし、だまされて逆に病人が殺されてしまう危険もあるのです。ヨリマシを介した駆け引きでした。多くの場合、調伏(ちょうぶく=正体などを白状させ屈服させること)し、うまくいけば、病は治るというわけです」

調伏の場面が詳しく描かれた平安文学の代表が、『源氏物語』だ。光源氏の妻、紫の上を苦しませたモノノケの正体は、若かりし頃の恋人、六条御息所の死霊だった。光源氏への愛執のあまり成仏できなかったと告白した御息所の霊は、調伏されるのは苦しいから供養してほしいと懇願する。ところが、源氏は同情するどころか、さらに大々的に調伏を続け、痛めつけて退散させようとするのだ。

「モノノケを調伏した結果、その正体があがめるべき霊や神である場合には、要求に従ったり、祭ったり、供養したりしました。逆に、そうでなければ、さらに調伏を続けます」

囲碁とすごろくで病を退治

モノノケの調伏による病気治療には、日本独自の多様性が見られたと、小山氏は言う。

「中国では基本的に道教の術を使いますが、日本では、仏教の術を用いました。仏教は中国を経て伝わったものですから、当然中国思想に影響されてはいます。ただ、面白いのは、12世紀以降、囲碁、すごろく、将棋などを、モノノケ調伏に使うことがあったことです。中国伝来のゲームですが、私の知る限り、中国にはモノノケ退治に使った事例がありません」

「碁石やサイコロを盤に打ち付ける音が、調伏に効果があると思われたのかもしれません」

もともと囲碁やすごろくは、占いや儀式に用いられていたが、病気治療やモノノケ調伏にも利用されていたことは、さまざまな史料から分かる。例えば、モノノケによる病を患った後白河法皇が、病気を治すために夜通しすごろくをしたという記録がある。また、13世紀になると、「物付」(ものつき=ヨリマシを専門とする巫女(みこ)など)が、囲碁盤を用いることが、有職故実(ゆうそくこじつ)の書(宮中の行事・儀式・制度などの解説書)に記されるようになった。

「モノノケ」化して娯楽になった幽霊

古代末期以降、骨と霊の結び付きが次第に密接になっていき、墓が霊の居場所だという感覚が生まれた。墓参りも12世紀前半頃から行われるようになる。近世には、死者は墓に留まるという認識が社会的に浸透した。

12世紀後期になると、モノノケの意味にも変化が見られる。正体が明確な霊を「物の化」と呼ぶ事例があり、姿かたちを持たない「気」ではなく、「化ける」性質を持つ怪しげなものとしてイメージされ始めたことが分かる。

古代・中世の「幽霊」は、死者の魂を指し供養の対象だったのに対し、中世後期(15世紀)から、怨念を持つ霊を「幽霊」と呼ぶ事例が出てくる。「この時代の能『船弁慶』には、怨念を持つ幽霊が登場します。壇ノ浦に沈んだ平知盛の霊が『平知盛幽霊なり』と名乗りを上げて現れ、『義経をも、海に沈めん』と言って、なぎなたを振り回すのです」

供養の対象である幽霊と怨念を持つ幽霊、モノノケ、怨霊、悪霊などの言葉が併存し、重なり合いながら徐々にその違いが曖昧になっていく。

江戸時代には、生前に死者との関係が悪ければ、死者は報復行為に出ると考えられた。怨念を持つ幽霊が多くなり、モノノケと混同されるようになる。同時に、モノノケの表記は「物の怪」が一般的になった。

幽霊を恐がる一方で、江戸時代の人たちは霊の実在に懐疑的だった。そのうえ、比較的平和だったこともあり、大衆は刺激を求め、怪談が娯楽の一つとして大流行し、幽霊画が多く描かれた。その中で幽霊、(古代には「怪異」を意味した)妖怪、お化け、物の怪の言葉の区別が判然としなくなる。

霊への対処も多様に語られるようになり、中には松尾芭蕉が霊魂を発句により成仏させたとする説話もあった(『芭蕉翁行脚怪談袋(ばしょうおうあんぎゃかいだんぶくろ)』)。

江戸時代後期には、幽霊が歌舞伎に登場する話が流行し、浮世絵にも歌舞伎がモチーフの幽霊が多く描かれた。(左)月岡芳年『和漢百物語 下部筆助』/(右)歌川国芳の「浅倉当吾亡霊之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸時代後期には、幽霊が歌舞伎に登場する話が流行し、浮世絵にも歌舞伎がモチーフの幽霊が多く描かれた。(左)月岡芳年『和漢百物語 下部筆助』/(右)歌川国芳の「浅倉当吾亡霊之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

霊魂観の過渡期

二松学舎大学では、数年前に歴史学、メディア学、文学、宗教学などさまざまな分野の研究者たちが、霊魂をテーマに共同研究を行った。小山氏はその中心的なメンバーだ。

「霊魂は、日本人の精神史を考えていく上で重要なテーマです。今まで日本の歴史研究では、経済史と政治史に重きが置かれてきました。また、これまでの幽霊(霊魂)研究は、江戸期の文学作品の分析が中心です。宗教史の文脈で、霊魂が史料の中でどのように記録されているのかに注目するのは、新しい視点です」

江戸時代の「恐い」を娯楽として面白がる風潮は、現代でも同じだ。

「霊を信じてはいないけれど、一応供養はするし、墓参りに行けば、見守っていてね、助けてね、と願い事をします。多くの日本人が心のどこかで、霊には特別なパワーがあると考えている。その意味では、まだ死者と交流し続けていると言えるかもしれません」

「ただ、墓参りに行かなくてもいい、そこに霊はいないと考える風潮は強まっています。樹木葬、散骨などへの抵抗感が薄まり、死んだら骨は自然に還るという考え方が受け入れられています。霊はお墓ではなく別なところにいて、骨と霊が結びつかなくなってきている。遺骨を重視しなかった古代の人間の感覚に近くなっているのかもしれません。現代は、霊魂観の過渡期にあると言えますね。コロナ禍でその傾向は加速したように思います」

共同研究を通じて、歴史学者だけでは見えてこなかった面にも視野が開けたと言う。

「例えば、現代の幽霊は、出現する場所がどんどん変わっています。『リング』の貞子の怨念はビデオテープにこもっていますが、いまはデジタルの時代です。ホラー映画の幽霊はSNSの中に出現するようになりました。ZOOMにも現れますし、LINEに “座敷わらし” が出現したり、フェイスブックやツイッターで死んだ人からメッセージが届いたりするかもしれません」

バナー:KIMASA/PIXTA

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