日露戦争:20世紀初の国家総力戦、大国相手に日本が勝てた理由と世界に与えた影響
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日本国民を襲った「恐露病」
明治時代、日本人の間には「恐露病」という病がまん延していた。ロシア帝国が日本列島に攻めてくるのではないかという恐怖感、当時はそれを恐露病と呼んだのだ。
18世紀になるとロシアは、冬でも海面が凍らない港(不凍港)の獲得を求めて南下政策を始め、やがて江戸幕府に通商を迫る。幕末にはロシアの軍艦が対馬を一時、不法占拠。1855年の日露和親条約で「樺太は日露両国人の雑居地」と定めたのにもかかわらず、明治初期、ロシアは囚人や軍人を送り込んで樺太の日本人居住区に圧迫を加えた。
1891年5月、来日したロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が琵琶湖遊覧から京都へ戻る途中、大津市内で警備の巡査に襲われ負傷する。この大津事件では、明治天皇や松方正義首相が京都に駆けつけ、入院中のニコライを見舞った。また、多くの国民が陳謝の電報や手紙を送り、病室は見舞いの品々で山のようだったという。
さらに、1人の女性が京都府庁前でニコライへの謝罪と天皇の苦衷を思い、かみそりで喉を切って自殺。常軌を逸した過剰反応とはいえ、それくらい日本人は、ロシアが大津事件を口実に宣戦布告するのではないかと恐れたのだ。「いま攻め込まれたら到底かなわない。日本は植民地に転落する」――幸いロシア政府とニコライは日本政府の対応に満足の意を表したが、事件の責任を取って青木周蔵外相らが辞任した。
日英同盟が開戦を後押し
それから3年後の1894年、日清戦争が勃発する。だが、実はこれ、「ロシア対策」が要因で起こった戦争ともいえる。
明治初年より日本は朝鮮に開国を促してきた。朝鮮を近代化させ、共にロシアの南下を防ごうと考えたからである。この動きに朝鮮の宗主国である清朝が反発。対立が高じた結果、戦争となった。
大勝した日本は、下関(日清講和)条約で清に朝鮮を独立国と認めさせ、膨大な賠償金(2億テール=日本円で約3億1000万円、当時の国家歳入の2倍強)に加えて、領土(遼東半島や台湾など)を割譲させた。
日本人は戦勝気分に酔ったが、これに冷や水を浴びせたのがロシアだった。フランスとドイツを誘い「遼東半島を日本が領有するのは極東の平和のために好ましくないので返還すべきだ」と日本政府に申し入れてきたのだ(三国干渉)。
対抗しても勝ち目のない日本は、清に遼東半島を返還。ところが、ロシアは清から遼東半島の大連と旅順を租借する形で支配下に置くと、半島全体に影響力を行使し始める。さらに、ロシア軍は清の反乱(北清事変)に乗じて出兵すると、そのまま満州全土に居座った。
一方、日本の影響下に入るのを嫌った朝鮮政府はロシアに接近。朝鮮公使の三浦梧楼が中心人物である閔妃(びんひ=朝鮮国王・高宗の正妻)を惨殺するが、すると高宗はロシア公使館に逃げ込み、朝鮮政府はロシアから財務・軍事顧問を迎え入れて親露政権を樹立した。
そこで日本は英国政府に働きかけ、1902年、日英同盟を結ぶ。中国やインドにおける利益をロシアにおびやかされていた英国は、日本を支援することでロシアの東アジア進出を抑えたかった。
日本政府は同盟の力を背景に、ロシアの満州支配を認める代わりに朝鮮での日本の指導権を認めさせようとした。この時点では、あくまで外交によって日露間の懸案事項の解決を目指していたのだ。
ところが国民は、大英帝国と軍事同盟が結べたことで主戦論に同調。ロシアが朝鮮北部に基地をつくり始めると、世論は主戦論一辺倒になっていった。
これは、日露の国力の実態を公表しなかった日本政府が招いた結果といえるが、メディア側にも責任はあった。部数を伸ばすため大半の新聞・雑誌が主戦論に転じ、世界各国がロシアの勝利を予測していることは報じず、主戦論をあおったからである。
