「大」相撲を彩る「小」兵力士——舞の海が語る「技」の極意【後編】
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取り憑かれたように食べまくった大学時代
舞の海さんが生まれ育った青森県の港町・鯵ヶ沢町は、昔から相撲が盛んなところ。神社の境内や校庭には土俵があり、舞の海さんも小学生の頃から相撲に親しんでいた。小学4年の国語の授業で、対戦相手の弱点を分析した作文を書いたという。研究熱心で知られた舞の海さんらしいエピソードだ。全国大会優勝10回を誇る古豪・木造高校で活躍し、角界に数多くの力士を輩出している日本大学相撲部に進む。入学時の体格は身長169センチ、体重65キロだった。
——体重が90キロになったら試合に出場させると監督に言われ、もともと食は細いほうなのに、「死ぬほど」食べまくったそうですね。
舞の海 はい、とにかく何かに取り憑(つ)かれたかのように食べました(笑)。朝と夜はドンブリ飯5杯、昼は学食で定食2人前。あと、少しでもお腹に入ると思ったら、牛丼やうどん、シュークリーム……。大学3年には88キロまで増えていました。
——やはり最低でも90キロ程度はないと相撲に必要な筋肉もつかないんですよね。稽古しながら食べて筋肉をつける。そうすれば90キロ台でもなんとか戦えるといわれます。
舞の海 力士として理想的な体型は、私は185センチ、130キロぐらいだと思います。憧れたのは2代目若乃花。ああいう体になって相撲を取ってみたかったなあ。もうなんでもできそうな気がします。それはともかく、あの時必死になって増量に成功していなかったらプロはなかったですね。
高校教師の職を捨てて選んだ大相撲の道
屈強な選手ぞろいの日大相撲部でもレギュラーの座をつかんだものの、当時、大相撲の世界で小柄なアマチュア相撲出身力士が活躍するのは至難の業と思われていた。実際、舞の海さんも高校教師の道を選び、山形県の高校教員採用試験に合格。ところが、卒業直前になってプロ入りを決意する。
——同郷で日大相撲部の後輩、成田晴樹さんの急死がきっかけだったといいますが。
舞の海 そうです。彼は体格(191センチ、150キロ)にも才能にも恵まれ、将来を嘱望されていました。お葬式の時、遺影の前で泣いている彼の父親の姿を見て思いました。人間ってあっけないんだな、と。自分もいつ死ぬか分からない。だったら好きなことをやろうと。
——それまで学生相撲からプロ入りするのは、体が大きい力士ばかりでした。それが舞の海さんの成功に触発されて、小さい力士も角界の門をたたくようになりました。日大の3年先輩、智乃花(元小結、現玉垣親方)もその一人。高校教師の職を辞し、27歳で立浪部屋に入門しています。
舞の海 まあ、自分の性格がちょっと変わっているというのもありますね。好奇心が強いというか。大相撲という世界の中で何が行われているのか、のぞいてみたい、体験してみたい。なんか外の人間が知らない、すごく栄養のある物を食べているのだろうか、なにか秘密の特訓があるのだろうかとか、そんな気持ちが強かった。あと、人生に安定を求めるのが嫌なこともありました。先が見えている人生なんてつまらない。この先どうなるか分からないほうがワクワク、ドキドキするじゃないですか。相撲部屋に出稽古に行くと幕下の中堅クラスには勝てる。上位にも勝ったり負けたり。自分の力が幕下20枚目ぐらいというのが何となく分かった。じゃあ十両まで20枚しかない。もしかしたら、関取になるのはそんなに難しいことではないのかな、と。
立ちはだかった「173センチ」の壁
一転、角界入りの気持ちを固めた舞の海さん。だが、乗り越えなければならない壁があった。それは当時の新弟子検査の合格基準「身長173センチ、体重75キロ」(※現在は167センチ、67キロ。ただし、3月場所受検者で中学卒業見込者に限り、165センチ、65キロ)。体重は問題なかったが身長は169センチしかない。舞の海さんは、日大出身のある先輩力士から「数センチ背を伸ばせると言っている老人がいる」と教えられ、その“施術”を受けてみることにした。
——その人は気功師? それとも霊媒師? いったいどんな施術だったのですか?
