箱根福寿院 : 媽祖神を通じた李登輝父子との知られざる物語
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日本で数少ない媽祖を祀る寺院
箱根湯本の福寿院は古くから「箱根観音」の名で親しまれてきた。その由来は、江戸時代初期に箱根の山を行き交う旅人の安全を願って建立した小さな廟(びょう)だと伝わる。82歳になる松根豊潔(まつね・ほうけつ)住職は、福寿院に来て半世紀以上経つ。
本堂の隣には異国情緒あふれるお堂があり、台湾で最も親しまれている神─媽祖(まそ)が両脇に守護神の「千里眼」と「順風耳(じゅんぷうじ)」を従えて鎮座している。媽祖は福建省の沿岸部を発祥とする道教の女神で、航海と漁業をつかさどる神として信仰されてきた。現在は陸海空の交通安全、厄除け、商売繁盛のシンボルでもある。
媽祖の祭壇には、「聖德東傳」と書かれた扁額が掲げられている。李登輝元総統が揮ごうしたものだ。なぜ温泉郷の寺に台湾の元総統が扁額を贈ったのだろうか? それは1970年代の日本と台湾の関係にさかのぼる。
1972年、日本は中華民国(台湾)と断交した。75年には蒋介石が死去。台湾は国際的な孤立の危機にさらされていた。日台関係が冷え込んでいた76年、台湾の寺から日本に留学していた2人の尼僧が帰国を前に世話になった福寿院を訪ねた際、当時の住職の提案で、2人の派遣した台湾の彰化県の清水岩寺と福寿院が「姉妹寺院」の関係を結ぶことになった。
清水岩寺が祀っているのは媽祖ではなく観音だった。しかしその後、媽祖を信仰し雲林県にルーツを持つ入江修正(いりえ・のぶまさ)氏が福寿院の住職と知り合った縁で、79年に入江氏の故郷であり、台湾の媽祖信仰の本山でもある雲林の北港朝天宮から箱根に媽祖神を迎え、併せて媽祖像を福寿院に奉納したのだ。
李登輝の父・李金龍との縁
入江氏は1980年に「日本媽祖会」を設立後、媽祖文化の普及に努め、何度も福寿院を参拝していた。「先代の住職は心の広い方で、神々にも平等でした」と松根住職は振り返る。松根住職は媽祖の信仰こそしていないが、福寿院に来て以来、先代と共に寺のお勤めに励みながら、媽祖文化への理解を深めていったという。
87年、台湾で38年間続いた戒厳令が解除され、台湾人にとって日本へ渡航しやすい時代が到来した。88年、蒋経国総統(当時)の死去に伴い、副総統だった李登輝氏が総統に就任した。その後、90年の総統選で絶対多数票を獲得し当選。中華民国国民大会代表を通じた間接選挙により、総統職の2期目を務めることになった。
李登輝氏はキリスト教の信者であったが、父・李金龍氏の影響から、敬虔な媽祖信徒でもあった。李金龍氏は熱心な媽祖の信徒で、晩年まで毎日、媽祖に線香を供え、祈りを捧げていた。
媽祖文化の普及に努めていた入江修正氏は、李金龍氏の信心深さを知り、「いつか福寿に院にも参拝してもらいたい」と話していたという。そして91年、当時91歳だった金龍氏が韓国旅行の帰途に日本へ寄って福寿院の媽祖を参拝することにした。この時の訪日は日台双方に外交的緊張をもたらすことになった。
実は、当初は台湾の駐日代表処も日本の警察も李金龍氏の訪日の話を本気にしていなかったという。福寿院の松根住職も、警察に「一体、何の話だ?」と言われたのを覚えているそうだ。ところが駐日代表処が李金龍氏にスケジュールの確認を取るやいなや、空気は一変。民間団体と共に警備を強化し、宿泊予定だったビジネスホテルを5ツ星の帝国ホテルにグレードアップさせ、ボディガードも派遣した。
初めての日台媽祖交流と大胆だった蔣孝武
1991年3月31日、警察の厳重な警護で李金龍氏と北港朝天宮からの一行は箱根入りし、福寿院を参拝した。松根住職は当時の様子をこう語る。
「警察は李金龍翁に車内でお待ちくださるようお願いしていたようですが、李翁は一行と共に歩いて行きたいと希望されました」
台湾人留学生が「金龍」をテーマにした獅子舞を披露し、歓迎の意を表した。李氏は福寿院に参拝した後、新しい媽祖の祭壇のお披露目の式典に出席、その際に当時総統だった李登輝氏からの「聖德東傳」の扁額が贈られたのだ。松根住職は当日の様子を「金龍翁は流暢な日本語で話をされ、留学生はみな記念撮影をお願いしていました」と語った。
