海外でも人気沸騰。『進撃の巨人』解読: 諫山創が描く「怖い絵」に人はなぜ惹かれるのか
漫画- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
世界中の人々を魅了し続ける物語
諫山創(いさやま はじめ)の大ヒット作、『進撃の巨人』(講談社)の連載が終了してからおよそ1年がたつが、その人気は衰えるどころか、ますます過熱していると言っていいだろう。
2013年から4期(※1)に分けて放送されているテレビアニメ・シリーズもいよいよ佳境に入っており、長い物語の衝撃的な最後が描かれる(であろう)「The Final Season完結編」は、2023年に放送予定である。
また、アニメ版は海外でも高い評価を得ており、もともと人気があった米国や韓国だけでなく、普段はあまり大人がアニメを観る習慣がないというスペインのような国でも注目を集めているようだ。
さて、本稿では、そんな『進撃の巨人』が、なぜ、いまも多くの人々を魅了し続けているのかについて、改めて考えてみたいと思う。
“敵”と同じ力を持ったダークヒーロー
『進撃の巨人』は、2009年から21年まで、「別冊少年マガジン」にて連載された、“巨人”と人類の歴史をめぐる壮大なダークファンタジーである。
主人公の名は、エレン・イェーガー。ある時、強固な壁に囲まれていた故郷(ふるさと)の街が、巨人たちによって破壊されたのをきっかけにして(この時、彼の母親も巨人に喰われてしまう)、幼なじみのミカサやアルミンらとともに、「調査兵団」の一員となる。
(※以下、ネタバレ注意)
そして、物語は、彼が一人前の兵士として成長し、やがて母親の敵(かたき)を討つまでが描かれる……のかと思いきや、いきなりコミックス第2巻のラストの展開を見て、読者は大いに困惑することになるだろう。
そう、早くもこの段階で、エレンの正体――つまり、「巨人化する」という異能が明らかになり、物語はより複雑で謎めいた展開を見せていくようになるのだ(ちなみに、エレンは、なぜ自分が巨人になれるのか、最初の頃は分かっていない)。
果たして人々を襲う(喰う)巨人とは何か、そして、なぜ、エレンは“敵の力”を持っているのか。これが『進撃の巨人』の序盤を貫く最大の謎であり、連載初期の頃は、まずはそのミステリー要素に多くの人々が惹きつけられたのだと思われる。
高度なモンタージュのテクニック
しかし、それはあくまでも物語のプロットや設定上の面白さであり、『進撃の巨人』が漫画――とりわけバトルを主体とした(広義の)ファンタジー漫画である以上は、“絵”の魅力で引っ張っていく必要があったのだと私は思う。
何よりも最初に目を引く絵と言えば、やはり第1巻で、「超大型巨人」が壁の上からぬっと顔を覗かせる場面だろう。また、名もなき「無垢(むく)の巨人」たちが、薄ら笑いを浮かべながら、次々と非力な人々を喰っていく姿のなんと恐ろしいことか。
これらは全て、言葉ではなく絵で絶望を語っているシーンであり、そのことだけでも、諫山には画力がある、と言い切っていいと私は思う。というのは、ファンの間でも、今なお、諫山の絵が巧いのか下手なのかは、議論の対象になっているテーマであり、確かに、(私の本業は漫画編集者であり、そういう“プロの目”で見ても)第1~2巻の頃の絵は、連載漫画のレベルには達していないと言えなくもない。
だが、漫画の絵とは、そういうことだけでは測れないものなのだ。極論すれば、漫画家には、美大に合格するような意味での画力(デッサン力)は、別になくても構わないのである(むろん、あっても損にはならないが)。
いずれにせよ、漫画とは、複数の絵が描かれたコマを組み合わせて創る物語表現であり、そのコマの連なりを巧みに“編集”できる作家こそが、“巧い絵を描ける漫画家”なのである。
なお、ここで言う編集とは、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督らが確立した映画の「モンタージュ」(※2)のことであり、現在の日本のストーリー漫画には、多かれ少なかれこの「映画的手法」が取り入れられている。
要は、諫山は、このモンタージュ――すなわち、複数の視点によるコマとコマとをつなげる能力が、新人の頃から異様に高かったのだ。それは映画に例えれば、「カメラの切り替え」のうまさだと言ってもいいだろう。具体的に言えば、巨人が人を喰う場面における「襲われる者」と「襲う者」の視点の切り替えは絶妙であるし、長い会話劇の場面でも、読者が退屈に感じないようにカット割りがかなり工夫されている。
