「令和の怪物」佐々木朗希を史上最年少での完全試合達成に導き、野球界をも変えた3年前の“ある選択”とは
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ついに真価を発揮した「令和の怪物」
日本の野球界は今、佐々木朗希の話題一色に染まっている。
岩手県陸前高田市に生まれ、2011年に襲った東日本大震災では津波被害によって父親と祖父母を亡くすという悲運を経験している佐々木は、岩手県立大船渡高校時代に「令和の怪物」と呼ばれるようになった。そして、千葉ロッテマリーンズへの入団からわずか2年あまりで、佐々木という存在が球界の常識さえ変えようとしている。
4月10日のオリックス・バファローズ戦で20歳5カ月という史上最年少で完全試合を達成し、13者連続奪三振という新記録も樹立した。MAX164キロのストレートと、140キロ台後半の球速で落差も大きいフォークボールの2球種だけで、オリックス打線から計19個の三振を奪った。快挙の陰に隠れて見過ごしてしまいがちだが、この日が佐々木にとってプロ入り後初めての完投だった。
また次の登板となった同月17日の北海道日本ハムファイターズ戦でも佐々木は8回まで完全投球を続け、球数が100球を超えていたことから、井口資仁(ただひと)監督は交代を球審に告げた。2試合連続完全試合の偉業目前に降板することになったが、これほど強烈なインパクトを残した佐々木のピッチングは瞬く間に世界に伝わり、再び礼賛の嵐となった。
高まる一方の注目度が、予期せぬ騒動も招いてしまう。同月24日のオリックス戦で、佐々木が判定に不服な態度をとったと受け取った白井一行球審が、何やら言葉を口にしながら佐々木に詰め寄った。この時も、佐々木の立ち居振る舞いよりも白井球審の若者に対する態度の方が「大人気ない」「傲慢だ」と批判が集まった。
直後、井口監督はここまで5試合に登板し、チーム最多の3勝を挙げていた佐々木の登録を抹消し、休養を与えた。開幕からローテーションに加わって実質1年目の佐々木に対し、疲労によるけがの発症を避けるための配慮だ。
大船渡高校卒業の段階では、佐々木の体はまだ骨の成長が止まっておらず、満足なトレーニングもできないままプロ野球選手となっていた。そうした体で160キロを超える剛速球を投じることの代償を千葉ロッテの首脳陣だけでなくファンも認識し、温かく佐々木の成長を見守っている状況といえる。
それゆえ2試合連続完全試合を目前にしながら降板を命じた井口監督に対する批判の声は皆無だった。2007年の日本シリーズにおいて、中日ドラゴンズの落合博満監督(当時)が8回までパーフェクトピッチングを続けていた山井大介を降板させてバッシングを浴びた時とは大違いである。
高校野球に一石を投じた3年前の登板回避
大記録の達成よりも、未来ある選手の体を故障から守る——野球界にそうした意識改革をもたらしたのは、ひとりの高校野球監督の決断に依るところが大きい。
大船渡高校で佐々木を指導した國保(こくぼ)陽平氏だ。現在は監督を退任し、部長を務めているが、佐々木が高校3年生だった2019年の岩手大会決勝で、指揮官の國保氏は佐々木を登板させなかった。当時、國保氏はこう説明した。
「ここまでの球数、登板間隔、気温……投げられる状態にあったかもしれませんが、私が判断し、投げさせませんでした。もちろん、私が『投げなさい』といえば、本人は投げたと思うんですけど、私にはその判断ができませんでした。展開次第で、試合途中からマウンドに上げるつもりも、ありませんでした」
つまり、故障を防ぐために佐々木の登板を回避し、さらに4番という打線の中軸を任せていた佐々木を野手としても起用しなかったのだ。
佐々木は4回戦の盛岡四戦で延長12回までに194球を投げていた。その4日後の準決勝・一関工戦でも129球を投げた。その準決勝から決勝は連投となる。國保氏は言った。
「高校3年間で最もけがのリスクがあると思いました」
しかし、佐々木の将来を守る一方で、同校にとって35年ぶりとなる甲子園の夢はついえた。強豪私立の花巻東を相手に、2対12と大敗した。甲子園で歴代最多となる通算68勝を挙げた智弁和歌山の元監督・高嶋仁氏は、当時、取材にこう答えていた。
