日本で「台湾里帰り」気分を味わう:石垣島の土地公と電動レンタルバイクGO SHARE

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新型コロナウイルスの蔓延後、仕事の事情で帰省が困難になった人も少なくないだろう。日本で14年以上働いている姚宣宏(よう・せんこう)さんもその一人だ。姚さんはこの2年半の間、故郷・台湾に帰っていない。こんなに長く帰省しないのは生まれて初めてだという。この望郷の思いをどう満たせばよいのだろう。そこで彼は台湾に近い日本の離島を訪ねることにした。

台湾人が「里帰り気分」になれる沖縄・八重山諸島

コロナ禍前は、筆者は仕事や旅行で日本と台湾を行き来することが多かった。東京から日帰りで台湾に行ったこともあるほどで、2つの地がすぐ近くのように感じていた。

ところが、コロナの流行で2年半以上も台湾に帰れていない。台湾への帰省は突如として、ぜいたくでハードルが高いものになってしまった。日本の感染状況が落ち着いてきたのを見計い、沖縄の離島を訪ねることにした。「台湾に帰れないなら、日本で台湾から一番近い土地に行けば、里帰り気分が味わえるのではないか」と考えたのだ。

頭に浮かんだのは石垣島だった。筆者はすぐに飛行機のチケットと宿を予約して旅立った。新石垣島空港に降り立った瞬間、筆者はなんとも言えない感動に包まれた。蒸し暑く、体にねっとりとまとわりつく潮風、そしてムワッとした空気の独特な香り。これらの感覚が、故郷・台湾の近さを教えてくれる。

石垣島の潮風と湿度は台湾のそれとそう変わらない
石垣島の潮風と湿度は台湾のそれとそう変わらない

八重山諸島は日本最南端の群島である。その地理的な事情から九州以北はもちろん、沖縄本島とさえ異なる歴史を歩んできた。

まずはゆったりした気持ちで石垣島を散策した。島にはパイナップル畑があり、近くの竹富島や由布島には水牛もいて、まるで台湾にいるような錯覚に陥った。実は八重山諸島の水牛のルーツは台湾にある。

日本統治時代、石垣島と台湾の交流は現在より盛んだった。当時、日本領だった台湾から多くの農民が新天地・石垣島の開拓にやって来た。石垣島のパイナップルの栽培技術も、耕作のための水牛も、全て当時の台湾からもたらされた。

石垣島の名蔵ダムのそばには、当時の台湾から石垣島を開墾した農業移住者を記念した「台湾農業者入植顕頌碑」が立つ。

台湾を思い出すレンタルバイク「GO SHARE」

石垣島のひまわりと電動シェアバイク「GO SHARE」
石垣島のひまわりと電動シェアバイク「GO SHARE」

台湾の風情をもっと感じたい。筆者は電動シェアバイク「GO SHARE」を借りた。GO SHAREは現地の交通手段として安くはないが、台湾発のサービスで、石垣島は同サービスの日本唯一の拠点だ。故郷への思いを満たす交通手段だ。この灼熱の島で台湾の電動バイクを借り、蒸し暑い空気の中を走ってみると、故郷を思い出し、台湾にいるような気分になった。島の充電ステーションは多いとは言えないが、それらを含めて、石垣島の全ての風景が筆者のホームシックを癒してくれ、大変満足した。

筆者は電動バイクに乗って名蔵ダムの記念碑に向かった。道中、大雨に襲われても、「ルーツ探し熱」をかき消れることはなかった。海岸から山の方へ30分、気がつくと一面の緑の山に囲まれていた。慣れない山道を何度も登り下りして、ダムのそばの記念碑にたどり着いた。

名蔵ダム横の水牛像と記念碑
名蔵ダム横の水牛像と記念碑

「台湾農業者入植顕頌碑」の横にたたずむ水牛像の可愛らしい姿につい見とれてしまう。水牛の小さな体の後ろには大きな名蔵ダムがあり、まるで過去へタイムスリップしたかのようだ。当時、像のような小さな水牛も異郷で一生懸命働いていたに違いない。そんな想像を巡らせていると、不意に真っ黒な雨雲から一筋の光が降りてきた。まるで水牛から筆者へあいさつのように、私の思いを光が照らした。

ダム横の休憩所で雨宿りしながら台湾から石垣島に来た先輩移住者たちの気持ちに思いを馳せていると、突然、雷が鳴って、筆者は時空のトンネルから現実に引き戻された。「これ以上降る前に帰ろう」とつぶやき、水牛像に別れを告げてバイクにまたがり、石垣市街へ向かったのだった。

