ソ連建国から100年:プーチンの暴挙に内在する「帝国」の記憶
国際・海外 歴史- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
今も残るソ連時代へのノスタルジー
世界初の共産主義国家、ソ連が誕生してから2022年で100年を迎える。ソ連は1991年12月26日に崩壊した。
ロシア人には、東欧諸国を傘下に収め、北大西洋条約機構(NATO)と対峙(たいじ)したソ連「帝国」の栄光の記憶が色濃く残っている。そして、ソ連時代を知る年代の多くの国民は、今もノスタルジーを感じている。
プーチン大統領もその一人。ロシア国営テレビが放映したソ連崩壊30年を振り返るドキュメンタリー番組で崩壊についてプーチンは、「大多数の国民と同様、私にとっても悲劇だった」と語っている。
プーチンはかつてソ連の一部だったウクライナをNATOに加盟させないために侵攻を決断した。結果、欧米と日本から厳しい経済制裁を招き、世界中からの非難を一身に浴びている。
ロシアでは、戦争の真実を隠蔽(いんぺい)するために情報管制が敷かれ、反政府運動は徹底的に弾圧される監視社会が再来。まさに、ソ連暗黒時代へと国が逆戻りしている。
なぜプーチンは世界の誰もが「無理筋な暴挙」と思うことをやってしまったのか? それはソ連時代に形成されたプーチンのメンタリティーと大帝国の記憶を抜きには語れないだろう。
筆者が見たソ連
私がソ連外務省付属モスクワ国際関係大学に留学したのは1990年だ。91年12月に崩壊したソ連の最末期と言える。
ソ連は、どんな国だったのか?
まず「照明が暗い」のが気になった。空港、バス、地下鉄、どこも暗い。そして、公共交通機関で人々が話をしたり、笑ったりしないのが印象深かった。
この件について後に私は、得心のいく理由を知ることができた。大学の寮の廊下で、バルト3国(リトアニア、エストニア、ラトビア)の某国から来たという金髪の学生が話し掛けてきて、こう言ったのだ。
「いいかい。気を付けなければいけないことが2つある。まず、食堂とか大学の廊下で政治の話をしてはいけない。聞かれているからね。そして、電話で重要な話をしてはいけない。聞かれているからね」
これを聞いて、私はモスクワの人たちが人前であまり話さず、笑いもしない理由を理解できた気がした。彼らは常に盗聴を恐れているのだろうと。
もう1つ、気になったのは、物質的貧しさだ。「米国と並ぶ超大国」であるはずなのに、首都モスクワでも、車の数は少なく、道路はスカスカだった。テレビは白黒で、洗濯機や掃除機がない家も珍しくない。
私は物質面での日本との「格差」にがくぜんとし、「この国は長く持たないだろう」と感じた。
ソ連時代の栄光の記憶
しかし、歴史をさかのぼってみると、確かにソ連にも「栄光の時代」はあったのだ。
1949年、ソ連は原爆実験に成功。米国の核兵器独占体制は、たった4年で終わりを告げた。
53年、今度は水爆実験に成功。
57年、世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。
さらに61年、世界初の有人宇宙飛行を成功させた。
この時期、ソ連の宇宙開発技術は米国より進んでいたのだ。
一方、ライバルの米国は第2次大戦後、振るわなかった。
まず、49年、米国は中国を失った。内戦で、米国が支援する国民党は敗れ、ソ連が支援する共産党が勝利。中華人民共和国が建国された。
50年、朝鮮戦争が勃発。米国は韓国と共に戦い、ソ連、中国は北朝鮮を支援した。結果は引き分け。
62年にはキューバ危機が起こり、63年には米国のケネディ大統領が暗殺された。
また米国はベトナム戦争(1960~75年)に65~73年まで介入し、完敗している。
米国が沈んでいた70年代、ソ連経済は順調に成長を続けていた。73年と79年にオイルショックが起こり、原油価格が高騰していたからだ。
さて、プーチンは52年10月に生まれている。スプートニク1号が打ち上げられた時は5歳、ガガーリンが宇宙に飛び立った時は9歳だった。プーチンは祖国の偉業を誇りに思っただろう。
そして、彼の10代、20代を過ごした60年代、70年代のソ連は絶好調で、「まもなく米国を超える」と思われていたのだ。彼は祖国を誇りに思いながら成長していったに違いない。
プーチンは子供のころから「スパイになる」という、変わった夢を持っていた。
そして75年、レニングラード大学法学部を卒業し、国家保安委員会(KGB)に就職する。夢をかなえ、大いに喜んだことだろう。
ソ連崩壊後のプーチン
1985年、33歳のプーチンは東ドイツのドレスデンに派遣された。第2次世界大戦後、ドイツは資本主義陣営に属する西ドイツと共産主義陣営の東ドイツに分断された。つまり、ドイツは当時、西側陣営と東側陣営の境目であり、極めて重要な場所だった。
プーチンが東ドイツに駐在中、ソ連にとっての悲劇がこの国で起こった。東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が89年11月に崩壊したのだ。やがて、5000人の市民がKGBと協力関係にあった東ドイツの秘密警察「シュタージ」のドレスデン支部を襲撃、占拠する事態に。事件後、プーチンは銃で武装し始めたという。
90年、プーチンは生まれ故郷のレニングラードに戻った。この年の10月、東西ドイツは再統一を果たしている。
92年、プーチンはサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)の副市長になっていた。
96年には、モスクワに移り、ロシア大統領府で働き始める。
98年、プーチンはKGBの後身に当たる連邦保安局(FSB)長官に任命された。
スパイになることを夢見ていた少年は、ついにスパイ組織のトップに上り詰めたのだ。
しかし、彼はここで終わらなかった。99年には首相に、そして2000年には大統領という頂点を極めた。
「米国陰謀論者」としてのプーチン
プーチンの心の奥深くにあるものは、何だろうか?
