
詩人アーサー・ビナード:宮沢賢治「やまなし」の奥にはプラトンの哲学がある
People Books 文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
「クラムボン」の謎
「やまなし」は、長年、小学校の国語教科書に採用されている宮沢賢治(1896–1933)の代表作の一つだ。単純なようで、読み込めばどこまでも深まる。
時は5月。谷川の底でカニの子どもの兄弟が、水の天井を眺め、泡を吐きながら、謎の「クラムボン」についておしゃべりをしている。「クラムボンがわらったよ」「クラムボンがかぷかぷわらったよ」。やがて頭上を魚が通り過ぎる。「クラムボンは死んだよ」「クラムボンは殺されたよ」。そして、「行ったり来たり」しているその魚は、カワセミに捕食され、「こわい所」へ行ってしまう。終盤で場面は12月に飛ぶ。カニの兄弟が吐いた泡の大きさを競っていると、やまなしが「トブン」と落ちてきて、また浮き上がる。熟した果実の良い香りが、水中を満たす。こうした出来事は、全て幻燈が映し出す物語として語られる。
プラトンの洞窟と水底の世界
食物連鎖の中の生と死を投影しているかのようなこの不思議な物語を、ビナードさんは「童話」ではなく、「哲学寓話」として捉えている。「プラトンの『国家』にある“洞窟の比喩”という寓話を、賢治は読んだに違いない」と言う。
人間はだいたい自分が現実に触れていると思い込んでいるが、本当は洞窟の奥にいて、つながれた状態で存在している。入り口から差すわずかな光が目の前の壁に映し出す影を現実だと勘違いしているにすぎない—この哲学的比喩を、水面の天井を眺めるカニたちに託して表現したのではないか。そう考えるビナードさんは、英訳絵本のあとがきにこう書いた。
無限に広がる外の世界からは、時折現実が水面を割って突っ込んでくる。それを不思議がり、怖がり、追いかけたりして語り合い、考えて共有する。
水中の彼らと、人間のぼくらと、実際は同次元であることを読者に示すために、始まりと終わりに「幻燈」が据えられる。その明かりと影を見ているだけだよと、賢治は教えてくれているわけだ。(抜粋)
「『やまなし』が、プラトンの寓話をモチーフにしていると誰も指摘したことはないけれど、間違いないと僕には思えます。賢治が独自の視点で、この寓話に新たな息吹を与え、日本語の普遍的な作品に昇華させたのです」
推敲を重ねた8年間
そもそも大学で英文学を専攻していたビナードさんは、能の英訳でも知られる米国詩人エズラ・パウンドと日本語について書かれた文章をたまたま見つけた。英語はたったの26文字の世界だが、日本人は漢字、平仮名、片仮名と3種の「アルファベット」を使いこなしているのかと驚いた。「日本という国への興味はそんなになかったけれど、日本語にはにわかに興味がわきました」。大学の初級日本語の授業を聴講し、ますますその複雑さに魅了され、1990年6月、卒業と同時に来日した。
「最初は縁者も知り合いも仕事もなく、尽きない好奇心だけがありました」。いまでは、日本語を自由自在に操り、詩作やエッセー、翻訳と幅広い分野で活躍している。中でも、「3歳の頃から読んで育った」エリック・カールやモーリス・センダックの作品をはじめ、絵本の翻訳に力を入れ、日本の作品を英語で紹介することにも意欲的だ。
賢治との出会いは、来日して3年目の頃だ。「当時通っていた日本語学校の先生が、日本語で詩を書こうとしていた僕の参考になればと、詩のアンソロジーをくれました。その中に、『雨ニモマケズ』がありました。他の詩に比べて、入りやすかった」
初めて英訳した賢治の作品が、その『雨ニモマケズ Rain Won’t』(2013年、今人舎)だ。アニメーション作家・山村浩二さん(2003年、アヌシー国際アニメーション映画祭の短編部門で『頭山』がグランプリ。22年『幾多の北』が長編部門で最高賞受賞)が絵を担当した。『やまなし Mountain Stream』は、山村さんとの2作目のコラボレーションで、刊行までに8年を要した。
2人の共通点は妥協をしないことだ。「やまなし」の世界観を捉え、英語と絵で表現するために、話し合いを重ね、英文の推敲、絵の試作を繰り返した。