ただ、反戦・非戦論もわずかながらあったことを付言しておく。たとえば、内村鑑三はキリスト教の人道的立場から、幸徳秋水と堺利彦は社会主義の立場から戦争に反対した。幸徳は開戦論に転じた日刊紙、万朝報(よろずちょうほう)を退社して平民社を創設すると、日露戦争が始まってからも平民新聞を発行して反戦論を説いた。与謝野晶子も戦時下、文芸誌『明星』に反戦詩「君死にたまふこと勿(なか)れ」を発表している。
崩れた短期決着のシナリオ
ともあれ、世論の後押しも受けて軍は1903年秋あたりから開戦を決意。翌04年2月、日露交渉が決裂すると日本はロシアに宣戦布告する。
しかし、直前まで戦争に反対していた明治天皇は、「今回の戦争は私の意志ではない。が、ここに至っては、致し方ない。もし敗北すればどう祖霊にお詫びし、国民に対することができようか」と涙を流したという。天皇をはじめ政府や軍の首脳部は、“真っ向勝負”ではロシアに勝てないことを分かっていた。
そこで軍は、次のような戦略を立てた。戦争期間は1年程度。緒戦で日本の連合艦隊がロシアの太平洋艦隊を奇襲、殲滅する。同時に日本陸軍は、ロシア陸軍が極東に兵力を集中させる前に、満州の遼陽で相手を全力でたたく。こうして短期決戦でロシア政府の戦意を喪失させ、早期講和に持ち込む――裏返して言えば、はっきりとした勝算も、戦費のメドも立たないまま大国ロシアとの戦争に突入したわけだ。
だが、短期決戦などとんでもない幻想だった。遼陽会戦では勝利したものの5300人超の戦死者を出し、ロシア軍に逃げられてしまう。さらにロシアの太平洋艦隊の撃滅にも失敗し、旅順港に逃げ込まれた。
旅順港は多くの大砲で武装されており海側からは近づけなかった。そこで海軍は、陸軍に攻撃を要請する。だが、街はコンクリートで要塞化されており、攻略に多くの月日と犠牲を要した。なお、旅順攻囲戦は、主に塹壕(ざんごう)を用いた戦いであり、二十八珊榴弾砲、機関銃、速射砲、手榴弾、野砲などが登場。その意味では、10年後の第一次世界大戦の“ひな型”が生まれた戦いとも言えた。
その後、陸軍はどうにか各戦に勝利しつつ北上し、奉天においてロシア陸軍に決戦を挑む。この奉天会戦では、約10日間にわたり60万人もの日露の将兵が激突。日本軍は勝利したものの、7万人の死傷者を出し、逃げるロシア軍を追う兵力も武器弾薬も尽きた状態だった。
「賠償金ゼロ」に激怒した民衆
日露戦争の戦費は約17億円に上った。うち公債は13億5000万円。その約3分の2は外債だった。これは、日本銀行副総裁の高橋是清が英国に渡って外債募集したもの。ある意味、日露戦争は英米など外国からの借金で賄った戦争だった。
日本が戦争を何とか優位に進められた背景には、同盟国の英国の協力が大きい。外債購入などの経済的支援に加え、英国政府は貴重な情報を提供してくれた。さらにバルチック艦隊に対しては、英国が支配するスエズ運河を使用させず、英国の植民地での石炭補給も禁じた。これが、日本海海戦勝利の要因の一つになった。
もちろん、日本国民も全面的に戦争に協力した。100万人以上の兵士が出征したが、相次ぐ増税に耐え、国家のために郵便貯金や献金にも励んだ。
一方、ロシア皇帝ニコライ2世の戦意は、奉天会戦後も衰えていなかった。だが、1905年5月、バルチック艦隊が日本海海戦で全滅すると、ようやく講和に乗り気になる。ロシアでは、サンクトペテルブルクで皇帝軍と労働者のデモ隊が激突した「血の日曜日事件」が発端となり、各地で大規模なストライキや暴動(第一次ロシア革命)が広がっていた。こうした状況もロシア政府が講和交渉に同意する要因となった。