福寿院は、100人前以上の食事を用意し、台湾からの訪問団を歓迎。李金龍氏は一行とビールを飲み、大変盛り上がっていたそうだ。「李金龍翁の鼻が赤くなっていたのを覚えています」と松根住職は回想する。李金龍氏の参拝はNHKや地元テレビ局も報道し、一夜にして福寿院の名は世に知られるようになった。
当時の駐日代表は蒋経国氏の息子である蒋孝武氏で、李金龍氏の訪日に尽力した一人である。松根住職は蒋孝武氏の大胆で真っ直ぐな人柄をよく覚えているという。
元々、蒋家はプロテスタントであったが、蒋孝武氏自身は仏教徒だった。松根住職はこんなエピソードを紹介した。当時、蒋孝武氏と話した時、蒋氏は気分が高揚したのか、突然シャツを脱いで「これを見てくださいよ!」と首にかけたネックレスを見せてくれたという。彼は「ここには仏舎利(ぶっしゃり、入滅した釈迦がだびに付された際の遺骨)が入っているんですよ」と話したそうだ。仏舎利を常に身につけているとは蒋氏の信心深さがうかがえる逸話である。
その3カ月後、台湾に戻った蒋孝武氏は病気のため台北で亡くなった。台湾のテレビ局「中華電視公司」の社長就任が内定したばかりで、まだ46歳の若さだった。松根住職は「糖尿病をお持ちとは聞いていましたが、まさかあんなに早くお亡くなりになるとは」と悼んだ。
7年連続で行われた日台媽祖交流
1991年5月、福寿院はお返しとして神輿(みこし)一基を台湾の北港朝天宮に寄贈した。松根住職は先代の住職らと共に台湾に招かれ、宗教交流が行われた。日本からの一行は神輿を担ぎ、台湾の媽祖廟を参拝した。戒厳令が解除されて間もない台湾の街に堂々と日の丸の旗が掲げられたのだ。
訪日参拝以来、李金龍氏と福寿院は連絡を取り合っていた。91年から福寿院と北港朝天宮の定期的な交流活動が始まったこともあり、松根住職は先代の住職と共に李金龍氏の自宅に招かれたり、総統府に李登輝氏を訪問したこともあったそうだ。松根住職は「私たちが部屋に入ると、李登輝総統は大歓迎して、通訳の方に『自分で直接話すから帰っていいですよ』と伝えていました」と当時を振り返る。
松根住職が訪台中だった95年4月19日、李金龍氏が逝去した。死に際に会うことはできなかったが、李登輝氏から連絡を受けて弔問すると、「日本語で構いませんから、父のためにお経をあげて下さい」と頼まれたそうだ。松根住職は他の僧侶が北京語や台湾語で読経するなか一人、日本語でお経をあげた。
金龍氏が亡くなると、福寿院と北港朝天宮の関係は少しずつ疎遠になり、97年を最後に交流は途絶えている。
中国大使館からの「見守り」から総本山に招かれるまで
媽祖交流の中断について、松根住職は「主な原因はバブル経済の崩壊で、財政的に厳しくなったことによります」と語る。最後の交流は、18カ国350人以上が参加するという規模だったそうだ。大規模な交流活動への参加は福寿院にとってかなりの負担になっていた。
当時の社会情勢とも無関係ではない。1996年に台湾で初めて行われた直接選挙による総統選で李登輝氏が当選。李登輝氏の立場は台湾史上初の民選総統となったのだ。そのため日台の政治家が福寿院と関わりを盛んに持ちたがるようになっていたという。世俗を離れ静かにありたいという福寿院は、政治とは距離を置きたいと考え、最終的にあくまで婉曲に、やんわりと申し出を断ったそうだ。
松根住職は笑いながら回想する。李金龍氏が参拝に訪れた際に、しばらく中国大使館から、動向を探る電話を受けていたそうだ。しかしその後、中国から福建省の厦門(あもい)に招かれ、媽祖信仰の発祥地であり総本山の湄洲(びしゅう)媽祖祖廟に招待された。はからずとも福寿院は日本、台湾、中国の「両岸三地」の媽祖信仰を結びつける役回りになった。
現在、寺にはすでに静寂が戻っている。しかし先代の住職が亡くなった後も、お堂の媽祖像は福寿院の手厚い保護によって、今日に引き継がれている。本堂の観音だけでなく媽祖もまた箱根の観光客と商店の日々の平安を守っているのだ。そして福寿院と李登輝氏、そしてその父・李金龍氏一家との深い縁を、「聖德東傳」の扁額が語り継いでいる。
バナー写真=箱根福寿院内にある媽祖の祭壇。李登輝総統が寄贈した「聖徳東伝」の扁額が掲げられている。手前は松根豊潔住職(筆者撮影)