ビナード・山村版「やまなし」の特徴は、まず冒頭にある。ビナードさんによれば、他の英訳版では、幻燈の部分を本筋とは関係がないからと省略することもあるそうだ。だが本作では、幻燈に見入る2人の少年が描かれる。どことなくカニの兄弟に似ている。幻燈に映し出される水中のカニたちと人間の少年たちが、「同じ次元」にいると感じさせる趣向だ。
「ひろしまアニメーションシーズン2022」(8月17~21日開催)のプレイベントで、山村浩二さん(右)と『やまなし Mountain Stream』を解説するアーサー・ビナードさん (提供:ひろしま国際平和文化祭実行委員会)
英訳する上で一番の要は、カニの子どもたちが何度も唱える「クラムボン」の正体だ。賢治の説明はないので、これまでプランクトンやアメンボを基にした造語、泡、カニの母親の象徴だという見方まで、いろいろな説が生まれた。
賢治の不思議な造語を英語でどう伝えるか、ビナードさんは試行錯誤を繰り返した。文脈からは、プランクトンや無防備で幼い生き物を連想させる。 “crab”(カニ)を生かした造語を含め、たくさんの英語バージョンを作ってみて、 たどり着いたのが “Larvy-Doo” だ。動物の変態前の「幼生」や昆虫の「幼虫」を表すlarvaと、「のらくら過ごす」「いたずら書きをする」を意味するdoodle と緩くつながるdooの組み合わせだ。この英語の音には、マザーグースとも共鳴する面白い響きがあるという。
翻訳は「地図」に頼ってはだめ
ビナードさんは、宮沢賢治の唯一無二の独創性をこう表現する。
「賢治の文学は、自らが耕した土壌に種をまき、水を引いて、手塩にかけて育てた生き物です。彼が暮らしていた岩手県に根差しながらも、うんと深く根を張っていることで、普遍性を獲得しています。日本語を駆使して書いたけれど、造語が多いので、日本人読者でも何を意味しているのか分からない言葉がたくさんあります。だからこそ、辞書に頼っていては、賢治の翻訳はできません」
「やまなし」の翻訳では、「クラムボン」だけではなくタイトルについても深く考えた。これまでは、“Wild Pear”(野生のナシ)と英訳されることが多かった。なぜ、最後に登場する「やまなし」が表題なのか。「なし」ではなく、「やま=山」が大事なのではないかと思い当たったと言う。「日本人にとって、山は神がいる場所で、あるいは神の存在そのものです。最も重要な言葉だと言ってもいい。賢治の世界観と思想、そして谷川を含む生態系の全てが含まれます。それで、タイトルを “Mountain Stream” にしました」
翻訳は創作と同じくらい創造的で、労力もかかる。例えるなら、その過程の出発点には原書という「地図」がある。ただ、旅路においては、あまり地図を信じきったらだめで、一度覚えたら地図は見ずに自分で旅をしなければならない。それがビナード流のアプローチだ。
また、大掛かりな樹木の移植にもなぞらえる。「鎌倉にしっかり根を張った美しい大イチョウを、カリフォルニアまで運んで移植しようとするなら、その新しい土壌に大木がちゃんと根付いて、枝を広げて栄えることができるために、大変な労力が必要になります」
同様に、一つの文学作品が他の言語に訳されても同じ力を発揮するためには、翻訳者が原作を超える表現を見いだすぐらいの覚悟で取り組まなければという。「詩や物語は、翻訳によって、その“根”を一部失う」からだ。
山村浩二さんとは、次に賢治のどの作品を英訳絵本にするか検討中だ。「注文の多い料理店」が候補の一つだという。英語圏で賢治の認知度はまだ低いが、着実に英訳シリーズを刊行していくことで、より多くの海外読者がその作品世界を知る一助になればと願っている。
「日本でも、生前の賢治は無名で、読者を得るまでには長い年月が必要でした。だから、米国、英国で知られていないのは当たり前です。でも、いつかは必ず読まれるようになって追い付くと思います。そのためにも、まだまだやるべきことがいっぱいあります」
ニッポンドットコム編集部(インタビュー&英語記事:リチャード・メドハースト/写真&日本語記事:板倉君枝)
バナー:英訳絵本『やまなし Mountain Stream』と『雨ニモマケズ Rain Won’t』を掲げるアーサー・ビナードさん