同年9月、米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により日露講和条約(ポーツマス条約)が締結される。ロシアは韓国に対する日本の指導・監督権を認め、旅順・大連の租借権と南樺太を譲ったものの、賠償金は1円も払わなかった。それはある意味当然だった。日本は金も武器も兵も尽きていたが、ロシアにはまだ戦う余力があったからだ。
ところが、国民は納得しなかった。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に10年間も軍拡のために増税に耐えたうえ、戦争で大きな人的犠牲を払ったのだ。このため、講和条約が調印された9月5日、東京の日比谷公園では講和反対集会が開かれ、激怒した人々が内務大臣官邸や交番、政府系新聞社を襲撃(日比谷焼き打ち事件)。暴動は全国に広がり、桂太郎内閣は内閣総辞職に追い込まれた。
アジア諸国の“近代化の目覚め”を生む
20世紀最初の「国家総力戦」となった日露戦争。帝国主義各国の外交政策も関係したことから「第零次世界大戦」と称する学者もいる。この戦争はいったい、日本とロシア、さらに世界的にどのような影響を与えたのか。
日本においては100万人超の将兵が大陸に送り込まれ、9万人近くが戦死・戦病死し、負傷兵の数も15万人以上に達した。
人的損失だけではない。日本は国家として膨大な借金を背負い、戦争の痛手により農村は荒廃し、多くの国民が気力を失った。歌人・石川啄木はこれを「時代閉塞の現状」と呼んだが、国家に対する不信感や家族・村などの共同体統合の崩壊から、社会主義や共産主義、あるいは個人主義や自由主義に傾倒する者も急増した。
復員してきた農民兵士も、戦場で悲惨な体験をしたことで自堕落な生活に陥り、村の風紀を乱すことも多くなった。政府はこうした風潮を正すべく、国民に勤勉や節約を求める「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」を出し、同時に社会・労働運動を取り締まった。ロシアの南下という危機は去ったが、その代償は大きかったのだ。
ロシアでも日本と同規模の戦死・戦病死者が出た。賠償金は支払わなかったものの、領土(樺太南部)は割譲。朝鮮の支配権を日本に奪われ、南下政策を中断せざるを得なくなる。このため外交政策を転換し、1907年に英露協商を結ぶと、汎スラヴ主義を掲げてバルカン半島への進出を開始する。そして、汎ゲルマン主義を唱えるドイツやオーストリア=ハンガリーと対立し、これが第一次世界大戦のトリガー(引き金)となる。
一方、講和条約を仲介した米国は、戦前、日本と満州鉄道の共同経営を約束していたが、これを一方的に日本政府が破棄したことで、対日感情が一気に悪化。日本人移民の排斥運動が起こり、日本が大陸への進出を強めるたびに強く非難するようになる。
ヨーロッパでは、日本の勝利で黄色人種の脅威を説く黄禍論が広まったが、非白人国家・地域では、白人による一方的な世界分割や植民地支配に対し、有色人種による反発や抵抗を誘発。中国の孫文、毛沢東、インドのネルー、ベトナムのホー・チ・ミンなどが日本の勝利に感激して勇気をもらい、それが後に革命運動の意欲につながっていく。
イランでは立憲革命運動が加速し、エジプトでは英国に対する抵抗運動が激化。トルコやフィンランドなどでは反ロシアや反ヨーロッパの国民感情が高まる一方で、日本ブームが起こる。日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎は、ナポレオンのフランス軍を破った英国海軍の名提督になぞらえ「東洋のネルソン」と称えられ、のちに「トーゴー通り」(トルコ)や「トーゴー・ビール」(フィンランド産)なども登場した。
バナー写真:故郷の鹿児島市、錦江湾を見下ろす多賀山公園内に立つ東郷平八郎像。今も鹿児島に海外の軍艦が寄港した折には、海軍服の艦長や乗務員が参拝に訪れるという 時事