51年ぶりの日本人2位入賞:反田恭平、ショパンコンクールを語る
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12歳時の出会い
―いつ頃からショパンコンクールを目指していたのですか?
「初めて存在を知ったのは12歳の時ですね。テレビのドキュメンタリー番組を見て、こういう世界があるんだと。僕はその頃、サッカー選手になりたかったので、ワールドカップでロナウジーニョやベッカムがボールを蹴ると、世界中の何千万人という人が沸き上がる、そんな世界に憧れていました。でも、そのドキュメンタリーを見たら、最後の一音を弾き終わるやいなやお客さんが立ち上がって拍手をして、こんなにも盛り上がるんだと。そういう世界があると知ってからは、あの舞台に立ちたいと意識するようになりました」
―実際に応募することにしたのは、どんな思いがあったからですか? 反田さんはデビューされてからすぐに「チケットが取れないピアニスト」と言われるほど活躍されていたわけですが――。
「ありがたいことに『チケットが取れない』と言っていただいていましたが、その一方で、僕の中では、これは日本でだけのことという思いもありました。日本でいくらもてはやされようが、クラシック音楽は欧州が本場ですから、向こうでも評価されたい。そのためにはどうしたらいいか。もちろん、代役(予定されていた演奏家の代演を務めること)デビューという機会もありますが、手っ取り早いのはコンクールだと思ったのです。
2017年頃に、(ショパンコンクールを)受けるのであれば、事前準備をしておかなければと思ってポーランドに留学したのですが、受けるか受けないかは、最終エントリーの期限近くまで悩みました」
直近2大会4000曲の演奏をデータ化
―ショパンコンクールの予備審査は、書類と演奏の音源審査でした。その結果が発表されて初めて反田さんのエントリーを知った方が多かったようですね。
「書類審査の結果を見て、『反田が出るのか!?』とビックリされた方も多かったようですね。何で出るんですか、今さら必要ですか、と結構、言われました。それもあって、入選漏れするわけにはいかないと、少なからずプレッシャーがありました。
僕の中でエントリーの意思が固まったのは、自分の力を試してみたいという気持ちがあったからです。他にも、小さい頃から憧れていたあの舞台のファイナルで協奏曲を弾きたい(ファイナルはショパンのピアノ協奏曲第1番か第2番を弾く)という思いも。
また、その頃には、自分の周りにJNO(ジャパン・ナショナル・オーケストラ。18年に反田が中心となって創設したMLMダブル・カルテットを起源として、19年にMLMナショナル管弦楽団へと発展、21年にJNOへと改名した管弦楽団)のメンバーがいた。彼らが国際コンクールに挑んでいく姿や、国内でもプロのオーケストラに所属して首席のポジションを取る姿を見て、自分がコンクールを受けるのは避けて通れないという思いもありました。JNOを世界で有名にするためにも、発起人の僕がまず有名にならないと世界で活動できるオーケストラにはならない、ということも、コンクールに出た一つの理由ですね」
―反田さんは出場が決まってから綿密な戦略を練られたことで知られています。実際、どのような戦略で臨まれたのでしょうか?
「ショパンコンクールの直近2大会の参加者がどの曲を、どういうふうに演奏したのか、4000曲分をデータ化しました。1次予選ではどの曲を弾いたら通りやすいのかとか(ショパンコンクールは第1次~第3次予選を経てファイナルで順位が決まる)。それから過去2回分の審査員のコメントも全部読みました。前回の審査委員長のコメントで面白かったのは、そのときの参加者は全員課題曲としてワルツを弾いたのですが、それに対して、『一人もワルツのテンポで弾かなかった』とか、『アイデアが足りない』と。そういったコメントも吸い上げて、こういうふうに演奏しようということを練り上げていったわけです。基本的にコンクールに向けては、コンクールで勝ち残るためのショパンを作り上げようと思っていました」
「君はピアニストではない。芸術家だ」
―実際、そうした過去の傾向を踏まえて演奏されたわけですか?
