「四月望雨」—時代を駆け抜けた台湾語歌謡の父・鄧雨賢
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今なお愛される「望春風」
「地下国歌(隠れた国歌)」とも呼ばれ、人々に歌い継がれてきた名曲が「望春風」だ。この曲の作詞は李臨秋、作曲は鄧雨賢。日本統治下の1933年に純純(本名:劉清香)が歌い大ヒットした。2000年に台北市政府と大手新聞社の聯合報が共同で主催したイベント「歌謡百年台湾」では、22万人の市民が参加した投票で圧倒的支持を集め、「懐かしのメロディー」部門の第1位に選出されている。台湾の人々の「心の歌」と言ってよい。日本の楽曲で言えば、文部省唱歌の「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一、1914年)のような存在ではないかと筆者は常々考えている。
さて、日本の読者のために「望春風」の歌詞を紹介しておこう。民間で伝承されているバージョンでは、歌詞の一部が別の言葉に置き換わっているところもあるが、もともとの李臨秋の原詞は以下の通りである(和訳は筆者)。
獨夜無伴守燈下 清風對面吹 / 独りの夜 灯火の下 清風が吹き抜け
十七八未出嫁 見著少年家 / 十七、八の嫁入り前の娘が 青年を見初める
果然標緻面肉白 誰家人子弟 / 色白の美男子の君よ どこの家の御仁なの
想要問伊驚歹勢 心內彈琵琶 / 恥じらい問えぬ心に 琵琶の音が響く想要郎君作尪婿 意愛在心裡 / あの御仁が旦那様なら その想い心に秘め
待何時君來採 青春花當開 / いつあなたは青春の花 この私を摘んで下さるの
忽聽外口有人來 開門該看覓 / ふと聞こえた来客の気配 扉を開けて確かめれば
月老笑阮憨大呆 被風騙不知 / 恋の神様 あきれて笑う それは風のいたずらと
自由恋愛が一般的でなかった時代に、切ない乙女心を見事に描き切った李臨秋の才覚には舌を巻くしかない。台湾語による新しい時代の新しい歌の出現に、当時の人々は衝撃と喝采をもってこの作品を迎え入れたのだった。
時代に翻弄された台湾語歌謡の父
しかしながら、「望春風」が歩んだ道のりは平坦ではなかった。それは作曲者の鄧雨賢にとっても同じだった。この曲のたどった数奇な運命は後述することとして、作曲者の鄧雨賢と彼の生きた時代をここで概観しておきたい。
鄧雨賢は1904年に日本統治時代の台湾の桃園廳中壢支廳(現在の桃園市)に生まれた客家(はっか)人である。漢文教師の父の勤務先でもあった台湾総督府台北師範学校に15歳で入学し、そこで西洋楽器に触れた。卒業後は大稻埕日新公学校で教職に就き、間もなく鐘有妹と結婚。四男一女をもうけた。29年には本格的に作曲を学ぶため、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)に留学もしている。彼が音楽界にデビューしたのは32年、「大稻埕行進曲」の作曲者としてであった。
余談になるが、この「大稻埕行進曲」は数十年にわたり音源が散逸していた。このため、文献を通じてその存在は知られていたものの、歌詞や旋律は専門家の間でも謎に包まれていた。ところが、2007年になって、現在の新北市三重区ののみの市でシェラック盤のレコードをコレクターが発見し、ようやくその全容が明らかになった。
話を戻そう。1930年代に入ると、台湾コロムビアレコード支店長の栢野正次郎が台湾での市場拡大のため、台湾語のレコード制作・販売へとかじを切った。それまでレコード化された歌は、「大稻埕行進曲」も含め、全て日本語の歌詞だった。最初の台湾語歌謡は、31年の無声映画の宣伝用音楽「桃花泣血記」とされる。この曲は人気弁士の詹天馬が作詞、王雲峰が作曲し、街頭宣伝の際に詹自身が歌って人気を博した。翌年、台湾コロムビアがこの曲をレコード化、台湾オペラ「歌仔戯」出身で同社専属歌手の純純の歌でヒットした。
33年、その才能を認められた鄧雨賢も、専属作曲家として台湾コロムビアに招き入れられた。この年に鄧雨賢の代表作のうち、「雨夜花」「月夜愁」「望春風」の3曲が誕生している。これらの作品を歌った純純は歌姫としての地位を不動のものとした。この時代、台湾では西洋楽器の楽団や録音スタジオの機材が整わなかったため、レコーディングは海を渡って全て日本で行われていた。
