台湾を変えた日本人シリーズ:阿里山に鉄道を通した河合鈰太郎
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世界遺産候補の最右翼・阿里山
台湾がユネスコに加盟したら、十指に余る世界遺産候補地を推薦するであろう。その中の最右翼は台湾中南部、国家風景区に指定されている阿里山の森林鉄道だ。嘉義駅から阿里山駅まで72.5キロ、標高差2244メートルを、762ミリの狭軌道でスイッチバックやスパイラルを繰り返す特徴を持つ。建設当時にはトンネル72、橋は114もあった。標高差があるため、熱帯、亜熱帯、温帯の植生を車窓から楽しむこともできる。観光用の鉄道としてアンデス高原鉄道やインドのダージリン鉄道とともに、世界三大山岳鉄道の一つに数えられている。
実際には阿里山という山はなく、15の山々の総称で、標高3952メートルの東アジア最高峰の玉山も含まれる。戦前、この山は明治天皇の命名で、新高山(ニイタカヤマ)と呼ばれていた。
1895年日清戦争の結果、台湾を版図に入れた日本は、基隆から高雄間に縦貫道路を敷設する必要に迫られた。そのための資材が阿里山一帯にあることに台湾総督府民政局は着目。新種のヒノキ「台湾紅檜」(タイワンベニヒ)が見つかった。現地の先住民族ツォウ族の協力で、新高山の西方に樹齢千年以上の広大な針葉樹の原生林が広がっていることが分かった。また、この時の調査で樹高50メートル余り、直径6.6メートルを超える推定樹齢3000年の巨木を発見した。後に「阿里山神木」と名付けられる台湾紅檜である。
総督府の調査の結果、栂(ツガ)、亜杉檜(アサンヒノキ)、姫小松、樫(カシ)などは全体の20%、それ以外は紅檜(ベニヒ)や扁柏(ヘンパク)で、15万本以上もあることが判明した。特に、台湾紅檜と扁柏は阿里山を代表する巨大木で油分が多いため、腐りにくくシロアリ被害も少ない美材として重用されることになる。
後藤新平が招へいした専門家
水運による木材の運搬ができなかったので、台湾鉄道敷設部の長谷川謹介技師長の下で事前調査を実施。当時の後藤新平民政長官が、林学博士の河合鈰太郎(したろう)博士を招へいした。河合は1865年に名古屋市で生まれ、1890年には帝国大学農科大学林学科を卒業、97年に東京帝大の助教授に就任した。さらに同年、西側先進国の森林開発と営林制度を学ぶために、ドイツとオーストリアに留学した。この頃、外遊中だった40歳の後藤と知り合った。1899年に博士号を取得し、日本初の林学博士になった。
1903年に帰国した河合は東京帝大の教授に就任。後藤長官の招へいに応えて、台湾に出張した。台湾出張は以後1914年まで計5回に及ぶ。河合の結論は、阿里山の森林が材木として高品質で、資源量も充分であるので、森林鉄道の建設が有用と結論し報告した。
問題はどのルートにどのような鉄道を敷設するかだった。嘉義駅から阿里山駅間は全長72.5キロ、標高差2100メートル余りあり、難題をいくつも抱えていた。阿里山森林鉄道は大まかに分けると3区間になる。最初は嘉義から竹崎までの平坦区間の14キロ、次は竹崎から奮起湖までの32キロ区間、最後が奮起湖から沼平(阿里山駅)間の27キロ区間である。特に、中間区間の標高743メートルの独立山をどのようにして乗り超えるかという大きな課題があった。
カタツムリで思いついたループ方式
河合は独立山を乗り切る方策としてスパイラルループ方式を考えた。この方式は直線にしてわずか800メートルの距離をスパイラルループ方式だと5キロを必要とし、しかも高低差200メートルしか稼げないが、安全性を第一に考えた提案であった。この方式は、世界の登山鉄道には例がない。河合がこの方式を考えついた背景には、面白いエピソードがある。
ある日、現地で農夫と雑談中に、そばにいたカタツムリを指さした農夫に「このカタツムリの殻のように何重も旋回させればどうか」と言われ、スパイラルループ線と8の字ループ方式による登坂を考えついたという。
