台湾を変えた日本人シリーズ:「台湾紅茶の父」と呼ばれた新井耕吉郎
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実業家・許文龍を感動させた台湾茶業への貢献
奇美実業の創業者で2013年に旭日中綬章を受賞した台南市出身の実業家・許文龍氏が、2007年に台湾中部の湖の日月潭を旅行した際、茶業改良所魚池分場を訪ねた。そこで、責任者から今でも職員から尊敬されている日本人の新井耕吉郎よって、今日の台湾紅茶が生まれたことを知った。新井の情熱と功績の大きさに感動した許氏は、新井の胸像を4体制作して顕彰するとともに各地の資料館や博物館にも寄贈した。さらに、2009年には群馬県の遺族にも送られた。これによって、それまで無名だった新井の名前は「台湾紅茶の開祖」として知られることになった。
新井耕吉郎は1904年2月26日、群馬県利根郡東村園原で生まれた。1921年に北海道帝国大学農学部農学実科に入学。農学実科とは農学部に附設された中学校卒業者や専門学校入学者検定合格者が試験を受けて入学できる教育機関で、卒業者は「得業士」と呼ばれた。
1925年3月北海道帝国大学を卒業し、得業士になった新井は、志願して歩兵59連隊に入隊し、幹部候補生として1年間宇都宮で軍隊生活を送った。満期除隊後の1926年5月、22歳の時に台湾に渡り台湾総督府中央研究所に就職。助手として新竹の平鎮茶業試験支所に赴任した。台湾総督府中央研究所は、1921年8月に総督府農業研究所を吸収して設置されたばかりの総督府直属の研究機関である。
世界的紅茶ブームに台湾からチャレンジ
新井が赴任した当時の台湾は、領有から30年が経過しインフラ整備が進み成熟期を迎えていた。新渡戸稲造が基礎を築いた砂糖や、磯永吉や末永仁が開発した病虫害に強く収穫高を大幅に引き上げた蓬莱米に並んで、欧米向けの緑茶や東南アジア向けの烏龍茶が主要な農産輸出品だった。
お茶の歴史は古く中国紀元前までさかのぼるが、英・東インド会社が1823年にインドのアッサム地方で中国種とは異なる野生の茶樹を発見。植民地での大規模経営に成功したしたことを契機に、茶生産の勢力図が大きく塗り替えられた。
アッサム種は渋味成分となる「カテキン」を多く含み、酸化酵素の活性が強く酸化発酵しやすく、紅茶の代表的な品種として知られる。それまで欧米で主流だった緑茶に変わり、紅茶の需要が増大していった結果、台湾総督府の外貨収入が激減。台湾でも、世界に通用する紅茶づくりを目指す必要に迫られた。
日月潭の湖畔を好適地と判断
新井はアッサム種の栽培適地を求めて台湾の各地を調査した結果、中部南投県に位置する日月潭の湖畔850メートルの水社村貓囒山の斜面一帯の盆地「魚池郷」に紅茶試験場を建設することになった。1936年になると台中州新高郡魚池庄水社九ノ甲の地に新井の提案した「魚池紅茶試験支所」が建てられた。新井は平鎮茶業試験支所と新設された支所を兼務することになり、さらに5人家族を養う多忙な日々を送っていた。
ところが翌1937年の12月に召集され陸軍運輸基隆出張所に配属になった。半年たった翌1938年6月に除隊になり、台湾総督府農事試験所技手に昇進し、魚池紅茶試験支所と平鎮茶業試験支所に復帰した。再び台湾紅茶の栽培を目指した研究が始まり、各地からアッサム種の茶樹を取り寄せ台湾の原種と交配させ、台湾に最も適した品種づくりに没頭した。1941年年3月には台湾総督府農業試験場技師に昇進するとともに魚池紅茶試験支所長に抜てきされた。魚池紅茶試験支所は新井を含めて、総勢6人の職員しかいなく、支所のすぐそばに住んでいた新井は、早朝から夜遅くまで働いた。そのかいもあって併設のセイロン式製茶工場で、「台湾紅茶」の製品化に成功した。
大戦で輸出困難に
新井は自分が作り上げた茶畑を眺めながら、この地を「台湾紅茶」研究の中心地にしようと中央研究所で培った経験を生かして研究に情熱を傾けていた。新井の研究熱心さと情熱には職員が舌を巻くほどであった。ところが12月には太平洋戦争が始まり、環境が急変した。まず「台湾紅茶」の輸出ができなくなり支所の資金が切迫した上に、職員が召集され人材不足に陥った。戦況が厳しくなると茶畑で食糧の増産を要請されたが、新井は従わずに茶樹を守り続けた。それには理由があった。
当時、台北帝大に1936年から3年間在籍した教授の山本亮が、中国安微省で収集した5000種類のお茶のタネから育てた300本の苗木を新井が栽培していたのである。1945年、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏した。日本人は台湾から引き揚げることになり、代わりに蒋介石率いる国民党政権がやって来た。新井は支所長を台湾人の陳為禎に譲り、妻子を引き揚げ船で帰国させた。自分は技師として残り紅茶研究を継続する道を選択したのである。ところが翌1946年6月19日、マラリアにかかった新井は、42歳の若さで永眠した。
語り継がれる「茶業の恩人」が残した茶畑
新井が息を引き取ったとき、不思議なことが起こった。一匹の蛍が新井の上に飛んで来たかと思うと、茶畑の方に飛んでいった。職員は、新井の魂が蛍に姿を変えて、茶樹を守りに行ったと思い、号泣したという。後を継いだ陳は新井の真摯(しんし)で生真面目な姿勢で台湾紅茶の研究に一生を捧げた功績をしのび、1949年茶畑の一画に新井耕吉郎記念碑を建立、従業員たちは台湾紅茶の開祖および貓囒山の守護神として、定期的に参拝するようになる。
新井の死から21年たった1967年、新井は勲五等瑞宝章を受章する。新井が育てた台湾紅茶は「渋みを抑えたまろやかな味」で1960年代まで隆盛を極めたが、70年代に粗悪品が出回り始め、80年代には市場から姿を消した。ところが1999年に台湾中部大地震が発生、震災の復興策として紅茶の生産が唱えられる中で、無名であった新井の存在が注目を浴びるようになる。さらに2001年台湾農業委員会「茶業改良場魚池分場」において栽培品種400種の中から選抜された品種を「台茶23号」と指定し、商品名を「祁韻(きいん)」と名付けた。
この品種は、新井が戦時中に守り抜いた茶樹をもとに作り出された紅茶で、アッサム種と違い葉が小さく緑茶や烏龍茶に使われる茶葉で、花や果物の香りがする特徴を持っていた。新井が生涯をかけて作り上げた魚池紅茶試験支所の茶畑は、「茶業改良場魚池分場」として受け継がれ台湾紅茶の産地となった。
許文龍氏の顕彰もあって、今では多くの台湾の人々が新井を恩ある人として尊敬し、「台湾紅茶の父」として語り継いでいる。
参考文献
- 『日本人、台湾を拓く』まどか出版
- 『台湾と日本人』錦正社
バナー写真=台湾の紅茶農園(jemmy999 / PIXTA)