笑いと恐怖は紙一重
また、先にも述べたように、薄ら笑いを浮かべながら人を喰う無垢の巨人たちの絵には、(当然、嫌悪感を抱く人も多いだろうが)目を背けられない訴求力(インパクト)がある。
『進撃の巨人』には、「超大型巨人」を含む、「九つの巨人」という選ばれた9体の巨人が出てくるのだが、無垢の巨人とは、言わば“それ以外”の名もなき存在であり、その正体は無理矢理巨人化させられたかつての罪人(つまり元は人間)たちである。
しかし、読者がその真実を知らされるのは、物語がだいぶ進んでからであり、読み始めの頃は、なぜだかよく分からないが、この無垢の巨人たちの怖さから目が離せない、という状態がしばらくの間、続くのではないだろうか。
そう――時に人は、「美しいもの」や「面白いもの」だけでなく、「怖いもの」をも積極的に見たいと思うものであり、だからこそ、ホラー映画や見世物小屋、グラン・ギニョール劇(残酷劇)などが、“商売”としても成り立つわけである。
諫山の漫画にも、そうした大衆の怖いもの見たさの感情をくすぐる何かが間違いなくあるのだ。そして、それを一番分かりやすい形で表象しているのが、あの、薄ら笑いを浮かべて人々を喰う無垢の巨人たちのヴィジュアルなのだと私は考えている。
何も怖い場面だからと言って、怖い表情を描く必要などないのである。むしろ、笑いながら人(に似た存在)が人を喰う絵を見せられたほうが、何倍も恐ろしい。
例えば、映画『シャイニング』のキー・ヴィジュアルにもなっている、ジャック・ニコルソンの有名な笑顔を思い出してほしい。あの笑顔なども、1枚の写真としてはどこかユーモラスに見えなくもないのだが、映画の流れの中では、心底恐ろしく見えてくるから不思議なものだ。「笑いと恐怖は紙一重」とはよく言われることだが、諫山が描く無垢の巨人の笑顔にも、同様の効果があると私は思う。
また、多くの巨人たちの顔や身体のパーツがアンバランスなのも、諫山にデッサン力がないからではなく、(おそらくは)虚構と現実の境界を曖昧にするために、あえて“変”に描いているのだということを、ここで強調しておきたい。
複雑な世界に対応できる選択肢を与えてくれる物語
だが、逆に言えば、そうした絵的なインパクトは、いつまでも持続はしない、という見方もできよう。むろん、そのことも作者は充分理解しており、だからこそ、中盤以降の『進撃の巨人』は、ヴィジュアル・ショック(だけ)には頼らない、謎解きの面白さで読者を魅了していくことになる。
そこで何よりも注目すべきは、作者の世界を見つめる視点の多様さだろう。
読者はまず、先に挙げたエレンの能力(=巨人化)が明らかになった段階で戸惑うことになるのだが、その後も状況は二転三転し、具体的に言えば――クリスタ(=ヒストリア)の素性が明らかになった時と、壁の外にも別の国があるということが分かった時、さらには、エレンが人類のほぼ全てを壊滅させようと決意した時などに、その都度、「いったい何(誰)が正しいのか」という問いを突き付けられることになる。
これこそまさに、漫画に限らず、ファンタジーやSFを読む醍醐味だと言ってもいいだろう。そう、(確かアーシュラ・K・ル=グウィンも、『いまファンタジーにできること』[河出文庫]という本で似たようなことを書いていたと思うが)良質なファンタジーとは、自分が行ったこともない遠くの場所に、自分とは違う価値観を持った人々が存在しているということを再認識するための装置であり、そのことを知っている者は、当然、自分の中に多くの“選択肢”を持つことができる。そしてそれが結果的に、“他者”との無益な争いを回避することにもつながっていくのだ。
『進撃の巨人』もそういう強い力を持ったファンタジー作品であり、単純な善と悪の二項対立では全ての物事は測れないのだ、ということを私たちに改めて教えてくれる。それゆえに、これから先の未来を担っていく子供たちにこそ、ぜひ読んでほしい作品だと常々思っている。
『シャイニング』
デジタル配信中ブルーレイ 2,619円(税込)/DVD特別版 コンチネンタル・バージョン 1,572円(税込)
発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント
販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント
© 1980 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.
バナー写真:漫画『進撃の巨人』(講談社)の単行本 共同