「1次予選は正直に言うと、審査員の傾向も分からないし、結果がどう転ぶのか、見当がつかないので、無難に弾くしかなかった。1次予選の結果が出て、傾向がだいぶ分かるようになりました。とにかく、自分の個性を出した者勝ちでした。個性が強い人、もしくは反対に、かなりオーソドックスに弾いた人が残っていった。僕は自分の好きなように弾くことはいつでもできるけど、それだけになってはいけないと思っていました。そこで大事になってきたのが、2017年から教わっていたポーランド人の先生の意見。先生からショパンのルールというものをたくさん教わりました」
―どのステージも非常に考え抜かれた選曲でしたね。
「2016年頃から本格的にプログラムを考え始めて、実際にツアーでもショパンの曲を弾いてみて、自分はどの曲が得意かを見極めました。プログラムの構成能力や見せ方も審査のうちに入っていると思っていたので、今の自分が何をどう伝えたいのかということを考え抜いて選曲を決めました。授賞式のときに審査員のケヴィン・ケナー氏が『君はすごくプログラムを考えたね』と言ってくださって。厳しさで定評のある彼に言われたのは、とてもうれしかったですね。それとブラジル人審査員のアルトゥール・モレイラ・リマ氏が『君はピアニストではない。音楽家、芸術家だ』と一言だけ言って帰って行った。最初は『ん?』とショックだったけど、よく考えてみたら、一番うれしいコメントだったかもしれない。コンクール期間中は、歴代の入賞者の方々などいろいろな方からコメントをいただいて、とても励まされました」
―髪型にも気を配っていたそうですね。現地のメディアでは、「サムライヘアー」と呼ばれていました。
「音で勝負しようということはもちろんあるんですけれど、それだけでは難しい。何かトレードマークになるようなものはあった方がよいと思います。審査員はもちろん、地元の人達にも顔を覚えてもらった方がいい。SNSやユーチューブが発達しているから、世界中の人たちにもアピールするように、髪を伸ばしたりひげを生やしたりしました」
―肉体改造では、筋トレもされたとか?
「ロシアのモスクワ音楽院に留学していた頃、マリインスキー劇場でデニス・マツーエフという、身長198センチのすごく体格がいいピアニストがプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番を弾くのを聴いたことがあります。オーケストラの音がかき消されるぐらいのピアノの大音量で、それを聴いて、自分の音はなんてか細いんだろうと。それもあって、骨格は変えられないけれど、筋肉は変えられると思い身体作りをしました。
ショパンコンクールの会場(ワルシャワ・フィルハーモニーホール)の音響がどうなのか、協奏曲でオーケストラに負けないような音量を出せるか心配もあったので、とにかく、たくさん食べてよく指を動かしました。僕はもともと筋肉質なので、ちょっとやればすぐ筋肉が付くんです」
ピアニストと指揮者の二刀流に挑む
反田の活動はとどまるところを知らない。ピアニストとしてのオファーも次々に来ているそうだが、これからウィーンに行き、ベルリンフィルの首席指揮者キリル・ペトレンコもレッスンを受けたことのある湯浅勇治氏に指揮を習う予定だという。そして、さらなる大きな夢も……。
―今後は指揮者としての活動も本格化させていくご予定とか?
「オーケストラのサウンドは何ものにも代えられない快感です。ピアノはもちろん、素晴らしい楽器ですけれども、体全体で音楽を浴びたいという思いも小さい頃から強かった。これから思う存分、指揮の勉強ができるのは楽しみです。ピアノと指揮の割合は6:4か7:3くらいになるのでは。年に10回ぐらいは、自分を高めるためにも指揮をしていきたい。オーケストラを知ることによって、ピアノ演奏へのフィードバックも得られますし。指揮では、オペラやバレエも勉強したいですね。オペラの勉強はモーツァルトから始めているのですが、いずれ『魔笛』は振りたいと思っています」
―音楽学校を作るという構想もあるそうですね。
「JNOが有名になっていけば、その次には学校ですね。第一線で活躍する演奏家たちの授業が受けられるようなディプロマ・コースと一般向けの音楽学部を作りたい。ショパンコンクールで2位タイになったアレクサンダー・ガジェヴ(イタリア)と3位のマルティン・ガルシア・ガルシア(スペイン)も、自分の祖国に音楽院を作りたいと言っている。僕もそっちの学校に行くから、二人とも僕の学校にも来てよ、と約束しています。でも、現時点では何も決定しているわけではないので、実現できるかはここ5年ほどのJNOと僕の活動で決まってくるのではないでしょうか」
撮影:上平庸文 北青山「スタインウェイ&サンズ東京」にて撮影