舞の海 当時、その人は相撲界でもふくらはぎなどの治療をよく行っていたようでした。ただ整体とかではなくて、患部に手を当てて“気を送る”みたいな……。親に「教科書を買う」などと言って20万円を工面し、熊本まで出向いて施術を受けました。1日15分ぐらい、横にさせられて膝に手を当てられて。3日目に「君はもう173センチを超えているバイ」とか言われて東京に帰りました。大学の合宿所に戻って「おれ173センチになっちゃったよ」と仲間に話すと、「本当か?」とみんな集まってきて。早速、壁にくっついて巻き尺で計ったら、「あれ?169センチ……」みたいな(笑)。結局、最初の新弟子検査は、鬢(びん)付け油を固めて頭髪で隠して受検しました。
——それだけ藁(わら)にもすがる思いだったわけですよね(笑)。確かに、当時の入門規定は173センチ以上でしたが、実際には、事前の根回しやお目こぼしで、それ以下でも合格した人がいたことを、私も見聞きしています。舞の海さんの師匠、出羽海親方(元横綱・佐田の山)は、後に相撲協会の理事長となるほどの大幹部でしたし、なんとかならなかったのでしょうか。
舞の海 正直、自分もそれを期待していました。なのに、測定担当の鏡山親方(元横綱・柏戸)は身長計のスライダーをガツンと押し付けてきたんです。思わず膝が曲がるくらい(笑)。
頭部にシリコンを入れて新弟子検査をパス
1990年3月、春場所前の新弟子検査で不合格となったものの、5月の夏場所で再挑戦。今度は、美容外科で頭部にシリコンを埋める手術を受けて臨む。頭皮を切開して頭蓋骨との間に袋を埋め込み、1カ月かけてシリコンを注入して173センチをクリアした。
——普通なら潔くあきらめて教職の道に進むところです。どうしてそこまでして……。
舞の海 やはり私の性格なんでしょうね。173センチという規定を勝手に作った相撲協会に腹が立ったんです。だってなんの根拠もないじゃないですか、173センチという数値には。「170センチなくとも工夫次第で絶対に大相撲でも勝てる」と反骨心がメラメラと燃え上がって……。なんか権力に向かっていく、みたいな。
——受検する前よりもさらに挑戦意欲が強くなったわけですね。そう考えると一度落ちて良かったのかもしれません。でも相当痛い思いをしたとか。
舞の海 朝起きると髪がごっそり抜け落ち、枕は血で真っ赤になっているし。毎日激痛と吐き気がする。それと平衡感覚がなくなってしまって……。入門するのに、人よりもかなり「痛い」思いをしているじゃないですか。だから絶対に元を取ってやる、みたいな(笑)。
相撲哲学 その二:立ち合いよりも大切なのは「土俵際」
——なるほど。そうした思いも入門後の舞の海さんの闘志の源だったんですね。ここで話を相撲に戻しましょう。先ほど、「立ち合いがすべて」という親方たちの偏った見解が、誤った知識を力士や相撲ファンに植え付けている、とのことでした。立ち遅れたとしても体勢を作り直せば勝機は十分に見出せる、と。このあたりをもう少し具体的に説明してください。
舞の海 大相撲中継の解説に備えて場所前に稽古を見に行くのですが、やみくもに突進のみを繰り返す力士が多いことにげんなりします。「立ち合いがすべてだ!」「もっと前に出ろ!」「頭ではなく体で覚え込め!」という指導しか受けていないのでしょう。でも私は、立ち合い以上に土俵際が大切だと思います。あの出っ張っている俵をなぜ利用しないのか。それに、体で覚える前にまず、どう自分が動けば、どう相手のバランスを崩せるか、相撲の理屈を理解しなければいけません。
——確かに、俵があるから残ることもあるし、俵を蹴って反撃する相撲もありますよね。
舞の海 俵に足が掛かってから残そうとするのではなく、その少し手前で自ら足を滑らせて前傾姿勢をつくる。そうすれば俵に足が掛かっても残すことは可能です。上体が起きたところで踏ん張っても無理。体が大きければうっちゃりとかで踏ん張れる人もいます。でも、小さい人はそこでおしまい。「これは押し負けたな」と思ったらすぐに、踏ん張れる方の足を引いて守りの体勢をつくる。この踏ん張った足と地面の角度が狭ければ狭いほど力が出ます。
相手が大きいから負けたのではない
——力士の大型化が進んで小兵力士受難の時代ですが、ファンはいつの時代も、「小よく大を制す」「柔よく剛を制す」相撲を求めています。
「相手が大きいから負けたのではない。自分が勝つ方法を見つけられなかったから負けたのだ」——私は常に、そう自分に言い聞かせて相撲を取ってきました。土俵は丸い。なぜ四角ではなくて丸いのか。そして、なぜ大相撲は体重別で戦わないのか。それは、相手に攻め込まれても勝てる術(すべ)があるからです。その術をもっともっと研究してほしい。これが、小兵力士たちへの私からの励ましのメッセージです。
《舞の海さんへのインタビューを終えて》
現役時代の舞の海さんは、身長は169センチ、体重は100キロに満たなかった。1911年の幕内力士の平均(171.6センチ、101.2キロ)とほぼ同体型である。ところが、舞の海さんが活躍した当時は、幕内平均が185センチ、150キロという超大型時代。ゆえに“相対的”には、「史上最小兵の幕内力士」といえる。ちなみに小錦との体重差は184キロで、これは大相撲史上最高の体重差対決として、いまだに破られていない。
従来には見られなかった動きを土俵に取り入れるなど工夫をして、小さな体ながら大型力士をほんろう。若貴(若乃花・貴乃花)とともに平成の相撲ブームを牽引した。
“超現実”の相撲が実現した要因としては、まずは稽古に励んだことが挙げられる。しかし、申し合い(土俵の中で二人が勝負し、勝った力士が次の稽古相手を指名する大相撲の代表的な稽古)の番数が飛び抜けて多いわけではなかった。だが、舞の海さんの場合、その探究心に定評があった。過去の自分の相撲だけではなく、栃錦や栃ノ海、旭国、鷲羽山、栃赤城ら過去の技能派の名力士たちのビデオを繰り返し見て、イメージトレーニングに努めていたのだ。
師匠の出羽海親方はかつて「アイツは1日中相撲のことばかり考えている」と感嘆していた。頭でも汗をかいていたのだ。どのスポーツでも、頭も使わなければ勝つことはできないが、角界では近年、そういう姿勢がやや忘れがちだった。いたずらに体重を増やし、ただ前に出るだけという単調な相撲が多くなり、味気なさを感じている大相撲ファンが多数存在した。そうした角界に警鐘を鳴らす意味でも、舞の海さんの相撲は価値があった。
舞の海さんの成功により、前述のように智乃花が教師の職を投げ打ってまで角界入りを決意している。そうした精神は、現在でも宇良や炎鵬、照強といった小兵力士たちに引き継がれている。
「平成の技のデパート」の存在感は、令和になっても色あせてはいない。
バナー写真:土俵上で見合う舞の海と小錦。「まるでテトラポットと相撲を取っているようだった」と舞の海さんは振り返る(1995年9月19日、東京・両国国技館) 時事