モスクワに28年住んでいた私が見るに、彼は「米国陰謀論者」だ。実を言うと、年配のロシア人には、米国陰謀論者が多い。
彼らは、どこかの国の要人が殺されると、自動的に「米国がやったのでは?」と疑ってしまう。
なぜ、そうなのか。これはソ連時代の学校教育で、「私たちの国は悪の資本主義を打倒するために建国された」「具体的には、資本主義の総本山米国を打倒するのが使命だ」と洗脳されたからだ。
プーチンの場合、KGBで教育を受けたため、洗脳はさらに深い。「諸悪の根源は米国だ」と信じて疑わないように見える。そうした「反米メガネ」をかけたプーチンには、世界がそう見えるのだろう。
プーチンは2003年のジョージア革命、04年のウクライナ革命、05年のキルギス革命、14年のウクライナ革命は、全て「米国の仕業」と確信している。
そして、米国がNATO不拡大の約束を破ったことに憤り続けている。90年2月9日、旧ソ連のゴルバチョフ大統領との会談で米国のベーカー国務長官は、以下のように語った。
「もし米国がNATOの枠組みでドイツでのプレゼンスを維持するなら、NATOの管轄権もしくは軍事的プレゼンスは1インチたりとも東方に拡大しない」
プーチンは、しばしば「米国はNATOを東方に拡大しないと約束した」と主張する。「米国がウソをついた」と。
実際、冷戦崩壊時、16カ国だった「反ロシア軍事同盟」であるNATO加盟国は、現在30カ国まで増えている。しかも「旧ソ連」、つまりプーチンから見ると「元自国領」のバルト3国もNATOに加盟した。
さらに、米国は旧ソ連のウクライナ、ジョージアも加盟させようとしている。これが今回のウクライナ侵攻の口実になった。
旧ソ連国の主権を認めようとしないプーチン
ソ連はロシア人にとって、「拡大ロシア」だった。それで、旧ソ連諸国について、いまだに「自分たちの土地」という意識が強い。
例えば、年配の人は旧ソ連産の食料品について「エータ ナッシ プラドゥクティ」などと言う。「これは私たちの食品だ」という意味だが、転じて「国産」という意味になる。実際は31年前に独立を果たした国の「外国産」なのだが、少なからぬ年配者の思考回路はソ連崩壊前で止まっているのだ。
69歳であるプーチンの脳も、ソ連時代のままのようにも見える。ちなみに彼は携帯電話、ネット、メールを使わないと公言している。文字通り、プーチンの「時代」は、ソ連崩壊前で止まっているのだ。
問題は他の国の時間は動いているということだ。ウクライナやジョージアは、すでに31年間、独立国家の道を歩み、自国の進むべき道を自分で選ぶ権利がある。
しかし、「ソ連脳」のプーチンは、そのことを容認できず、ウクライナ侵攻を断行。国内で反戦デモが盛り上がると、容赦なく弾圧した。
ちなみに、ロシア国内では今、「戦争」という言葉を使うと逮捕される。戦争ではなく「特別軍事作戦」という用語を使わなければならない。
さらに、SNSでウクライナで起こっている情報を投稿すると、「フェイク情報拡散罪」で、懲役15年になる。要するに、プーチンは自分が生まれ育ったソ連時代に新生ロシアを逆戻りさせたのだ。
筆者の知り合いのロシア人は口をそろえて言う。「戦争が始まって1週間で、ロシアは30年前に逆戻りした」と。日本、欧米の自動車会社はロシアへの輸出、ロシアでの生産を停止した。マクドナルドやスターバックスは大部分の店舗を閉じている。プーチンは彼の願い通り、ロシアを厳しい情報統制、監視社会、モノ不足のソ連時代へと引き戻した。
しかし、国民は、それを望んでいるのだろうか? 少なくともウクライナ国民はソ連への回帰を望んでいないことは確実だ。
バナー写真:第2次世界大戦での対ドイツ戦勝76年を祝う式典で演説するプーチン大統領(2021年5月9日、モスクワの赤の広場で) タス=共同