石垣島で台湾の電動シェアバイク「GO SHARE」に乗る筆者
石垣島で台湾の電動シェアバイク「GO SHARE」に乗る筆者

「福徳正神」との出会い

石垣島の「福徳廟」の案内板
石垣島の「福徳廟」の案内板

雨は全くやむ気配がない。筆者は思わず「私は噂に聞く雨男だったのか?」と自嘲し、電動バイクを走らせた。台湾の名曲「雨夜花」を口ずさんでいると、道端にひっそりとたたずむ赤い看板に気がついた。次の瞬間、目に飛び込んで来たのは「石垣島福徳廟」という文字だ。福徳廟に祀られる福徳正神は別名を「土地公」という。その土地を守る道教の神で台湾では広く信仰されているのだ。「えっ? 福徳廟? 石垣島にも土地公がいる?」と思った筆者は、急遽、廟を訪ねることにした。好奇心を胸に矢印の方向へゆっくりと進んだ。

ゴツゴツした砂利道を進むと、奥には小さな赤い建物があった。廟のようだ。筆者は整備されていない道の向こうから建物を眺めていた。すると廟の中に何人か年配の方の姿が見えたので、筆者は意気揚々として参拝しに廟へ向かった。

まずは「こんにちは」と日本語で挨拶して、「私は台湾から来た者です。遠くから台湾式の廟が見えたので、なんだろうと思って立ち寄りました」と説明した。

すると「你是台灣人嗎?(台湾人ですか?) 」と台湾語の返事が返って来たのだ。筆者がうなずくと、もう一人の男性が威勢よく「驚いた! GO SHAREでここに来る人を初めて見ましたよ! 雨も降っていますから中に入ってください!」と日本語で案内してくれた。

廟の中では日本語、中国語、台湾語の3つの言語が飛び交った。予想外のことに筆者は頭がうまく回らず、台湾語を話そうとしても、口を開けると日本語ばかりが飛び出てくる。一種のパニック状態だ。だが、実際にはどの言語を使うかは問題ではない。廟の中で互いに台湾と深いつながりがある私たちは、心で交流しているかのようだった。

詳しく聞くと、石垣島の福徳廟は石垣島に住む台湾二世が、新型コロナウイルス流行後に資金を集めて建立したものだという。名蔵というこのエリアは、当時、多くの台湾からの移住者が落ち着いた村だったそうだ。台湾から受け継がれた土地公信仰が、この地にひっそりと息づいていた。

持ち回り制の祭事から正式な廟の建立まで

筆者と台湾からの移住者(石垣島の福德廟にて)
筆者と台湾からの移住者(石垣島の福德廟にて)

当初、石垣島では土地公祭を台湾二世の家による持ち回り制で執り行っていたそうだ。土地公をまつり、毎年祭事を行うことで、台湾二世、三世にルーツを忘れないようにしてほしいと考えたのだろう。新型コロナの流行後、祭事は中止せざるをえず、家同士を行き来しての参拝も難しくなった。そこで石垣島で青果店を営む玉木茂治さん(65)は、いっそ廟を建立してしまおうと考えたそうだ。

「もし私たちが行動しなければ、石垣島にある台湾の魂はやがて消えてしまうでしょう。だから私たち二世が廟を建立しなければと思ったのです」自身も台湾二世である玉木さんはこう話す。「コロナの影響で、私たちもしばらく台湾に帰っていません」「コロナが収まったら私たちは廟をもっと充実させるつもりです。ここには香炉を置いて、屋根の瓦や彫刻も台湾のようにして……」。玉木さんの顔には希望に溢れた笑みがこぼれていた。

確かに、石垣島の廟はやや質素だ。美しさや神具の数は台湾の廟にはかなわないかもしれないが、石垣島に台湾の足跡を残そうという二世の言葉に筆者は非常に感動した。

その感動の中にいる筆者に、横にいた女性が火をつけた線香を渡してくれた。「さあ、一緒に土地公様にお参りしましょう」久しぶりにかいだ台湾の線香の香り、祭壇いっぱいのお供物……新型コロナウイルスの影響で出国が叶わない今、そしてこの土砂降りの中、石垣島に「出張」してきた土地公と話せたことは、なんと幸運なことだろうか。

線香を立て、両手を合わせて「双手合十」という台湾式の方法で参拝すると、女性が「食べてください、東京での生活がうまくいきますように」と箱づめしたぶどうを筆者に渡してくれた。筆者はそのときの感動を忘れることができない。台湾には帰れなかったが、台湾のすぐ近くのこの島で、同郷の先輩たちと笑いながら話に花を咲かせた。筆者のたどたどしい台湾語はみんなの笑いを誘ったが、石垣島で感じたのは独特な熱さのある台湾の人情だ。心にずっと貯めてきた望郷の念は一瞬にして吹き飛んだ。

土地公に祈ったとき、日本語を使ったか中国語を使ったかは思い出せないが、筆者は心から新型コロナの終息を願った。そして石垣島と台湾、この特別な縁で結びついた2つの島とこの得がたい絆がいつまでも続くようにと何度も願った。

石垣島で見た素晴らしい夕陽
石垣島で見た素晴らしい夕陽

※画像は全て筆者撮影

タイトル画像:石垣島の台湾移民と土地公を祀った福徳廟。左から二番目が廟建立の発起人である玉木茂治さん

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