総督府の長谷川謹介らの技師は、縦貫鉄道建設の理念である「速成延長主義」を唱え、2本のレールの中央に歯型のレールを敷設し、車両の床下に設置された歯車とかみ合わせ急勾配を登り下りするラック式鉄道の導入に積極的であった。しかし、河合は安全性第一主義を唱え、ループ線案を決して譲らなかった。ところが1904年の帝国議会で、河合案は建設費が高過ぎるとして否決されてしまう。
“右腕” 的存在の2人が殉職
建築方法が民営に切り替えられて藤田組が請け負ったが、難工事のため撤退。1908年、阿里山鉄道の未完成を惜しんだ総督府殖産局長が、工事を再開するにあたって河合博士を招へいした。河合は殖産局林務課嘱託として5月に渡台した。再び予算案が帝国議会に提出され、日露戦争が終わっていたこともあり無事通過した。1910年に工事が再開されると、河合は渡米しライマ社製のシェイ・ギヤード式蒸気機関車を購入した。このシェイ式機関車は右側にシリンダーを備え、ギアで車輪を回転させる左右非対称の蒸気機関車である。小回りがきき、登坂力に優れた登山鉄道用に開発されていた。
河合のもとには右腕の進藤熊之助技師に加えて、教え子で青森の津軽森林鉄道を設計し工事に携わった二宮英雄が、総督府技師として赴任してきた。敷設工事は順調に進み、1912年には二万坪駅まで開通。さらに1914年には、三重スイッチバック方式による運転で沼平までの全線が開通した。
ところが、この間に河合が頼りにしていた二宮が職員の伐採した大木の下敷きになり殉職。また、全線開通後の試運転で転覆事故が発生し、進藤が殉職した。2つの事故は河合を悲しみのどん底に突き落とした。河合は二宮の顕彰碑に揮毫(きごう)し、二万坪に進藤の殉職碑を建てた。
明治神宮、靖国神社、東大寺などに使われた阿里山の木材
生態環境を維持しながら伐採計画を立てる手法や、森林資源の保持を考慮した植林事業などについても、河合自身が直接指導した。伐採した扁柏や紅檜、亜杉は、森林鉄道で嘉義まで運搬、米国製の近代的な製材機で加工し、あるいは丸太のままで日本内地や中国大陸に移出した。
明治神宮の大鳥居や橿原神宮をはじめ、靖国神社神門、三嶋大社総門、東大寺大仏殿、桃山御陵、乃木神社、筥崎(はこざき)八幡宮、東福寺仏殿など多くの神社や寺社に阿里山のヒノキ材が用いられた。
昭和期に入ると、林業の中心が八仙山や太平山に移っていくが、終着の沼平駅周辺は高地のためマラリアを媒介する蚊がいない。そのため観光地としての開発が進み2000人が居住するようになる。小学校、郵便局、営林派出所、林間学校、阿里山神社、阿里山寺、迎賓館などが造られていった。
一方、帰国した河合は山林史にも興味を持ち「測量学」や「木材識別法」などの著書を残した。専門の林学に関しては、理論だけでなく経験のいずれにおいても右に出る者がいなかった。河合は学問的関心の幅が広く、漢学とドイツ語に堪能で文才があり、晩年になってからは哲学も研究した。
第一次世界大戦後に阿里山を訪れた河合は、貴重な紅檜や扁柏が大量に切り倒され輸出された現実を目にした。かつてうっそうとした森林が、様相を変えている状況を見た河合は、阿里山の効率的な開発に加担したことを後悔したという。河合は山を愛し続けた林学博士でもあった。
河合は1926年に退官し、1931年東京の自宅で永眠した。享年67歳。逝去から約3年後、門下生らが阿里山神社の境内に慰霊碑を建立した。正面には西田幾多郎の揮毫(きごう)による「琴山河合博士旌功碑」の文字が刻まれている。「琴山」とは河合の号である。河合は、近代森林学の先覚者であり、「阿里山開発の父」として慕われる日本人でもあった。
参考文献
- 片倉佳史 古写真が語る台湾 日本統治時代の50年
- 勝山写真館 台湾紹介最新写真帳 昭和6年発行
- ジャパンツーリストビューロー 台湾鉄道旅行案内 昭和9年発行
バナー写真=阿里山森林鉄道(Richie Chan / PIXTA)