作曲者の死後も続く弾圧
しかし、台湾語歌謡の誕生からそれに続く黄金期は長続きしなかった。日中戦争の長期化を背景に、37年に台湾でも皇民化運動が始まると、まず新聞の中国語欄や中国語書店が廃止された。台湾語や客家語などの現地語の使用も制限された。レコードからも台湾語の歌が消えていった。それだけに留まらなかった。鄧雨賢の名曲「雨夜花」「月夜愁」「望春風」には日本語の歌詞が付けられ、それぞれ「誉れの軍夫」「軍夫の妻」「大地は招く」という名の軍歌となった。
失意のうちに鄧雨賢は40年に台湾コロムビアを辞した。新竹の芎林に転居し、芎林公学校で再び教鞭を執る生活に戻った。時勢を受け入れ、42年には東田曉雨と日本名に改名もしている。だが、その2年後の44年に病に倒れ、37歳の若さで帰らぬ人となった。
鄧雨賢がこの世を去ってからも、彼の作品は弾圧を受けた。戦後、中国国民党政権からは、鄧の遺した「四月望雨」は禁止楽曲に指定された。「四季紅」は、共産党軍(紅軍)を想起させるとの理由で「四季謡」と曲名が変更され、「月夜愁」「望春風」「雨夜花」は軍歌となった過去をとがめられたのだ。
戒厳令が敷かれた49年からは、北京語以外の台湾語、客家語、先住民語は、学校や公の場所、放送での使用が禁止された。こうした時代背景もあって、これらの作品は継承の危機にも直面していた。96年に国立彰化高級中学(高校)に落成した音楽館に「雨賢館」と命名しようとしたところ、台湾師範大学出身の音楽教師が「鄧雨賢とは誰か」と質問したとのエピソードも残されている。
民主化とともに集まる脚光と再評価
一方で、1970年代に入ると、テレサ・テン、鳳飛飛、江蕙などの歌手が、純粋に懐メロを歌うとの文脈で鄧雨賢の作品をカバーするようになっていた。状況が目に見えて変わったのは、台湾の民主化が進み、台湾の人々の本土意識が芽生え始めた90年代後半からのことだ。97年には、香港生まれの台湾人でR&B歌手の陶喆(デビット・タオ)が、従来の台湾語に北京語の歌詞も加え、新たな解釈を加えた「望春風」を発表し話題をさらった。
2007年には、大型音楽時代劇「四月望雨」(脚本原作:楊忠衡、演出・脚本改編:楊士平)が台北国父紀念館で初演、その後、高雄や台中でも公演した。筆者は10年に国家戯劇院での最終公演を観劇した。これまであまり描かれて来なかった時代にスポットを当て、鄧雨賢の足跡を総合的に理解するきっかけを作った意欲的な作品だった。
この他、12年には、鄧雨賢と純純を主人公に据え、青春群像劇の形でこの時代を描いたテレビドラマ「歌謡風華—初声」を公視テレビが放送。プロデューサーの伍中梅は、ドラマの制作の動機について「歴史や学問としてではなく、娯楽の角度から、現代の台湾ポップスの基底となった1930年代の黎明期を多くの人々と共有したかった」と述懐している。
ところで、「望春風」は台湾語だけではなく、北京語、客家語、日本語も含めさまざまな言語や地域で60以上ものバージョンが存在すると言われている。日本語版の歌詞だけでも筆者の知る限り3つのバージョンが存在する。筆者のお気に入りは、台湾の日本語世代の陳清波さんの作品だ。その歌詞を下記に紹介しておく。
娘十八花盛り 眠れぬ宵は窓辺に佇(た)ち
愛しき人よ今いづこ 教えておくれお月様春風そよぐ町角で 出逢いし君は目もくれず
面影だけは夢にまで 伝えておくれお月様切なく恋し君なれど 結ぶ縁(えにし)をなんとしょう
希望(ねがい)は一つ紅の糸 繋いでおくれお月様
台湾語の原詞の世界を忠実に踏まえつつも、日本語としての美しさ、柔らかさを存分に生かした作品に仕上がっているのには感服する。
「望春風」は90年の時を経て、今なお多くの人々から愛され続けている。台湾の中央大学鹿林天文台が2006年に発見した小惑星に、13年になってから鄧雨賢(Dengyushian)の名が冠せられた。台湾語歌謡の父は、これからも自身の作品が歌い継がれていくのを、はるか天空から見守り続けていくことだろう。
バナー写真=鄧雨賢(鄧泰超氏所蔵、開放博物館提供)