「僕なら選手の“今”をとる。あそこ(大船渡)の監督さんは“将来”をとった。それだけのことやと思うんです。しかし、選手はそれで納得しているのか。その点が引っかかります。僕やったら、決勝にいたる過程でできるだけ使わないようにして、万全の状態で決勝に登板させましたね」
日本の高校球児は7月に地方大会を戦う。加盟校の多い都道府県では6試合から7試合程度、勝ち抜かなければならない。そして8月に阪神甲子園球場で17日間(休養日を含む)にわたって開催される全国高等学校野球選手権大会では、最大で6試合を戦うことになる。日本特有のビッグトーナメントは酷暑の時期に短期間で争われるため、選手層が厚いとはいえない公立校などは、どうしてもエースに頼りがちになってしまう。つまり、監督は「エースと心中」せざるを得なくなる。
ファンもまた灼熱の太陽の下でマウンドを守り抜く孤高のエースこそを待ち望み、数々のスターが生まれてきた。98年に春夏連覇を達成した横浜高校(神奈川)の松坂大輔や、06年に駒大苫小牧(南北海道)と延長15回を戦って勝負がつかず、再試合の末に全国制覇を遂げた早稲田実業(西東京)の斎藤佑樹らだ。
だが國保氏は、「エースと心中」を選ばなかった。
決断に際し、國保氏は佐々木本人や他のナインたちに、多くを説明しなかった。説明すれば佐々木は「投げたい」と訴え、他の選手たちも佐々木の登板を懇願する。そうなったら登板への流れは避けられない。國保氏は、ひとり押し黙って独断で佐々木の登板回避を決断し、大敗後はひとり矢面に立って悪者となったのだ。
32歳(当時)の青年監督・國保氏の決断は、英断だったのか、それとも独善的だったのか、試合の直後から賛否両論が渦巻く国民的論争となったが、あの日の決勝の采配が高校野球の“常識”を大きく変えたのは間違いない。
「エースと心中」から「継投」の時代へ
2019年の夏の甲子園に出場した学校は1校を除き、地方大会を複数の投手を起用して勝ち抜いていた。大会が始まれば、複数投手を起用する継投策の学校が目立ち、エースの連投を避けるような戦い方が主流となった。前年夏の甲子園では秋田・金足農業のエース・吉田輝星(現北海道日本ハム)が、地方大会から甲子園の決勝途中までひとりで投げ抜いた。そのわずか1年後、吉田のような球児は甲子園から消えたのだ。
そして、20年春のセンバツから導入された「1週間に500球まで」という球数制限(コロナ禍による大会中止で実際の導入は21年春)によって、「エースを投げさせない」「控え投手が先発」といった選手起用がより当たり前に行われるようになっていく。
今春のセンバツでも、準決勝まで勝ち上がった浦和学院(埼玉)が、立役者であるエース左腕の宮城誇南(こなん)を投げさせないという出来事があった。準々決勝が終わった日の夜のミーティングで、31歳と若い森大(だい)監督は「準決勝は1球も投げさせない」とナインに説明したという。
高校野球において「エースと心中」が美談とされる時代は終わりを告げた。エースを酷使する監督は批判の対象となり、一方で、投手の肩や肘の状態を第一に気を遣う監督こそ支持を集め、複数の投手を育成して継投で勝ち上がっていく手腕が監督に問われる時代となった。
もし、あの日の岩手大会決勝で佐々木が登板していても、佐々木がけがを負うことはなかったかもしれない。だが、國保氏の決断によって、成長段階にある高校球児が160キロ超のボールを投げられてしまうリスクを日本中が認識した。ゆえに、ドラフト1位で佐々木を迎え入れた千葉ロッテは、1年目の佐々木に対し一軍に帯同させながら実戦登板を急かさず、体作りを徹底した。佐々木は2年目に初めて対外試合に登板し、5月に一軍デビュー。3年目のシーズン序盤に完全試合を達成し、いまでは千葉ロッテのエース格となっている。
佐々木の将来を守った國保監督の判断は野球界に広まり、あの日の采配を否定する者はもういない。そして、令和の怪物が国民の宝として、けがなくさらなる飛躍を遂げることを、野球ファンの誰もが願っている。
バナー写真:プロ野球史上最年少、19奪三振(日本記録タイ)など記録ずくめの完全試合を達成し、祝福を受ける佐々木(2022年4月10日、千葉・ZOZOマリンスタジアム) 時事